三本の矢の真実
通説@「三本の矢は史実ではない」
通説A「三子教訓状」をやさしくしたのが三本の矢の話である

とよく言われていますが、そんなことはありません。

理由@そもそも、もともとの話の矢の本数は三本でなかった。
理由A「三子教訓状」と矢の話の直接の関連はない。

ついでに言うと、史実である可能性もある。

と 声高々に主張します。

詳しくは平成21年に行った広島城企画展「三本の矢物語〜毛利元就からサンフレッチェ広島まで」で紹介しましたが、ここではより分かりやすく紹介していきます。


三矢の訓とは?
   三本の矢の話、よく三矢の訓(みつやのおしえ、さんしのおしえ)とは、毛利元就が臨終に際して、長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景を枕もとに集め、矢は一本では折れやすいが三本では折れにくいことを示して、兄弟三人が一致協力するように言い聞かせるという逸話で、戦前の教科書などに掲載されています。

1 三矢の訓にまつわる話
(1)「毛利元就の矢の話」の変遷

「毛利元就の矢の話」は、最初から「三矢の訓」の形であったわけではなく、毛利元就に関する一次資料にはなく元文年間(1735-41)頃の書物であるとされる『前橋旧蔵聞書』巻五に初めて登場すると考えられています。そこには、「その子どもの数ほど矢を取り寄せて、一本ずつ折れば折れるが、多くの矢を一束にすれば細いものも折れない」と書かれ、三兄弟のうち隆景は登場するが隆元と元春は登場しません。それ以降、湯浅常山『常山紀談』、大槻磐渓『近古史談』、岡谷繁実『名将言行録』などでも記載され、明治15年(1882)に元田永孚が著した『幼学綱要』で定着し、修身の教科書などで使用されていきます。そこで目的とされたのは兄弟仲良くしなければならないという「共同」の精神です。 しかし、この時期は、矢の本数も子どもの数も「三」ではなく、毛利元就が多くの子どもを前に束矢を折らせるという話が語られています。 「三」になり始めるのは子どもの数が先で、明治20年代中頃に入ってから教科書の挿絵に描かれていくが、大正時代ころまでは混在が続きます。 矢が三本として定着するのは大正時代後半頃であると思われるが、最も古い資料は明治38年(1905)です。 そして、昭和初期には三人に対して三本の矢という物語はほぼ定着し、いつのころからか子どもがたくさんであったこと、矢は束矢であったことは忘れ去られて、現在も「毛利元就の矢の話」は「三」として定着していくのです。まとめると次のようになります。

年代 子どもの数 矢の本数 備考
江戸時代〜明治10年頃 たくさん たくさん 隆景が登場、他の2人は登場しない
明治10年代中頃〜20年代中頃 たくさん たくさん 隆景は登場しない。子どもは特定されない
明治20年代中頃〜大正時代 三人の事例が増加 たくさん 絵が三人になり、次第に文章も三人になる。子どもは当初は特定されないが、大正時代頃に特定される事例が見られ始める
大正時代後半〜昭和初期 ほぼ三人になる 三本になる 明治時代後半に事例があるが、定着はおそらく大正時代末期
現在 三人 三本

一方、同じ「共同」の精神を伝える修身書として、「三本の棒の話」や三兄弟に書き物を渡して戒める話や「三子教訓状」のことをやさしく伝えた事例も登場します。

(2)世界に広がる類似の話
イソップ物語には、俗に「棒の話」という話があり、そこでは「兄弟喧嘩ばかりしている農夫の息子に、棒を束のまま渡して、折ってみろと言った。いくら力を入れても折れないので、今度は束をほどき、棒を一本ずつにして渡した。息子たちが易々と折っていくのを見て、農夫が戒めた」とある。また、中国の「吐谷渾伝」には、「その王阿豺に子どもが20人おり、死の間際に子に1本の矢を折らせると簡単に折り、残りの19本を折らせると折れなかったことを通して、力をあわせることの必要性を説いた」という話がある。このほかにも同様の話が古今東西幅広く残されている。
(3)「毛利元就の矢の話」は史実か?
戦前からこの話の肯定論と否定論がくり広げられている。否定の主要な材料として、毛利元就の臨終の元亀二年(1571)においてすでに長男隆元は九年前の41歳で他界し、元春が臨終にはいなかったことや、子ども向けのたとえ話にはそぐわないこと、世界中に同様の話があるから史実ではないなどと主張しています。一方、『前橋旧蔵聞書』以降明治時代初期の資料には、どこにも臨終に三人が立ち会ったとは書いていなません。毛利元就の正妻の子である三人はよく知られていますが、それ以外に六人の庶子がいたのです。臨終の折にはその多くが幼い子で、「隆景及び子ども大勢」と書いていることに少しも矛盾しない。しかしながら、「毛利元就の矢の逸話」そのものを伝える一次資料がないため、否定も肯定もできません。これまで見たとおり、類似の逸話(寓話)が存在することから、この話が毛利元就のオリジナルではないことは確かですが、博学であった毛利元就がこれらの話を知っていた可能性も否定できず、世界の話が既にあるからといって否定する根拠には全くなりません。史実との関係を場面設定を含めて簡単にまとめると次のとおりになります。

こども 場面 評価
『前橋旧蔵聞書』 小早川隆景と多くのこども 束の矢 臨終 史実と矛盾しない
『幼学綱要』など 小早川隆景と多くのこども 束の矢 臨終 史実と矛盾しない
明治初期の本 多くのこども 束の矢(多くの矢) 臨終 史実と矛盾しない
明治中期の本@ こども三人 束の矢(多くの矢) 臨終 史実と矛盾しない
明治中期の本A こども三人 三本の矢 臨終 史実と矛盾しない
明治後期の本
(現在よく知られるパターン)
隆元・元春・隆景 三本の矢 臨終 史実と矛盾
大正頃の本 隆元・元春・隆景 三本の矢 ある時 史実と矛盾しない


2 毛利元就の三子教訓状にまつわる話
(1)三子教訓状について

弘治3年(1557)毛利元就は長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景への戒めを書きつづった「毛利元就自筆書状一通」(毛利家文庫405号)、いわゆる「三子教訓状」と呼ばれる書状を書き送りました(もちろん史実です)。この資料は、毛利家の家訓で、その成立の背景としては当時の毛利氏が抱えていた政治的状況を解決するため、兄弟が結束する必要性を説いたものとされています。 この資料は全十四条からなり、大まかな内容としては、毛利家の家名存続が最も重要であり、そのためには三人が仲良くするようにと書かれています。このなかで、兄弟結束の必要を説いているのは、第一条から第九条までで、第三条では、「兄弟三人が疎遠になったら、三人とも滅亡すると思いなさい」と、仲良くするようにと戒めており、そのことから、「三矢の訓」とよく似た部分があります。三子教訓状に関する研究は多く存在しますので、ここではそれ以上の言及は省略します。
さて、 「三子教訓状」が世の中に知られるようになったのはいつごろでしょうか。これは意外と新しく、大正時代のことです。それまで修身の教科書のなかでは、「矢の話」や、「三本の棒」(三本の棒の上に本を立てるにはどうしたらよいかという解決方法を問うことで、協同の精神を伝える教訓)であった国定教科書の「協同」は、毛利元就が三人の子どもに対してある書き物を伝える三子教訓状の内容をわかりやすくした内容のものが登場します。
(2)三子教訓状と三矢の訓との関係は?
教訓状の内容は、一部は知られていたものの、基本的には門外不出で、あのような14か条の書状が毛利家に残されていることは知られていませんでした。しかし、毛利家に伝来していた三子教訓状が大正時代に一般に知られるようになったちょうど、「毛利元就の矢の話」の子どもの人数が三人に変化していく時期にあたります。三子教訓状は、「共同」、「一致団結」という点で共通点があったことから、次第に三人に対する教訓状に合わせる形で三人に対する矢の訓とに変質し、次第に混同されたものと考えられます。
混同されたため、もともとの話がどういったものかすら分からなくなってしまったのです。また、まったくルーツの違う話であったにもかかわらず、大正時代の学者にはすでに三本の矢のルーツは「三子教訓状」であることを書物に書いています。すでに混乱がおき、次第に同一視されていっています。その証拠として、隆元、元春、隆景の三人に矢の逸話を通して戒めるという物語が昭和初期に登場する。この設定場面は臨終ではなく、「ある時」となっていることから、物語の基本的な流れは「三矢の訓」、場面は「三子教訓状」からとったものであろう。一般には、「三矢の訓」と「三子教訓状」が同じ「三」であることから、「三子教訓状」をやさしく伝えるために作られたのが「三矢の訓」であるという説がまことしやかに語られ、インターネットのサイト、各種書籍にも沢山書かれていますが、これまで見てきたように「三矢の訓」はもともと「束矢」であったことから、それを裏付ける根拠はどこにも存在しません。
そもそも、この時代、三子教訓状とは言われていません。遺訓状、遺誡状といった表現で使われています。「三」からみの話については、また機会をみて紹介します。重複する部分もありますが、両者の関係をまとめると次のとおりです。

矢の話 教訓状
弘治3年(1557) - 毛利元就、三人の子どもに対していわゆる教訓状をしたためる
元亀2年(1571) 毛利元就、多くの子どもに矢の教訓を使って戒め、亡くなる -
江戸時代 書物に臨終の話が書かれる(多くの矢・多くの子ども) 教訓状は門外不出で知られていない。
明治時代前期 教科書などで有名になる -
明治時代中期〜後期 もともとの話が捻じ曲げられ、史実とは異なる三人&三本の矢の話に変わって行く(もちろん臨終)。 -
大正時代 あまり使われなくなるが、次第に三人&三本に場面があるときになる設定。 教訓状が知られるようになり、その内容が分かりやすく教科書などで紹介される。
昭和以降 教訓状と混同される。 毛利元就の話として定着する。


 おまけ 三本の矢からサンフレッチェ広島
平成3年(1991)12月26日、Jリーグ誕生とともに広島に誕生したプロサッカーチームは、日本語の「三」とイタリア語の「フレッチェ(=矢)」を合わせて「サンフレッチェ広島F.C」と名づけられました。 名称は一般公募され、応募全7691件のなかで、応募が最も多かった「矢」や「三本の矢」を採用するとしたが、英語の「スリーアローズ」は既に商標登録されていることから、「サンフレッチェ」という造語を制作した。「三本の矢」にこだわったのは、応募点数が多かったことの他、Jリーグが理念とする地域密着型スポーツクラブとして誕生したチームにふさわしく、広島ゆかりのネーミングを選びたかったことがあげられます。また、選定作業の折、「紫=パープル」を検討した時期もあったが、こちらも戦前の広島中学以来伝統のある広島ゆかりの名称でしたたが、この紫はチームカラーに採用されました(K淵さんの書籍に書かれていることは当事者の聞き取りにより否定されています)。名称選定にまつわるこれらの話には、当時の設立準備室及び関係者の苦労がしのばれます。 チームのエンブレム、ユニフォームなどはその多くが三本の矢をモチーフとしています。また、サンフレッチェ広島の名称誕生により、毛利元就ゆかりの高田郡吉田町(当時、現安芸高田市)が町をあげて必勝祈願の誘致し、平成4年(1992)6月3日に元就ゆかりの清神社で三本の矢を奉納する必勝祈願が行われます。その後の交流のなかで、新たなプロジェクトを模索していた吉田町と練習場など拠点施設を探していたサンフレッチェ広島の思惑が一致し、吉田町にユースの拠点施設、トップチームの練習場である吉田サッカー公園などが整備されたのです。「三本の矢」の縁で両者の関係は深く結びついており、吉田はサンフレッチェ広島の「マザータウン」といわれるまでになっています。 「毛利元就の三本の矢の話」から「サンフレッチェ広島」へ。その誕生とともに、平成の新しい「三本の矢」の伝説が始まりました。

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