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『姫と騎士』 ★
「あなただったのですね」
姫の絹糸のような黒髪は、床に大きく広がっていて、身動きにあわせて、さらり、と音を立てた。
対照的に、騎士の少年はその言葉にも微動だにせず、僅かすら物音を立てなかった。
姫たる少女は、腰掛けていた簡素でありながら上品で精巧な作りの木製の椅子からそっと立ち上がり、背後で膝を突き頭を垂れる騎士を振り返る。
壁も床も天上も、カーテンや机など調度一式から、姫の身につけるドレスも靴やアクセサリーまでも白一色に飽和してしまっている部屋で、騎士の少年の身に纏う青は、初めて見る空のように、姫の目を眩しく刺した。
「あなたが、私の待ち人だったのですね」
重ねて問うても、騎士はやはり答えなかった。
そしてそれこそが、何よりも雄弁な答えだった。
姫は、それに、奇妙にくたびれた喜びと、とうに捨てたはずの痛みとを感じ、細い手で胸を押さえた。
苦笑というにはあまりに優しく、哀しい笑みを浮かべて、一歩一歩騎士に近づく。
こつり、こつり、という足音はあまりに軽く小さな音だった。
にもかかわらず、入室して跪くなり石像のようにゆるぎなかった騎士は、その音に身震いした。
それでも視線が上を向くことはない。
姫と騎士の目が、互いを捕らえることはない。
姫は、下を向いた少年の首が見えるほど、近くに辿り着く。
たった数メートルの、椅子からの道のりを姫は一度だけ振り返った。
なんと短く、そして険しい道だったか、と思い、そして首を小さく振り一瞬でその思いを振り払った。
姫は、自らよりも、この足元に跪く騎士の少年を思った。
少年が、震える手で、力を入れすぎて白くさえなった手で、縋るように、憎むように握る、
一振りの剣を思った。
姫は、その騎士の手を、剣を、そっと包み込んだ。
姫の指は、世間を知らず、親を知らず、窓の外の空の青と森の翠さえ知らず、ただ白い塔の最上階のこの部屋しか知らなかった。
ゆえに、細く、傷一つなく、小枝のように簡単に折れそうだった。
騎士の指は、世間の荒波にもまれ、人と触れ合うことで傷つき、血と土とに汚れ、騎士となる自負と誇りと、そしてそれゆえに逃れられない任務とに縛られていた。
だから、もう、この指は、姫に花を届けたり、秘密でお菓子を持ってきたり、そっとこぼす涙を拭ってやることはできないのだ。
ただ、この醜い鉄の塊をふるって、姫を傷つけることしか、できないのだ。
震える騎士の手を、姫は少しでもその震えが止まるように、優しく優しく包み込む。
「よいのです。私が神に捧げられることは、ずっと昔から決まっていたこと」
かつて姫の手の震えを止めてくれた、大きな、お世辞にも綺麗とは言えない、傷だらけの手を包み込む。
「あなたが私付きになってくれて、私の部屋に来ては、笑いかけてくれたこと、本当に嬉しかった」
誰もが、いつかは消える命だと、はれもののように姫にふれた。
いや、触れることさえなかった。
話すことも、目を合わせることさえしなかった。
情が湧けば互いにつらいと知っていたらから。
愛や友情や、暖かな全てを、いつか自分のために奪うことを知っていたから。
どんな人間も、姫にとっては吹き抜けるだけの風と同じだった。
姫は、風に翻弄される、憐れな木の葉に過ぎなかった。
でも、今はもう違う、と姫は思った。
今はもう、二本の足で立つ、一人の人間だ。
あまりにも優しい笑顔をくれた、大切な人のために何かができる、人間だ。
優しすぎて自分を傷つける、この哀れな人の痛みを、少しでも和らげることができる、たった一人の人間だ。
「最期に会うのが、あなたで嬉しい。」
ぽつりぽつりと音を立てて床に落ちる雫が、少しでもはやく乾くように、姫は祈りながら、騎士の少年の手を取った。
少年の手は、剣の重さに押しつぶされそうになりながら、それでも姫の望むとおりに動いた。
ひやり、とした感触が、首筋にあたるのを感じて、姫は意外に冷静な自分に驚いた。
最期の時は、きっと世界を恨んでしまうような気がしていたのに。
今は、そんな想いは心のどこにもない。
ただ、目の前の、罪の意識に体を縮める少年の、瞳が見たい、と思った。
優しい朝焼けの色をした、生き生きと輝く瞳が見たかった。
「あなたに会えて、私は幸せだったのです」
しかし、騎士の前髪がそれを遮って、姫の願いは叶わない。
残念な思いで、姫は目を瞑った。
記憶の中にはいくつもの騎士の瞳があったから。
優しい色が、姫の意識を空に還してくれるから。
騎士に罪を負わせたくなくて、姫は騎士の手を支える自分の手に力を込めた。
痛み、というよりは熱さが首筋に走って、意識が拡散を始める。
騎士が何かを叫んでいるけれど、姫にはもう聞き取ることが出来なかった。
ただ、自分を抱きしめるように抱える騎士の、朝焼けの色の瞳を見ることができて、よかったとおもった。
雲が覆うように、その色が霞んでいくのを見ながら、だから姫は、どうしても言いたかった一言を、そっと呟いた。
どうか、彼に、届きますように。
彼が、私のこの気持ちを正しく受け取ってくれますように。
この一言が、少しでも彼の心を軽くしてくれますように。
そう、祈りながら。
『あ・・りが、と・・う・・・・』
そして、姫を抱く騎士の慟哭が空を覆い、
世界は、続いていくのだ―――― ★★
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2007,8,20
姫と騎士というタイトルありきで書き始めました、ら、こうなりました。
例えどんな悲劇が起こっても続いて行く世界の残酷な美しさ、が私は意外と好きなようです。
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