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大事な人を失った皆様へ
合掌
どんなにか悲しく、おつらいことかと拝察申し上げます。
さりながら、この度の事はいかんともされがたく、ご本人もどんなにか無念の思いであられたことかと拝察します。
これがどうしょうもない、現実だったのですね。
このまぎれもない現実は、これが私の人生だ、これが私のめぐり合わせだったのだと受け止めておられたのではないかと思います。
生者と死者のあいだには、現実には深い断絶がありますね。
又、後悔には、はてしがないと思います。
でも、その中から、見つめるべきは見つめなおし、向き合うべきは向き合い、なお、前向いて歩んでゆかねばならないのでしょうね。
又、深い断絶のように見えても、でも、一緒の世界があることを確かめなければやりきれないとも思います。
私らの死は、その有様がどうあれ、大自然は、大きないつくしみの中で、私たちをしっかりと受け止め、抱きとってくれるように思います。
崩れ落ちるようないのちも、「そうだったか、そうだったか」としっかりと慈愛の中で、受け入れてくれるように思います。
晩秋に舞い散る、紅葉も枯葉も病葉もすべてを受け入れてくれる大地のように。
故人様の数々の想い出は、皆さんや私たちに残り、 故人様の命の底の純粋ないのちの願いは永遠だと思いたいのです。
平生はいつも忘れてはいても、みんな誰しも命の底に、みんな優しく、思いやりに満ちて、仲良くありたいというような真実への願いをいのちの底に秘めていると思うのです。
そこのところこそ、生けるものも、死せるものも、みんなの心のつながる世界といえるのではないかと思うのです。
そここそ永遠といってもよいかと思います。
あまりにつらければ、つらさのために、この願いが見えなくなって真っ暗になることもあると思います。
でも、ふぶきの日にも、土砂降りの日にも、決して太陽はなくなっていないように、又、地表の水がどんなに濁流となっておろうとも、地下には清純な地下水がたたえられているように、
人の命の底のこの真実への願いは、どんなに絶望的な状況の中でも、決して消失するものではないといえると思います。
故人様も、いのちの底で、そこを願っておられたに違いないと思います。
そここそ、 故人様の、いのちの本質と思いたいのです。
「花びらは散っても花は散らない」という含蓄のある言葉がありましたね。
散るのは花びらであり、花そのものは、散らない。
肉体の命は死するけれども、人の本質である、心の命、願いの命は死するということはないと思ってもいいですよね。
故人様の肉体の命とは別れたけれども、故人様の心の命、願いの命とは別れるということはないといえますよね。
こんなことを書かせてもらっていて、現実の別れ、死別を理屈で無理をして取りつくろっているようにも思いますが、でも、別れていても、いつも一緒であることをどこかで感じたり、思ったり、考えたりしたいのが人間ではないか、それは、自然なことではないのかとも思うのです。
「千の風になって」という歌が生まれ、多くの方が共感され慰められるのもうなずけます。
千の風になって
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません。
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています。
秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる。
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る。
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません。
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています。
千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています。
あの大きな空を 吹きわたっています。
仏様とは、実体ではなく、やさしさの究極の象徴だと思っています。
お浄土も、実体ではなく、やさしさの究極の世界の象徴表現と思っています。
私たちの命の究極の願いを表してあると思っています。
そういう象徴ですから、仏様は、私たちみんなをいつくしみ、抱き、照らし、導き、そして、どんなに最悪、悲惨な状況で終わっても、しっかりと受け止め、お浄土に迎え、仏になして、今度は、現実の迷える人たちを、声無き声で、いつまでも、どこまでも、照らし導き続けさせてくださるというように表現してあると思っています。
私の亡き両親も、そのように、今は仏となって愚かな私をいつまでもどこまでも導いていてくれていると味わっています。
もちろん実際の事実というのではありません。
そう味わえるのです。
そういうところで、 故人様も、今は、命の深き願いの美しき、美しき、優しさの極限の仏様となられて、皆さんに、
「今まで、いっぱい、いっぱいありがとう。
悲しませることになってごめんなさい。
でもどうしょうもなかったのです。
今、私は、もはやもう誰をも恨むことの無い世界にいます。
今、私は、すべてのいのちをいつくしむ慈悲の世界にいます。
そしてよく言っておきます、私は今も、これからも、いつも一緒です。
言葉をじかには交わすことは出来ないけれど、その分以上に、いつでも、どこでも、いっぱい、いっぱい皆さんの命の中に、心の中に語りかけていますからね。
今までのように、愚痴やわがままはもう言いません。
愚痴やわがままを言うことのない、浄らかな、浄らかな世界に、永遠に生き続けているのですから。
ここは、みんなが誰しもいのちの底で願いつづけている、いのちのふるさと、ねがいのふるさとなのです。
だから、みんなここをふまえて、生きなければ本当の幸せになれないのです。
そして、みんな、かならず、かえってくるべき世界なのです。
ですから、みんなここを踏まえて生きてきてください。
そして、みんなここへ帰ってくるのです。
ここしか、本当に安らげるところはないのです。
私たち、みんなの真実の命や願いのふるさとなんですから。」
というような、大事な大事な、まことのいのちのメッセージをかけ続けていてくださっていると私は思わしてもらっています。
私たちも、この声無き、願いの声に耳を澄ませて、みんな大事にでき、尊重できる、平和な安らかな人生と世界の創造のために、ささやかでも生きてゆきたいものと思っています。
自分勝手な思いをお許しください。
皆さんは、皆さんなりに、もっともっと、心豊かに、故人様の命や、心や、願いをちゃんと受け止めてあげてくださっていることでしょう。
合掌
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