2010/12/3

報正寺通信


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2010年11月
 
秋法座のご案内    22日(月)夜〜24日(水)日中          報恩講おとき日・・・23日(火)日中   日中9時半・夜7時半始       講師 高宮・淨泉坊・武田敏弘殿                      お誘いあっておいでくださいませ
 
神・仏について
 
ヤレ、神じゃ、仏じゃと言いますが、神話や聖書や経典を創作した人は、実際に、神や仏を見たり、その実在を認知し、事実、実在だからといって書いたものでしょうか?
私はいつも申しますようにそれには?です。
私は、神仏といっても、それは、神話や聖書や経典作者の頭脳・心・命の中から考案され、表現されたものには違いないと考えます。
神話や聖書や経典創作者は、有能な人には違いないと思いますが、でも、感じることとか、欲、願いといった内面は、みんな私達と共通と思うのです。
そこで、また今度も白紙にかえって、私達の命、心、内面を探って、仏教の根拠を考えてみたいと思います。
 
白紙にかえって「欲」を考えてみます
 
世界のすべて、自分のものにしたい。
世界のすべて、自分の思うようにしたい。
だから、誰よりも
世界一、うまいものを食べたい。
世界一、いつまでも若くありたい
世界一、病気せず、元気でいたい。
世界一、長生きしたい。
世界一、苦がなく、楽をしたい。
世界一、好きな人達といつまでも一緒に居りたい。
世界一の能力、体力、容姿、財力、権力者でありたい。
そのほか、きりがありません。
とてもかなえられるものではありませんが、これが根っこの欲と言うものでしょう。
これが、40億年来の生物としての自己中心な本能的な欲というものだろうと考えます。
だから、いつも、朝起きてから晩まで、さらに夢までも、わがままな感情、わがままな思い、わがままな考え、わがままな言動にからめとられるのでしょう。
でも、もうお感じのように、私達には、こんなわがままな欲だけしかないのではありませんよね。
 
白紙にかえって、「欲」とは別の「願い」
 
人間根っこは欲なものかもしれませんが、でもねー、ありますよねー。
もう一つ、獣だけれども、人間だものといった言葉があるように、人間らしい願いといったものが。
それは
自分だけじゃあない、もっと言えば、世界中
みんな、飢えなければいい。
みんな、奪われ、殺されなければいい。
みんな、排除され、無視され、虐げられなければいい。
みんな、忌避され、馬鹿にされ、差別されなければいい。
みんな、思いやりや、優しさや、あたたかさにあふれたらいい。
みんな、分かち合い、支え合えたらいい。
 
仏教の「欲」と「願い」
 
仏教は、この人間の根深い「欲」を我執煩悩と表現しました。
そして、この「願い」の究極を仏心、仏願と表現しました。
 
白紙にかえって、「欲」と「願い」の折り合い
 
たとえ、他人のことは一切かえりみず、他者を犠牲にして、自分中心の「欲」だけで突っ走ったとしても、充足を感じることは出来ないでしょうね。
それは、心のどこかに、良心の呵責というものが大なり小なりあると思うからです。
かといって、ひたすら、世のため、人のため「願い」に生きるといって、自分の全てを犠牲にし、全てを捧げて、不眠不休、飲まず食わずというわけにもいきませんね。
我が身への愛着はいかんともしがたいものがあると思いますから。
この「欲」と「願い」の折り合い。
「欲」からは完全には離れられないことへの慙愧を抱きながら、「願い」にうながされ、他者を尊重し、出来るところで、他者と共に分かち合い、支えあってゆこうとする歩みということになるでしょうか。
 
親鸞様のうなずき
 
「としごろ念仏して往生願うしるしには、もと悪しかりしわが心も思い返して、とも同朋にもねんごろに心のおはしましあはばこそ云々」
誠なる哉、と仏を仰ぎ、悲しい哉、と身を痛み、慶ばしい哉、とまことの道にうなずかれたのですね。
 
安野、中国人受難之碑 除幕式に参列して
 
 十月二十三日、坪野の安野発電所近くにこの石碑が建立されました。
この碑は、戦時中、安野発電所に強制連行され、過酷な重労働に従事させられた、中国人と、使用会社であった、西松建設「元、西松組」とが和解して建てられたものです。
資料によりますと、一九四二年、日本政府は、「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、国策として実行しました。
戦時中、労働力不足で、企業が、政府に繰り返し要請して実現させました。
日本軍が捕らえた兵士や農民、一般市民などが、日本に強制連行されました。
約四万人が鉱山、港湾荷役、発電所建設など全国一三五事業場で危険で過酷な重労働に従事させられ、約七千人が死亡しました。
安野発電所では、三六〇人が西松組に強制連行され、二九人が負傷、病気、栄養失調、事故等で亡くなりました。
帰国した人も怪我や病気の後遺症をかかえて困難な戦後を生きてきました。
連行者は、収容所に閉じ込められ、導水トンネル堀りなどの重労働で、粗末で少ない食べ物で、いつも空腹でした。
衣服は支給されず、雪の中をはだしで働きました。
寒さをしのぐため、セメント袋をかぶって仕事をしておられたということも聞いていました。
そのひどい仕打ちに、一七年前、二人の、元、連行者が来日し、西松建設に対して、公式謝罪、追悼碑、記念館の建立、賠償と補償を要求しました。
西松建設は、事実を否認し、四年間の交渉打ち切りとなりました。
そこで、翌年、一二年前、連行者五人が西松建設を訴えました。
そして、8年前、広島地裁で、敗訴、六年前、広島高裁で勝訴、そして三年前、最高裁で敗訴でしたが、付言として「西松建設を含む関係者において被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである」と勧告しました。
しかし、西松建設は、強制連行、強制労働はなかったとし、交渉に応じませんでした。
ところが、去年、裏金問題で、社長が交代し、新役員体制で、補償問題の解決に踏み切り、去年、十月二十三日、和解が成立し、今年その当日、記念碑が建立されたのでした。
私は、はじめごろから、支える会に加入していました。ほんに年会費を収め、署名したりするぐらいで、裁判も傍聴せず、ええかげんなことでした。
除幕式の来賓の衆議院議員が、日本人の一人として、国会議員の一人としてここに深くお詫びを申し上げますと語られたことに、あらためて、私もそうだと感じ、碑前で号泣される遺族の人と共に涙し、津浪、香草、土居の飯場跡を、往時を痛みつつ同行しました。
 
2010年10月
 
聖典学習会のご案内 29日(金)日中・夜 日中9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修     参加費無用 どうぞ誘って気楽にご参加下さい            「真実」とはどういうものかを学ばせてもらいましょう。        
 
前回の学習内容から
 
『諸仏称名の願(大経)「上」にのたまはく、(たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚をとらじ)』
という文言があります。
難しい表現ですから、「あー、じゃけー、仏教は嫌いよ」と言う声が聞こえてきそうですね。
難しい言葉が出てきますが、仏教は、様々な言葉を使って、「真実」と言うものを表現しょうとしていると思います。
この仏教でいう「真実」というものは、自然や社会にある、外の真実というようなものではなく、私達の心の中で、命の中で受容することが出来る真実といっていいと思います。
ですから、いつも申しますように、仏様といっても、お浄土といっても、どこか私達の外にあるものとして、それを信じなければならないというものではありません。
 仏様とかお浄土といった表現から「真実」を受容することが重要です。
はじめの文章に戻ります。
これは、阿弥陀様が、元、法蔵という菩薩の修行中に誓われた願いです。
オット、それ事実?と疑われる方もあるでしょうが、
これも歴史的な事実というのではなく、そういう説話を通して、経典作者は「真実」というものを表現しています。
どんな願いかというと、
「私が、菩薩から仏になった時に世界中の諸仏が(阿弥陀様はなんと尊いみ仏か)と称賛し、(阿弥陀仏をよりどころとします)と称えるようなことがなければ私は、決して仏にはならない」という願いです。
「で、それがどうした」と思われるでしょうか。
 
自己満足は欺瞞、周りのすべてに称賛されてこそ
 
私は、ここに、「真実」というものは、決して、自己満足の世界ではない。
自己満足の世界は、独善だ。
周りのみんな、いや世界中のみんなにこぞって、称賛されてこそ本物だ。 
ということが示唆されていると学びました。
また、経典作者の思いは、
「すべてを無条件に無制限に、排除することなく一切を慈育される、この阿弥陀仏の無限の広さと無限の深さの大慈悲に思いをいたしてください。
こんな崇高な精神がどこにあるでしょう。
いや、世界中どこを探しても、どこにもないこんな崇高な精神を阿弥陀仏の本願と象徴的に表現したのですよ。」というようなものではないかと拝察します。
だから、一切の諸仏に称賛されないことがない、という表現にされたのでしょう。
 
家族が一番よく見定めている
 
坊守は、冗談とも、本気とも取れる言い方で『私は、あなたの説教中、手を上げて、「はいっ、この住職の言っていることはうそです」と言うよ』というのです。
参りますね。
まさしくそのとおりで、『無我』『慈悲』利他』『布施』『非戦』『平和』とか、『男女平等参画社会』とかもっともらしいことをよく書いたり、しゃべったりしていますが、中々どうして、家庭生活では、わがまま、横暴、暴言が出て、まことに穴があったら入りたい』というような次第です。
坊守は、『大賢』で無く『暴言』だといいます。
子どももよく見定めています。
仏教、勉強せんかと誘いますが
私の講話、聴きに来ませんね。
たかがあんなオヤジの話と見定められているのでしょうか。
「アー、阿弥陀さんとは、月とスッポン」
 
料理への挑戦
 
男女平等参画社会ということで、料理もやって見なければと挑戦しています。
今まで、洗濯、物干し、食事の片付けというのはかなりやってきていたことを紹介しました。
自慢たらしいでしょう。
そうです。しょせん偽善です。
でもね、やらにゃあいけんと思うんでもあるのです。よく坊守に言うのですが、「よし、わしは、子どもを産むこと以外は、何でもやってやろう」と冗談っぽく言うのです。
坊守は、「ええええ、やりんさい」といいます。
男性料理教室というのもありますし、これから、自分で食べるものは、自分で作れるということは大事だと思います。
坊守が病気になったりして調理が出来なくなるときもありますからね。
「エー、なんですか、こんなこと、仏教とは関係ないでしょうに」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、イヤイヤ、「互いに敬い、助け合い」ですからね、仏教に通じているのです。
今まで、「私食べる人、あんた作る人」というのは、仏教が身についていなかったということです。
遅まきながら、やらねばならないと思っています。2〜3年前は、冬瓜を魚や肉と煮たのを作っていました。
今年、初めて肉じゃがを作ってみました。
全く自分流です。
砂糖が多いかと思いましたが、結構いけて、みんなおいしいといってくれました。
そこでいい気になって、チャレンジしました。
かぼちゃも、小割にして、電子レンジでチーンさせて、煮付けました。
大根、なすびと、魚、肉の煮付けなどもやってみました。
およそ砂糖、塩、醤油の塩梅がわかりかけました。やってみると出来るとうれしいものです。
わたしは、ケチなのか、節約なのか、食材を腐らすことに罪悪感を感じる人間です。
いや、みんなそうでしょうね。
 
一石4鳥そして、いつでもどこでも道場
 
相当古くて、ヌルヌルするようなキャベツや人参でもヌルヌルをこさぎ落として、煮ています。
冷蔵庫の掃除と料理と一石二鳥です。
いや、達成感と、みんなへの責任を果たしているというささやかな満足感で一石4鳥かもしれません。
坊守も勤めと疲れやすさで冷蔵庫の管理も不行き届きで、腐らせてしまうことがあります。
でも、坊守だけの責任でなく、共同責任です。
料理、やはり気まぐれですね。勝手なもんです。
いつも自分の義務としてやればいいのでしょうが、自分の都合のいい時にだけやるのですからね。
料理だろうが、掃除だろうが、一挙手一投足、みんな仏道でないものは無く、いつでもどこでも道場です。
 
自慢話
 
何も自慢することでも無いかもしれませんが、いや、自慢しますが、皆さんもやっておられるかもしれませんが、残飯入れは、ドロドロがついて、くさくなったりして不衛生ですよね。
私は、排水口の網皿と、残飯入れを二つづつ持っています。
たいてい、昼食後、片づけると、排水口の網皿と、残飯入れを谷川で洗って、天日消毒をします。
そうして、毎日交換するのです。
そうすると、台所の衛生上いいと思うからです。
これは私の発案で、もう5〜6年ぐらいやっているでしょう。
 
尖閣諸島中国漁船事件
 
尖閣諸島で、海上保安庁の巡視船に、中国の漁船がぶつかったという一連の事件がありました。
これは意図的なものか、事故なのか。
保安庁の言い分が正しいのか、漁船の言い分が正しいのか
ことの事実は、ビデオ撮影されているから、それをみればわかるでしょう。
このビデオが改ざんされていないことが前提ですがね。
日本は中国側に、衝突のビデオを送って、これは漁船の横暴だということをきちんと通達したのでしょうか。
また、どうして、早く、事故のビデオを国内外に公開しなかったのか疑問です。
改ざんが無い限り、一番はっきりした証拠になると思います。
また、船長一人だけにせず、他の乗組員や日本側、中国側の専門家や第三者の専門家などを日本に招いて、共にビデオを元に公平な審議が出来なかったものかと思います。
船長一人取り残されて、中国側からは、人質に取られたようだったのではないでしょうか
船長は、尖閣諸島は、中国の領土なのだとの右翼的な確信犯なのでしょうか
船長は、単独行為だったのか、それとも、バックに、中国の政府が糸を引いているのかどうか。
沖縄の検察庁は、逮捕された船長の取調べをしていました。
ところが、中国政府は、船長を帰せといいます。
船長はシロとの確信があったのでしょうか。
尖閣諸島は、元々、中国のものだとの確信でしょうか
さらに、尖閣諸島の海域をめぐる、ガス田、漁業権支配の野望でしょうか。
中国民衆の反日デモの盛り上がり
日本のかつての侵略に対しても、日本憎悪と警戒と抗議でしょうか。
現中国の幹部体制の権力維持のための、中国国民向けの媚の対日強硬策ともいいます。
台湾、中国、日本と、この尖閣諸島領有問題は、昔にさかのぼって調べれば、それぞれ言い分があるようです。
どの国も、自国の領土だと固執しすぎるのはいかがかと思います。
固執すればするほど、溝が深まり、紛争への危惧が高まります。
 
2010年9月
 
秋彼岸法座のご案内 23日(秋分の日)日中・夜、          日中 9時半・夜、7時半始 『仏法と人生と社会』  住職自修 ご一緒に学びましょう
 
神様って
 
神様ってほんとに居られるのでしょうか?
神様の実在を信じておられる方には失礼かもしれませんが、私には、神様がほんとに居られるとは信じられないのです。
キリスト教や、イスラム教やユダヤ教で言われる、この世を創られた神様って、誰かが、昔、いつの頃か、想像して、聖書などに創作したものではないかと考えます。
日本の神様も、自然の不思議や恐れなどから八百万の神々が創造されていったと考えられます。
よく言われるように、神様が人間を作ったのではなくて、逆に、人間が神様を作ったのだということならわかります。
 
神様と自然
 
西洋の創造神にしろ、東洋の神々にしろ、いずれも自然法則や現象を、神様として人格的に表現したのだというのならわかります。
ですから、自然の恵みでも、人格的に、神の恵みと表現するのならわかります。
また、自然を神聖視して尊重しょうということもわかります。
それは、自然というものは私達の命をはぐくんでくれる母体のようなものですからね。
また、一面、自然は、台風、地震など、猛威を振るうこともありますから、それも、自然の、バチともタタリとも言わず、それも、そういうひとつの自然の現象なのだと、人災も考慮し、受け止めたいものと思います。
 
自然のさとし
 
私達は、みんな、この自然という母体から生み出されたもの同士ですし、お互いに食べるということを通していのちを交換し合っているお互いですから、出来るだけ、むやみやたらな、無益な殺生はせず、調和を破ることなく、きれいな地球環境を保持し続けたいものです。
 
ある漁師さんの話
 
日本海で一本釣りの、ある猟師さんは、船にお聖教を積んで漁に出られたといいます。
そして、家族に申し渡される言葉として、「わしらは、魚の命をいただいて暮らさせてもらっているんじゃ。
だから、決して、取ってきた魚を、わしらが、粗末に食い散らかすようなことをしてはいけんのじゃ」と常々言っておられたといいます。
心に響くお話です。
つい、食べ物を粗末にすることを慙愧します。
 
癌になったら
 
他の生き物は、他の生き物によって食べられるということがありますが、人間は、今は他の生き物によって食べられるということは、たまには、ヒグマやライオンやワニに食われるということはありますが、滅多にありません。
そう思えば、今、三人に一人の割合で癌になるそうですが、癌になったら、
「あー、今まで、牛やブタや鳥や魚などいっぱい、いのちを食べてきたが、私の命は他の生き物によって食われることはなかった。
今、私は、ウイルスや、菌によって癌に侵されている。あー、これでおかえしなんだ。」
というような思いを持ちたいものと考えますがいかがでしょうね。
 
仏様って
 
神様がいないんだから、仏様もいないのでしょう?
まあ、そうです。
でも、お釈迦様は、いましたよ。
仏とは、覚者といいます。
覚者とは、真実に目覚めたものということです。
真実とは、縁起の世界です。
縁起の世界とは、みんなつながりあっている存在であるということです。
そこは、自分中心な考え方から解き放たれて、すべてのものを平等に、他人ごとにできず、自分のこととしていつくしむことが出来る大慈悲の世界です。
ですから、仏様とは、こういう、自分中心な考え方から解き放たれて、すべてのものを平等に、他人ごとにできず、自分のこととしていつくしむことが出来る大慈悲の世界に目覚めた人格のことです。
 
お釈迦様
 
その第一人者がお釈迦様ということになっています。
とはいえ、妻も子どももいて、生身の体を持っていたお釈迦さんがこんな完全な大慈悲の人格者であったということはとても考えられません。
お釈迦様は、こういう縁起から、大慈悲という真実に目覚められ、伝道された、人格の高潔な人であったであろうということは、言えますが、完全な一点の我執煩悩もない100%の大慈悲の人格者であったというのは、お釈迦様を超人化した表現であるといえます。
 
お釈迦様の説法
 
お釈迦様一生の説法は、まず、縁起という、万物のつながりに目覚めよう。
そして、この縁起の道理に基いた、大慈悲の完成「成仏」ということを人生最高の完成とし、人生最高の目標として歩んでゆこうと伝道されたことと拝察されます。
 
阿弥陀様
 
じゃあ阿弥陀様は?
はい、阿弥陀様はどこにもおられませんが、どこにもおられるのです。
ごまかされたように思われるかもしれませんが、以下、種明かしをいたします。
よくまゆにつばをつけて読んでください。
いつも申しますように、阿弥陀様のことはお釈迦様が説かれたのではありません。
お釈迦様が亡くなっておよそ500年後、作者いまだ不明ですが、どなたかが、阿弥陀様のことをお釈迦様がいかにも実際に説かれたかのようにお経に表現されたというのが事実のようです。
 
経典作者の阿弥陀仏説話の意図その1
 
経典作者が何のために、阿弥陀様という仏様を経典に創作したかが問題です。
これはもう推察するしかありません。
経典作者は、仏教徒であることには違いないと思います。
経典作者は、お釈迦様が亡くなられたあと、お釈迦様の説かれた教えを、お釈迦様の心、お釈迦様の命と受け止めて、このおしゃか様の教え、お釈迦様の心を、永遠のお釈迦様、永遠の仏様としてあらわそうとして、阿弥陀仏という仏様として象徴化し、人格化したものと考えられます。
 
お釈迦様の願い
 
お釈迦様は、80歳で亡くなられる時、推察ですが、「アー、いつまでも長生きして、みんなを導きたい。アー、どこまでも元気でみんなを導きたい」と願われたに違いないと考えます。
このおしゃか様の、いつまでも、どこまでもという願いが、阿弥陀仏として、いつまでも導かれる仏様、どこまでも導かれる仏様、というように結晶されたものと推察します。
ですから阿弥陀様は、お釈迦様の大慈悲の象徴と言うことが出来ます。
もっといえば、お釈迦様のという言葉を用いなくとも、阿弥陀仏とは、大慈悲心というものの人格的象徴と言うことが出来ると思います。
 
経典作者の阿弥陀仏説話の意図その2
 
当時のインドの社会には、向上心をもって、仏道を歩む人もいましたが、その反対に、全く、人間性が荒廃して、他者を損ない、自分も人格破綻している人もあったに違いありません。
親に生み捨てられ、神も仏もあるものかと、親、社会、世間をのろい、人間不信で、世にすねて、わがまま放題に、悪の限りを尽くしたが、やがて迫り来る、老、病、死への不安と孤独、過去の罪責へのおびえ、死後の恐怖、いとしきものへの再会願望などの苦悩をかかえて呻吟する人があることも、経典作者は見ていたに違いないと思います。
この人々をどう救い、そして、導くか、ここに、阿弥陀仏、浄土信仰が説かれねばならなかったわけがあると考えます。
 
救いと導きの説法例
 
「神々からも、誰からも見捨てられた、どんなに、最低、最悪の人であっても、決して見放すことなく、それゆえにこそ、常に抱きとって、はぐくみ続けていてくださっているのが阿弥陀仏という仏様ですよ。
そして、はぐくみの中で罪業への慙愧と共に、本来の優しい自分、人間性を回復させ、どんなことがあっても必ず、最上最高の、無我、大慈悲の人格「仏」に成就なさしめると、いつまでもどこまでも永遠に働きかけ続けてくださっているみ仏が、阿弥陀様ですよ。
そして、人生の終焉と共に、私達を迎えて、仏という真実の人格を実現させてくださる世界が、仏国浄土です。
恨みや憎しみの煩悩から解放された、仏国浄土に於いてこそ、真実の意味で真に会うことが出来ます。
そして、今度は、この邪悪のこの世に還ってきて、いつまでも、どこまでも、みんなを導き続ける身にならせていただくのです。
だから、あなたも、私達も、決して一人ではありません、み仏と、いつでもどこでもいつも一緒です。
どんな人生の終焉を迎えようとも、抱き取って迎えてくださる、阿弥陀様の大慈悲に目覚めて、与えられた人生を、今まで損ないあった人生への慙愧と共に、お互いに尊重しあう生き方にいざなわれて生きてゆきましょうね。
よりよい本当の自分のために、よりよい本当の社会のために。」
さて、以上から、事実から言えば、阿弥陀様は、どこにもおられません。
ですが、真実から言えば、どこにもおられます。
「事実」ではないが「真実」だということです。
 
2010年8月
 
盆会法座のご案内 16日(月)夜〜18日(水)日中              初盆物故者・全戦没者追弔法要・・18日々中              日中 9時半・夜、7時半時始 『仏法と人生と社会』         住職自修 本郷親和会共催
 
心のリズム色々
 
なんじゃー、チシャが伸びすぎとるし、
アスパラも伸びすぎとるし、キュウリも大きゅうなりすぎとるじゃあなーか。」
「トマトは猿に食われとるし、春菊もトウが立ちそうじゃし、大根も割れてトウが立ちそうじゃし、なにしとるんならー。」
「畑のこたあ、連れ合いの仕事じゃあ、わしゃーしらんどー。」というリズム。
「まてまて、あれも、なんやかんやと忙しゅうもあろう、ようくたびれもするしのー。」
「まあ、わしの早う目が覚めて、家のめぐりを歩く因果よ、わしゃあ、オカズを作ることをメッタにせんけーのー。」
「まあしょうがなあ、たいぎゅうはあるが、せめて野菜ないと取っておこうかいのー、ついでに洗ろうときゃーすぐ料理できるよのー。」とたいぎながらでも野菜を取り、洗うことが出来るリズム
野菜を取り、洗っておきますと
「まーどうしたんねー、まだ畑においとこう思うとったのにー、まだトマトは熟してないじゃない。」と連れ合いにケチをつけられると
「猿に取られるよりましじゃあ、少々青うても食えんわけじゃーあるまーがー。」と相手をなじり、自己正当化するリズム。
「やれやれ、連れ合いの言うのももっともじゃ、まあ相談してとりゃあよかったのよのー。凡夫、凡夫。」
と反省するリズム。
「えーっくそ、また嫌な味噌汁かー、飲むのはやめじゃー。」というリズム。
「まてまて、嫌じゃああるが、連れ合いが、努めて、体にええけえというて作ってくれるんじゃけえ、だいたい、好きじゃあないが、まあ飲ましてもらおうかい。」というリズム。
「あーっ、また、食器が洗わずにほったらかしたる。鍋も油もぐれじゃあ、テーブルの上にゃあ、オカズがほったらかしたるし、はよう冷蔵庫にいれとかにゃあ腐ってしまうどー。」
「また、どうせわしがやってくれるじゃろー思うとるんかのー。ええかげんにせー。知らん、知らん。」
というリズム。
「まーのー、わしゃー、めったにオカズをつくらんし、『あんた作る人、わし、食べる人』になっとるけーのー。」「まあ、男女共同参画社会ちゅうのは、今の時代じゃし、本願寺でも男女差別の無い教団・社会を、というて言い出したし、わしももっともらしゅうに、言うたり、書いたりしとるけーのー。」
「まあたいぎゅうはあるが、洗いや片づけぐらいは、自分もやらにゃーなるまーてー。」
「おばあちゃんには、高齢で、体調も心配だし、自分で調理でも洗いでもやって見ようと思われる時にはやってもらおう、だが、無理はしてもらわんようにしょう。」というリズム。
「あーっ、また味噌汁が鍋のまんまほったらかしたるじゃあないか、どうしたんならー。」
「作ったもなあ、作った責任で冷蔵庫に収めとけー、腐ってもしらんどー。」というリズム。
「まてまて、あれも忙しいし、年も拾やー忘れもするし、そういうわしもよう忘れる、たいぎゅうあるが、ええっくそ、冷蔵庫へ収めとくか。」というリズム。
まことにお笑いの有様です。
悪い心のリズムは、私達の心の中の、原始生物以来の根深い、自己中心性と思います。
これが、わがままな言動の根源でしょう。
これもどうしょうもない心のリズムです。
これを煩悩具足の凡夫と親鸞様は嘆かれたようですね。
 
まてまての声とは
 
これに対して、「まてまて」というのは何の声なのでしょうね?
良心の声、理性の声、本当の自分の声といえるでしょうか。
本当の自分が、恥ずかしい自分を告発している声ともいえるでしょう。
本当の自分、すなわち、あるべき真実の自分の声ということですね。
あるべき真実の自分とは、全く、自己中心な思いが無く、他者の痛み、他者の思い、他者の気持ちと一つになれる自分ですね
また他者をいつくしむことができる自分です。
さらにいえば、他者という意識がなくまったくひとごとでなく、自分のことになっている自分です。
こういう真実の自己を「仏」と表現したのですね。
ですから、「まてまて」という自分を呼ぶ声は、仏の自分を呼ぶ声と受け止めてもいいですね。
 
千葉法務大臣死刑執行
 
もともと死刑反対であった、千葉法務大臣が死刑を執行しました。
要するに、法務官僚からの情報を受けて、死刑執行に考え方が変わったということでしょう。
死刑制度については、国民世論では約85%の人が賛成だといわれています。
ところが、国連では、1989年12月15日、第44回国連総会で、国際人権B規約第2選択議定書いわゆる「死刑廃止国際条約」が採択され、1991年7月11日に発効しています。
さらに去年12月7日現在の「死刑に異議あり」キャンペーンによりますと、世界では、もうすでに7割の国が死刑を廃止しています。
内訳は、あらゆる犯罪に対する死刑廃止が95カ国です。
戦時の犯罪等を除くすべての死刑廃止が9カ国です。さらに、過去10年以上死刑の執行がない事実上の廃止国が35カ国です。
計139カ国が死刑を廃止しています。
残り58カ国が死刑を残しています。
いわゆる先進国という国の中で死刑を残している国は、日本とアメリカだけです。
千葉法務大臣には、
「どんなことがあっても命の尊厳は保障されねばならない」というような死刑制度絶対反対という主体が確立していなかったのだということになると思います。
かつて法務大臣で左藤という、大谷派の僧侶がいました。
彼は、法務大臣在任中は、自分が真宗大谷派 の住職であるという宗教的信条から、死刑執行命令書に署名しませんでした。
それは当然といえます。
なぜなら、仏教徒として、
お釈迦様の「殺すなかれ、殺させるなかれ、殺されることなかれ」という、命の尊厳は決して侵すまいという考え方を踏まえますとね。
でも、本来、死刑執行命令は法務大臣の職務です。
ならば、個人的に、死刑反対なら、法務大臣を受けるべきではなかったのではないかと思います。
法務大臣の委嘱を受けずに、死刑制度の廃止に向けて活動すればよかったのではないかと思います。
それは、千葉法務大臣にしてもそうだったと思います。
今、47年前の狭山事件にしても、第三次再審請求の最中で、冤罪が晴れるべく運動がなされており、44年前の袴田事件も再審請求中です。
最近、43年前の布川事件も再審無罪が濃厚になったとニュースがありました。
かつて、免田事件の免田栄さんは死刑から再審無罪になられました。
こういう、大変な冤罪ということもあります。
死刑に代わる終身刑の導入を考えますが・・・。
万人の限りない更生、人間変革の可能性を信じたいがゆえです。
 
2010年7月
 
聖典学習会のご案内                           19日(月)日中・夜 日中9時半・夜7時半始            前半 聖典学習、後半 DVDプロジェクターと大型スクリーンによる映像観賞                               学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」   住職自修  参加費無用     どうぞ誘って気楽にご参加下さい
 
前回の学習内容から
 
『如来無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまふ』
という文書があります。
無蓋とは、注釈に、「いかなることにもおおい隠されることのない大慈悲心」とあります。
また、蓋とはフタという字です。
仏様はフタをされないとも読めます。
ところが、私達は、『くさいものにフタ』というように、あの人はいや、この人は嫌い、あの人は敵、この人は無視、というように、人によって、嫌悪する思いにからめとられがちです。
ところが阿弥陀様は、決して、嫌悪、廃棄されずに、すべてを平等にいつくしまれるというのです。
このことからも、真実とは仏様のような世界であり、私達の世界は虚偽の世界であるということを思い知らされます。
救いとは、この冷酷な自分と社会を慙愧せしめられながら、それゆえにこそ、慈しみの自己と社会の実現に向かわせられる歩みであろうと学びます。
親鸞聖人の心血を注がれた文書から、真実の意味を感じ取り、この世の様々な人間や社会の問題を問い続けてみようと思います。
このたびは、DVDプロジェクターと大型スクリーンをご寄贈いただいたので、映像学習もします。
どうぞ感動をお楽しみに、気楽に参加してください。
 
釈尊伝記七絵額・親鸞聖人伝記十四絵額・本堂、前卓、内敷下掛・DVDプロジェクターと大型スクリーン一式 寄贈縁起    
この春、報正寺本堂の内敷でも寄付させてもらいたいという話が耳に入ってきました。
内敷というのは、仏前の供物台に掛けられる金襴織りの掛け布のことです。
私は、ありがたいことよと思いました。
でも『内敷の他には』という思いもよぎりました。
というのは、私のこだわりかもしれませんが、本堂の華麗な荘厳もよいであろうが、伝道布教の為の物具もよいではないかというものでした。
報正寺には、昔の古い内敷がありました。
私のこだわりですが、お寺は華美であるより、清楚なのが、無我、慈悲、利他、布施の仏法、親鸞様の御同朋の心に叶うのではないかというものがありました。
それで、前卓は朱塗りで金具もあり内敷なくてもきれいですし、元の内敷は古く、破れもあり、もう色あせてきていましたから、10年以上前から内敷を外していました。
さっそく、施主のお宅を訪問しました。
 
施主の打ち明け話
 
施主は、息子さんが昨秋から重篤で、もう何ヶ月も経つのにまだ一度も面会が出来ない状態であるということを申されました。
『あんな心根の優しい、先祖や墓のこともよく気にかけてくれるあの子がどうしてこういうことに』と愁嘆されていました。
漢方薬の行商人にも、特効薬があるなら、金の糸目はかけんから教えてほしいと頼まれたといいます。
必死の思いが伝わります。
施主は、息子さんが定年退職される時の定年祝いのためにと、貯金をしておられました。
『あの貯めた祝い金を、お寺のことに寄付したいので、それで』と申されました。
仏法ごとへの寄付によって、何らかの、仏からのご加護でもあればとのご心情でした。
まことに、息子さんの面会が何ヶ月も出来ないほどの重篤状態に、それこそ『神様でも、仏様でもいい、あの息子を助けてやってください』というような切なる思いがあふれておられました。
それは親として無理からぬご心情と拝察しました。
理屈の上では、浄土真宗では神にも仏にも願い事を祈願するものではないということはすでに何べんも何べんも聞いておられたことでしょう。
ところが、いざとなると神だろうが、仏だろうが、誰であろうが、『どうか、助けてください』という思いがいかんともされがたかったのでしょう。
 
住職としての施主への語りかけ
 
私もその心情をじゅうじゅう、踏まえながら、
『本来は、こちらから、仏様に願望を祈願するのではありませんよね。
仏様のほうからの、導きを受け止めて、生活信条にあるように
「仏のまことを仰ぎ、念仏をつぶやきながら、強く明るく生き抜こうと促され、常に自己中心の煩悩のわが身を省みて、感謝を忘れぬよう励み、また、仏法によって正しい道を聞き分けて、まことの法を広め、導きの恵みを喜び、互いに敬い、助け合い、仏の教えに叶う、よりよい社会の実現に向けて歩ませてもらいます」というのが浄土真宗の道でしたね。』
などと一通りお話したことでした。
言うまでもなく、それはわかっていてくださっていたことでお互い、再確認させていただいたことでした。 
 
住職のためらいと施主のためらい
 
私は、息子さんの定年退職の祝い金のいきさつを知り、寺へのご寄付はありがたい事には違いないが、このまますんなりと承諾していいのだろうかと思いました。
このお金は息子さんの為のものだと。
今は、重篤で意志の疎通はできなくても、今後回復されることを見越して、息子さんの為にお使いになるのが一番だと。
息子さんは、お母さんが、自分の定年退職を祝って、ひそかに貯めていてくれた祝い金だったかと知られたら、どんなにかその母親の思いをありがたくいただかれることであろうかと思ったわけです。
そこで、私は、ありがたいことですが、でもこのお金は息子さんの為のものですから、息子さんの為に何かして上げられませんか、例えば、退院された時、電動車イスだとか、そのほか電動福祉器具だとかと進言しました。
施主はためらっておられました。
そこで、お墓に段があって高いところにありますね。今後、息子さんが退院されて帰られて、お墓参りされるにしても、あなたがお墓参りされるにしても、参りやすいように墓地を下げたり、石段をゆるくされたらどうでしょうねと申しました。
それもいいかもしれませんねと同意されていました。
その案を親戚に相談されたようです。
親戚は、墓は、かまわないほうがよい。
墓へ参らんでも、家の中から墓の方を向いて念仏を称えればそれでいいじゃないの。と言われました。
それで、それもそうだと考えられ、墓のことはやめられて、また、お寺への内敷の方に話が戻りました。
 
施主の承諾
 
私は、内敷もさることながら、お寺での伝道布教になるものを考えているのですがどうでしょうと申しました。
「どんなものですか」と申されるので、お釈迦様の御一生を絵にした7面の額もあり、親鸞聖人の御一生を絵にした14面の額がありますと申しました。
さらに、本堂に参られた方々が、これを見られたなら、大人も子どもも絵を見て、お釈迦様のことを偲び、親鸞様のことを偲んで下さる、絶対いい仏縁になると思いますよと申しました。
お宅の息子さんも快復されて参られても、孫さんたちも参られても、おばあちゃんからの仏縁のプレゼントだと喜ばれることになると思いますよと申したことでした。
「それはいいですね」と言う返事でした。
というのは、施主のお姉さんが、近くの寺に親鸞聖人の14面の絵額をご寄付されてあるのを知っておられたからです。
早速、本願寺や、仏教伝道協会に絵額を注文し、現物が届きました。
本堂にずらりと21面の絵額を並べ施主に見てもらいました。
施主は、「アーいいことをさせてもらいました。」と喜んでくださいました。
門徒総代長にもあらかじめこの絵額のことを申しておりました。
総代長も「こういうのが一番ええですね」と申され喜んでくださいました。
門徒総会でも紹介しましたところ「本堂がにぎやかになりいいですね」と、皆さん喜んでくださいました。
 
内敷、下掛・DVDプロジェクターと大型スクリーンの御寄贈も
施主はかなりな寄付金を提示され、内敷も寄贈したいと申されました。
私は、施主の希望をそのままお受けしました。
私は、華美なのではなく、伝道につながるものとして、蓮の花の模様を選ばせてもらいました。
仏教の象徴の華、泥に咲く蓮は、煩悩の真っ只中に咲く、仏の願いの華の象徴でしたから。
さらに、視聴覚伝道にDVDプロジェクターと大型スクリーンの御寄贈もいただきました。
施主には、早速、戦時中、供出された大鐘の後、代わりに石の鐘がぶら下げられているが、平和の確証が出来るまでは決して大鐘をつらない寺の、真宗と戦争、平和のDVDを見てもらい、感動していただきました。
そのほかにも、たくさん、観てもらいたい映像があります。
これを本堂でも集会所やご家庭でも大型スクリーンを通して仏法の学びにしていただきたいと思っています。
早速19日の聖典学習会にご披露させてもらいます。
 
 
2010年6月
大瀛和上奉賛法要のご案内  日時 11日(金)午前9時半        会場 報正寺 講師 報正寺住職 講題 「大瀛さんと石泉さん」      主催 筒賀七ヶ寺・大瀛和上奉賛会
 
夏法座のご案内 11日(金)夜〜13日(日)日中              日中9時半・夜7時半始め 講和と話し合い法座            『仏法と人生・社会』 住職自修   さそいあっておいでください。
 
宗教への疑問
 
ちょっと考えてみたいと思います。
一般に、神や仏は愛や慈悲のお方といいます。
本当に、神仏がいるのなら、自殺や、戦争や、貧困や、詐欺やら殺人やら、いじめや差別などこの世の中や、人間の苦しみや悩みなどに対して、こっちが頼まなくても、神仏の方から助けてくれても良さそうではありませんか?
仮に、神仏を信仰して、病気が治り、金持ちになったといっても、たまたまそうなっただけのことで、ただ、神仏のおかげだと思い込んでいるだけのことではないでしょうか。
いくら神仏を信仰しても、何から何まで思い通りになることはないと思います。
ほとんどが思うようにならないのではありませんかね。
本当に神仏を信仰して、何もかもうまくいくのなら、医者も警察も裁判所も要らないでしょう。
ですから、神仏の実在なんて本気で信じないほうがいいと思いますね。
 
仏を信じるって?
 
私は、中学生の頃から、神仏が実在しているとは信じていません。
中学生の頃から、時々お寺で話を聞いたりして、何らかの感動を覚えることはありましたが、それでも、仏の実在を信じたことはありません。
私の一番の関心は、「真実の生き方とは何か?」
というようなものでした。
ですから、「真実とは何か」が問題でした。
そのような問題をかかえて、結局、「真実」とは、純粋な「無我」・純粋な「慈悲」・純粋な「利他」・純粋な「布施」なるものと受けとめるようになりました。
そして、仏とはこの「真実というもの」を象徴的に表現したものと受けとめるようになりました。
ここのところをはっきりさせてみますと
仏がそもそも実在していることが信じられて、その仏に安心し、たより、おまかせするということではなく、
仏心としてあらわされたもの、すなわち、全てを施し、全てを救おうとする布施、利他の心、わけても罪悪深重のものをこそ救おうとする無我、大慈悲の心に「真実」を見出し、同時に、仏とは異質で、無慈悲で、自己中心で、施すより奪うことにかたむく、うそ偽りの自分と世の中が見つめられ、又それ故にこそ、より真実なる自分と社会を願おうとする歩みがあるところをこそ
「仏を信じて生きる」ということだと受けとめました。
これを簡単に言えば、
「仏と説かれた中身である、『真実』にめざめ、これをよりどころとして生きる。」ということになります。
 
親鸞聖人の時代的限界
 
親鸞聖人が比叡山で求められたのは、この世で成仏すること、即ち、完全なる、真実の自己を完成することでした。
ところがその不可能なことへの苦悩を抱えて、比叡山を出て、法然上人に学ばれます。
そして、そこで、親鸞聖人の内面に
「自己の完成という成仏は、人間には絶対不可能なことを既に見抜かれて、それ故、全てを大慈悲のはたらきによって成仏せしめるという、阿弥陀仏への絶対帰依の信心」というものが成立されてゆきました。
その信心というものは、阿弥陀仏の慈悲というものへの真実の目覚めであり、煩悩にまみれている自己と社会への不実への目覚めであり、それ故の真実なる自己と社会への願求の成立でした。
ところが、当時は、経典はお釈迦様の直説として疑いなく信じられていた時代ですから、親鸞聖人は、この阿弥陀仏を実在と捉えて、お手紙の23通などにも「ただ如来にまかせまいらせおはしますべく候」等と表現されています。
今や、親鸞聖人滅後およそ750年、経典は、釈尊直説でもなく、釈尊滅後およそ500年後の無名の作者の創作ということが判明している現代、もはや阿弥陀仏の実在を信じるのではなく、阿弥陀仏と表現されたものから、真実を受けとめる時代になっていることを思い、ここに親鸞聖人の時代的限界と現代の課題を思います。
 
親鸞聖人滅後の変質
 
親鸞聖人の信心は、「世を厭うしるし」として、仏法によって、封建的権力支配、差別社会を是認することなく悲嘆されるものでした。
ところが、親鸞聖人滅後、曾孫の覚如さんの「改邪鈔」には、「世法では仁義礼智信を守り、内心に仏法」というように、仏法は、内心だけに閉じ込めて、封建社会の儒教倫理を是認するというように変質します。
次に、覚如さんの子「存覚」さんの「破邪顕正抄」では、「仏法と王法(政治)を鳥の両翼、車の両輪のように対等に崇める」表現になっており、封建社会の政治体制を仏法から悲嘆することが見えません。
次に、親鸞聖人滅後およそ200年の「蓮如」さんの「御文章」には、「内心には他力の信心を、外には仁義礼智信を」というように、やはり封建社会の儒教倫理を仏法で悲嘆するものが失われています。
次に、親鸞聖人滅後500年、江戸時代、大瀛さんや石泉さんの頃の性海という学者の「真俗二諦十五門」には「仁義忠孝を行い仁王(国王)に従う」ということで、やはり、封建社会の倫理を容認しています。
次に、明治になると、門主の「広如」は「現生には皇国の忠良となり云々」というように、明治の天皇政権を容認しています。
そして戦時中「前門主」は「あくまで驕敵撃滅に突進すべし云々」等と戦争と一体化します。
(以上は、元、龍谷大学信楽学長の「真宗教義学原論」を参照しました。)
教団ではこうした過去の反省が課題になっています。
一昨年、戦後63年目にして、宗門はやっと、これら戦争中、戦争肯定した門主の言葉の聖教扱いを廃止しました。
 
大瀛さんと石泉さん
 
 どちらも江戸時代の学僧で、筒賀、森家の生まれのようで、いとこどうしの間柄でした。
どちらも三業惑乱という西本願寺の教学上の論争において、石泉さんは、大瀛さんを支えました。
 
三業惑乱
 
これは、同じ江戸時代中期、龍養と言う僧侶が、「はじめから阿弥陀さんに救われているんだから『あー』と思うだけでよい」というような説を唱えたことから始まります。
これに対して、功存という最高学者が、それは違う、信心は、(身・口・意の三業)つまり、身で阿弥陀仏に向かって礼拝し、口では、後生たすけたまえと述べ、意では、同じく一心に願うということだと述べました。
このことで、是非の論争がありましたが、次の智洞と言う最高学者がこれを継承し、反対の学説を邪説としました。
そこでこの智洞説に反論したのが大瀛さんを代表とする人たちでした。
大瀛さん側は、阿弥陀仏に向かって、こちらから身と口と意で助けて下さいなどと祈願請求するのではなく、「助けてやるぞと言われる阿弥陀仏に帰依信順することである」と主張されました。
やはりこの大瀛和上側の説に真実性を感じます。
そして、石泉さんも大瀛さん側に立って支援しました。
 
大瀛さんと石泉さんの違いと限界
 
ところが、大瀛さんが亡くなる年に、石泉さんは、今までの大瀛さんの説と違って、生活実践について語られることになります。
これが、三業惑乱後の大きな論争となりました。
石泉さんは、阿弥陀仏に絶対信順するだけでなく、阿弥陀仏への報恩行として、念仏を称えることに付随して、経典を読んだり、心をしずめて仏や浄土を観察すること、また阿弥陀仏に礼拝すること、阿弥陀仏をたたえ、供養することなど(これを五正行と言います)が大事であるということを主張されました。
さらには、それ以外の様々な善行にも励むべきことを主張されました。
これは、石泉さん著「教行証文類随聞記」の
「心が澄んで綺麗になる。これが信という物柄なり。
業用を言えば、不信を対治して善を楽うを業とす。」という、信心とは心の澄浄なることであり、信心のはたらきとは、信心によって善を楽うものであるというような考え方によるものであることがうかがえます。
これに対して、大瀛さん信奉派は、石泉さんの主張する五正行ではなく、五念門という(礼拝、讃嘆、作願、観察、回向)のみが報恩行であり、それ以外は語るべきでないと言う主張でした。
ですから、石泉さんは本山に呼び出されて、問いただされたり、用語の禁止など命じられましたが、屈せず地方の僧侶や門徒を育てました。
石泉さんが最高学階位の勧学が贈られたのは、石泉さん没後85年、1911(明治44)年のことでした。
石泉さんがなぜ、大瀛さんの論調とは違ったことを申されるようになったのかを考えます。
その訳は、三業惑乱で阿弥陀仏の絶対他力の救済を強調し、私達人間の計らいのいらない、無条件の救済を徹底的に究明する傾向に、これでは仏道と言う実践道、念仏の倫理、念仏による生きるエネルギーというものが希薄ではないかと考えられたのではないかと思います。
どこの分野でも、理論と実践、信仰と生活という問題があります。
しかし、信心大事の大瀛さんにも、生活実践に力点を主張した石泉さんにも共に限界がありました。
江戸幕藩体制という封建支配差別社会を親鸞聖人のようには、きちんと悲歎し対峙されることはなかったのです。
このことは、私や、現在の教団の大事な課題として考え続けています。
 
2010年5月
聖典学習会のご案内                              22日(土)日中・夜   日中9時半・夜7時半始               学習聖典・「浄土真宗聖典」   住職自修   参加費無用          どうぞ誘っておいで下さい 聖典なくてもかまいません
 
前回の聖典学習会から
 
浄土三部経を終えて、親鸞聖人の主著・顕浄土真実教行証文類を学び始めました。
前回は、序文のみでした。
親鸞様は、一番最初に、「よくよく思ってみれば、自分の受け止めた念仏の教えは、自分の90年の難儀な人生航路を渡って行けた、大きな船であった」と告白されていると受け止めました。
親鸞様にとって、阿弥陀如来や、お浄土とは、真実の慈悲というものが明らかにされた世界であったことでしょう。
そして、この、阿弥陀如来やお浄土の真実の慈悲というものによって、親鸞様御自身と、この世に真実の慈悲というものの無い、いつわりが明らかになられたことでしょう。
そして、それゆえにこそ、まことの無い自分とこの世を慙愧せしめられつつ、わが身とこの世を痛みながら、とも同朋に、ねんごろに生きてゆこうとされる道が開かれたことと拝察します。
「この道こそ私もみんなも煩悩の海に沈みきってしまうことなく渡ってゆける大きな船のようでありました。」と告白されているように学びました。
また、親鸞様は、「阿弥陀様の光明は、何が真実かわからない真っ暗闇の人生と社会を破ってくださる智慧の太陽でした。」と言われています。
ということは、無限の広さと無限の深さの大慈悲というものこそ、この人生と社会の冷酷の闇を明らかに照らし破る光であったと言われているように学びました。
まことに、親鸞様の御一生は、時計の振り子のように、阿弥陀様や浄土の真実と、自分とこの世のいつわりの間を揺れ動く歩みであったことと拝察します。
浄土真宗に縁の有る私達、親鸞様の世界から、私達の人生と社会を見つめさせてもらいましょう。
気楽に、お茶を飲みながら、休み休み学んでゆきます。
どうぞ、初めてのお方も遠慮なくお誘いの上ご参加ください。
 
浄土の再確認
 
浄土は、物の世界で無く、『境涯』といってもいい、心の世界であるということを再確認してみたいと思います。
心の世界といっても、もっと言えば、私らの汚い心の世界を超えた、最も清らかな心の世界といえます。
以前、無量寿経の聖典学習会の報告でも紹介したものです。
思い出してみてください。
無量寿経に
お釈迦様が弟子の阿難に、浄土には、須弥山という山や海や谷が無いと説かれたとあります。
そこで、阿難が、浄土に山が無ければ、須弥山にあるといわれる様々な天界はどうして存在できるのですかというような問いを発します。
すると、お釈迦様は、その問いに直に答えず、逆に、阿難に対して、他の天界は何によって存在しているのかと問われます。
そのとき、阿難はお釈迦様に対して、『天界の人たちは、その行いの報いが不可思議な世界だからです』と答えます。
こういうお釈迦様と阿難の問答から、経典作者は、浄土の世界は、山や海や谷があるような物の世界ではなく、よこしまでなく、真実の行いによって報われた世界であるから、私ら、煩悩の世界に生きるものには思議出来ないほどの清らかな心の世界であるということを示されたものと考えられます。
次に、『仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。
そのもろもろの衆生、功徳善力をもって行業の地に住す。 ゆえによくしかるのみ』とあります。
これは、おしゃか様が阿難におっしゃるのに、天界でさえ清らかな行いの報いの不可思議な清らかな世界であるのだから、ましてや、諸仏の世界もそうであり、諸仏浄土の人々も善業による功徳の力によって、その善業の功徳に報われた清らかな境地、つまり『境涯』に住んでいるのである。
だから須弥山など山や海や谷は無いということなのだと解釈できます。
ここで突然浄土のことについてふれたのは、浄土は、真実の「境涯」、別の言い方をすれば、真実の心のリズムの世界、といってもいいのではないかと考えられるからです。
 
沖縄・普天間米軍基地移設問題
 
この問題をめぐって緊迫しています。
これは、私ら自身考えなければならない問題と思います。
とはいえ、これを、沖縄や徳之島の人々の問題としてしまっている自分を慙愧します。
日本全国の米軍基地の75%が沖縄に集中しているということを前から聞いています。
米軍基地は、沖縄本島の約18%を占めているといいます。
米兵による少女暴行事件というのもありました。
これも、日米安保条約というものによるのですね。
日本が紛争危機状態になった時、日米で軍事対処できるよう、米軍基地を日本国土に、その75%を沖縄に置くということだったのですね。
沖縄や、徳之島では大きな反対運動が展開されています。
もし、米軍基地が、筒賀へ来て、農地も山も米軍に提供し、住まいもどこかへ移転しなければならなくなり、村が一変するということになったら、今の沖縄や徳之島の人々と同じ緊迫感を感じることでしょう。
迷惑施設、危険施設はよそへ、自分のところは、安全で快適であってほしいというのは、正直とはいえ、身勝手であり、自己中心の発想ではあります。
沖縄の人々の負担を軽くしてあげるために、筒賀も犠牲になってあげようという気になれますかね。
私は、もし、日米が筒賀を基地に指名して、どうしても日米安保条約は必要だという考えになれば、引き受けねばなるまいと思う気持ちがあります。
でも、私は日米安保条約は解消して、日米だけでなく、北朝鮮とも、全世界どこの国とも非軍事友好条約を結ぶ方向を目指したいものだと思っていますから、沖縄の辺野古だろうが、徳之島だろうが基地移転反対・基地撤去の気持ちがあります。
ニュースでは、南方のテニアン島が、向こうの方から来てほしいと言っていますので、テニアンに移設する方向をしっかり考えてもらいたいものです。
でも、政府も、アメリカも、テニアン移設は設備投資に金がかかるということもあり、非現実的のようですが。
 
国防について
 
この普天間はじめ、在日米軍基地の問題にしても、元は、国防ということの問題でしょう。
国防にもいろんな考えがあります。
一番いいのは、諸外国と互恵信頼外交が出来て、たとえ利害が対立しても、武力で解決するのではなく、諸国、国際世論を交えて、解決の方途を探るというのに越したことは無いと思います。
それにはどちらの国も、そういうハト派の政権でなければ成り立たないと思います。
日本がいくらハト派であっても、他国がタカ派なら戦争の危険があります。
日本がタカ派であればなおさら戦争の危険はあります。
今、日本が、軍縮ではなく、防衛庁を防衛省に格上げし、憲法9条を改変して自衛隊を国軍にしょうというような方向というのは、戦争への危険が薄れるのではなく、戦争の危険が高まるのではないかと危惧します。
これは、今までの自民党も、今の民主党も多数はそういう方向と思えます。
そういう自国に軍隊をということで、憲法9条を変えようという人たちに対して、大江健三郎さんたちのように、憲法9条を守ろうという人たちがあります。
この人たちの中にもいろいろな考え方があると思います。
私も、憲法9条を守る様々な会に所属しています。
私のしろうと考えですが、上記、たとえ利害が対立しても、武力で解決するのではなく、諸外国と互恵信頼外交が出来て、諸国、国際世論を交えて、解決の方途を探るということで、自衛隊は軍装を解いて、国内外の災害救援隊に編成替えしたらとおもうのです。
そして同時に、国際連合を、五大国が拒否権を持って支配するというような制度ではなく、全世界各国の民主的な制度に編成替えがなされ、国際警察としての機能を強化し、世界各国がそれに参画できたらいいのだがと思います。
そのためも、まず世界各国が軍事タカ派政権からハト派政権に移行しなければ始まらないと思います。
またそのためには、世界の人民が、しょせんこの世は弱肉強食だというような闘争的、野獣的な価値観でなく、共に助け合ってゆこうというような人間性に根ざした共生の価値観に変革しなくてはならないということだろうと思えます。
みんながみんな、そういう価値観への転向は至難と思いますが、この人間性に根ざした価値観の人々が多数になってほしいものです。
 
テロリストへの対処
 
もうひとつ、今確かにテロリストの自爆テロや、核兵器開発や、核兵器強奪の心配もあります。
テロリストが生み出されるもとは、貧困・格差・抑圧というものかもしれません。
それなら、何より、私たち豊かと言われる国の責任でもあると思います。
狂信的なテロリスト、つまり、異教徒を撲滅することで自分は自爆しても、天国に生まれるというような、狂信といっては失礼かもしれませんが、そういう信仰は困ったものだと思います。
そういう信仰に洗脳された人の思想を元に戻すのには、相当なエネルギーが必要と思います。
ユニセフへもめったに寄付せず、評論だけの自分を恥じざるを得ません。
 
心のリズム『境涯』いろいろ
 
アーア、今日も生きにゃあならんか、エエックソ、雨もふりゃあがると、わがままな感情むきだしのまま
 
アー、今日も私を耕してゆく日、少しでも思いやりのある、あたたかい心で生きられたら、あー雨か、だが、雨を喜ぶ人もあろう、草木も喜ぶだろうなー
 
2010年4月
永代経法座のご案内 12日(月)夜席〜14日(水)日中席     おとき日・・・13日 夜、7時半・日中、9時半はじめ        講師 福山市 光明寺住職 吉岡隆義殿              どうぞ、誘い合ってお参りください
 
 
心のリズム
 
心のリズムということを最近思います。
いい心のリズムと、悪い心のリズムというものがあるように思うのです。
 
朝の出来事
 
朝、目が覚めて、まだ寝ている妻や娘のことを配慮せずに自分勝手に起き出してごそごそして、「もーっ、寝られないよ」と言われても「ええじゃないか、目が覚めたんじゃから、あんたらもはよう起きりゃええんじゃ」などと言っていたのは悪い心のリズムです。
それに対して、目が覚めても、妻や娘を起こさんようにそおーっと起きるように、周りの者のことを配慮しているのはいい心のリズムと思います。
そーっと起きたつもりでも、娘に気付かれて、「電気が明るいけー、もう切って」といわれた時、「クソー」と自分勝手な思いが出た時は悪いリズムでした。
娘のほうも「電気が明るいけー、もう切って」と自分の思いだけをぶっつけたのは娘の悪いリズムと思います。
ほどなく、娘は「ええよ」と言ってくれましたが、それは、「アーお父さんも、早く起きてしなければならないことがあるんだ。少々の明るさでも寝られる」と私のことを配慮してくれたようですが、それは娘のいい心のリズムの回復と思います。
娘は「いいよ」といってくれましたが、でも、明かりが少しでも漏れては寝られないであろうと娘のことを配慮して、黙ったまま、明かりの漏れない別の部屋に移動出来たのは、いい心のリズムが保たれていたということだったと思っています。
洗濯
もう何年になりますか、洗濯物も、私の勤めということではないのですが、私は、起きるとまず、洗濯するというような生活のリズムになっていました。
これは誰かから頼まれたわけでもありません。
まず起きたら、洗濯する、という私の思いからです。
洗濯した者の因果というのか、物干しもやっています。最近は、母が干してくださることも多くなりました。
酸素吸入器をつけての生活ですから、「どうか無理はせんでください」とは言っているのですが。
洗濯物の取り込みもやりますが、母もやってくださリ、きちんとたたんでくださいます。
私の物は、自分で自分の引出しに入れます。
他のみんなのものは、みんなに任せています。
私が出来ることをして、みんなが助かればそれでいいし、それが自然に出来るようになってきていることがありがたいという思い。
そう思えるところがいい心のリズムです。
そうでなく、「エエックソ、また今日もやらにゃあならんか」と愚痴ったり、やったことを恩に着せたりするような言動の時は悪い心のリズムです。
 
食事
 
とにかく古いものからいただくことにしています。
時には冷蔵庫で腐らせることもありますが、しまったと思います。
そして、妻に「どうしたんなら、腐っとるじゃあないか、ちゃんと覚えとけえや」などとなじっていましたが、今は、待て待て、何も、妻だけが冷蔵庫の責任者ではないぞ、生協の品物も私が冷蔵庫に入れるんだから、私も冷蔵庫の共同管理者ではないかと思い、冷蔵庫の中のことも責任を共有する思いになりました。
食器や鍋物の洗いも、かなり私がやっています。
今まではもっと妻も娘もやってくれればいいのにと思っていましたが、洗濯と同じで、まあいい、今まで、妻がほとんどやってきていたのだから、お返しということもありますし、これも共同作業という思いでもあります。  (今度は料理だが?)
私がやる分だけ、妻も娘も余裕が出来るとも思うようになりました。
母も気を使って洗ってくださることもありますが、もう楽に生活してもらえばいいと思い、出来るだけ私が引き受けるようにしています。
そういう柔らかな心のリズムをいつも保持し続けていたいものだと思っています。
 
親鸞聖人の「信」の心のリズム
 
親鸞聖人のお手紙に「としごろ念仏して往生願うしるしには、元悪しかりしわが心をも思い返して、友同朋にもねんごろに心のおはしましあはばこそ、世をいとうしるしにても候はめ云々」という言葉があります。
ここに、「信」による、わがままな思いのリズムからの、家族〜世間へと少しでも他者と共にねんごろに生きようとする心のリズムへの転換をうかがいます。
 
2010年3月
 
聖典学集会のご案内 19日(金)朝・夜・ 20日(土)朝・夜 朝・9時半  夜・7時半・はじめ                              阿弥陀経が終わりますから次に、親鸞聖人の主著、 顕浄土真実教行証文類を学んで見ましょう。 そして、そこから学んだものを、お互いの人生と社会の諸問題に応用してみましょう。 気楽にご参加ください。 住職自修  参加費無用 
 
ゼロに帰って考えてみよう
 
「ヤレ、仏じゃ極楽じゃ浄土じゃ、地獄じゃと、そりゃ、一体何じゃというんじゃ?」
と思われる方は多いと思います。
実は、私も、子供の時からそう思っていました。
そこで、この度は、それこそ「ゼロ」に帰って、仏、極楽、浄土、地獄等を全く知らない白紙の状態から考えてみようと思ったわけです。
まず、事実、実際の思いから調べて見ます。
 
されたくないこと
 
まず、誰かから、何かから、されたくないということを調べて見ます。
まず、殺されたくない。 盗られたくない。
傷つけられたくない。 強制されたくない。
馬鹿にされたくない。 いじめられたくない。
からかわれたくない。 無視されたくない。
差別されたくない。
そんなところでしょうか。
これは誰しも古今東西、みんなそうではないでしょうかね。
これは、みんな自分の身がいとしい、大事であるという、生き物としての身の事実であり、真実とも言えるでしょう。
これを基本的人権というのでしょう。
ですから、これは、何人も侵してはならないということになっているのですね。
これは人類永遠の真実といっていいと思います。
 
自分だけじゃない、みんなもされたくない
 
ここで、ごく当たり前のことですが、これはみんな、されたくないことなんだから、
「そうだ、自分の身の回りの家族にも、誰にも、自分がされたくないことはしないようにしょう」ということになるはずです。
誰も、殺すまい。 盗るまい。
傷つけまい。 強制すまい。
馬鹿にすまい。 いじめまい。
からかうまい。 無視すまい。 差別すまい。
ということですね。
当たり前のことです。
でもこの当たり前のことが、わかっているはずなのに出来ません。
 
して欲しいこと
 
次に、自分にして欲しいことを考えて見ます。
えーと
大事にしてほしい、やさしくして欲しい。
あたたかく包んで欲しい、思いを汲んで欲しい。
理解して欲しい、支えて欲しい。
助けてほしい、ほめてほしい、許してほしい。
等でしょうか。
これも誰だって、望まない人は無いと思います。
当たり前のことでしょう。
逆に言うと
 
してほしくないこと
 
誰もしてほしくないことは、
粗末に扱われたくない、冷たくされたくない。
見捨てられたくない、切り捨てられたくない。
断絶されたくない、突き放されたくない。
放置されたくない、くさされたくない。
責め立てられたくない等
ということになります。
当たり前のことです。
だったら、家族も周りの人もみんな、望んでいるのだから、家族にも周りの人にも、してほしいことをして上げよう、してほしくないことはすまい、というのが、また自然なことでもあるはずなのですね。
ところが、わかっているはずなのに、中々出来ないのが現実です。
 
こころがほのぼのとするとき
 
次にこころがほのぼのとする時ということを考えて見ます。
それは、誰かが、自分のみならず、誰かのために、損得抜きで真心で尽くしている情を感じた時がそうでしょう。
また、自分が、自分の損得や見栄や体裁を考えることなく、誰かのために、ほんの少しでも手助け出来ている時もそうかもしれません。
それは、たとえ、その成果が不十分でも、本来、自分中心な自分が、ふと、他者を配慮する行動が出来ていることを、内心ほのかにうれしく、ありがたく思えるところかとも思います。
それは同時に、どんな善意もしょせん不完全・偽善で、どこかにおごりの心があることを恥じるものを忘れてはならないでしょう。
でも、これも、誰もがみんなわかってはいることなんですが、まず、滅多にできることではないと思います。
 
わかっちゃいるけど出来ない
 
なぜなのでしょう。
それは、やはり、生まれてこの方、づーっと、自分中心な、わがままな思い、わがままな感情、わがままな考え方、わがままな行動のくせが身にこびりついているからということではないかと考えます。
ですから、相手の立場に立つ、相手のことを思いやるということが薄くて、誰よりも、自分が大事、自分がかわいいと、誰よりも自分の思い、感情、利害を優先させてしまうからなのでしょうね。
 
じゃあどうする
 
そうですね、まず、自分というヤツは、自分が一番かわいいという自分本位なものを命の中にわだかまらせているから、気をつけねばならないぞといつも注意しておかねばならないでしょうね。
ですから、自分の言動の前に、一呼吸置いて、待て待て、自分のこともともかくも、相手の立場にも立って考えてみようという、余裕が持てたらいいのでしょうね。
それは、そういう、いつも相手の立場に立って考えよう、自分の感情にブレーキをかけよう、相手の人格を尊重しょう、相手の気持ちを大事にしょう。
お互い不完全な人間どうし、どちらにも欠点もよいところもあるはずだ。
とにかく、お互いできるだけ傷つけあわないようにして、高まりあうように生きて行こう。
などということを、常に、自分の戒めとして、訓練し、そういう心の状態をいつも保持していて、乱さないようにしょうと心がける習慣を身につけるようにすることでしょうかね。
これが身についたら、達人の域に達したということでしょうか。
孔子は、「七十にして、心の欲するところにしたがいて、矩を超えず」などといっています。
孔子は、七十になると、思うままに振舞いながらも、もう決して、道を外れるということが無いというのですね。
恐れ入ります。
 
仏・浄土・地獄の本質
 
さて、今まで、ごく当たり前なことを書いてきたと思っていますがいかがでしょう。
全く、仏、極楽・浄土、地獄等について語っていません。
どうでしょう。
今、作者不明ですが、はじめて無量寿経を創作した人のことを考えるのです。
彼は、それこそ、まだ、阿弥陀仏も浄土も発想しない、白紙「ゼロ」の状態から思考してそして、「ある何か」を仏、極楽浄土と象徴的に表現したのに違いないと思っています。
もうお気づきでしょう。
上記に使った言葉を並べてみます。
「誰も、殺すまい。 盗るまい。
傷つけまい。 強制すまい。
馬鹿にすまい。 いじめまい。
からかうまい。 無視すまい。 差別すまい。
大事にしてほしい、やさしくして欲しい。
あたたかく包んで欲しい、思いを汲んで欲しい。
理解して欲しい、支えて欲しい。
助けてほしい、ほめてほしい、許してほしい。
粗末に扱われたくない、冷たくされたくない。
見捨てられたくない、切り捨てられたくない。
断絶されたくない、突き放されたくない。
放置されたくない、くさされたくない。
責め立てられたくない。
相手の立場に立つ、相手のことを思いやる。
誰かが、自分のみならず、誰かのために、損得抜きで真心で尽力している。」
という言葉です。
阿弥陀仏や浄土の本質とは、以上の言葉を使えば、
すべてを、決して、殺さず、盗まず、傷つけず、強制せず、馬鹿にせず、いじめず、からかわず、 無視せず、 差別しない究極の心の世界である。
また、すべてを、大事にし、やさしくし、あたたかく包み、思いを汲み、理解し、支え、助け、ほめ、許し、粗末に扱わず、冷たくせず、見捨てず、切り捨てず、断絶せず、突き放さず、放置せず、くささず、責め立てず、相手の立場に立ち、相手のことを思いやり、損得抜きで真心で尽力する究極の心の世界であるということが出来るのではないでしょうか。
そして、この逆のこころが、「地獄」の本質ということができるでしょう。
 
浄土真宗を生きるということ
 
上記の言葉で表しますと、
阿弥陀仏や浄土の究極の心の世界から、自己と世界の地獄のこころを慙愧し、いつも、自分のこともともかくも、相手の立場にも立って考えてみようとし、自分の感情にブレーキをかけようとし、
相手の人格を尊重しょうとし、相手の気持ちを大事にしょうとし、お互い不完全な人間どうし、どちらにも欠点もよいところもあるはずだと、とにかく、お互い傷つけあわないようにして、高まりあうように生きて行こうとすることと考えます。
 

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