報正寺通信NO,5
2011/10/3

ご感想をどうぞ
 
2,011年9月
秋彼岸法座のご案内   23日(秋分の日)日中・夜、 日中 9時半・夜、7時半始 『仏法と人生と社会』      『原発映像学習とともに』   住職自修              ご一緒に学びましょう
 
彼岸とは
 
彼岸とは、彼の岸、つまり、此の岸ではない、あちらの岸ということです。
こちらの岸とは、自分中心で冷たく、利己主義で、奪う等の世界ということです。
つまり、この現実社会ということです。
私事では、おいしそうなパンがあって、これは、妻や、娘が楽しみにしているパンかもしれないとは思うものの、聞くのも面倒で、まあいい、「わしが食べてもかまわんパンじゃろう」などと勝手に食べてしまって、
後から、「マー、誰ねー、私が食べようと思っていたパンだのにー」などと言われ、「いつもお父さんそうなんだけー」とおこられながら、「買って置いとるんだけー、誰が食べてもよかろーがー」などと、自己正当化する世界です。
それに対して、彼岸とは、自分中心ではなく、あたたかくて、人助けが出来て、施しの出来る世界です。
つまり、さっきのパンの話なら、このおいしそうなパンは、みんな食べたいに違いない。 よし、これは食べまい。 もし、みんなが食べなかったら、承諾をもらって食べよう。 というような世界ですね。
パンの話は、ごく身近なたとえですが、彼岸は、さらに、純粋、無私で完全無垢な世界として、仏国土、浄土と象徴表現された世界です。
 
結婚差別の現実
 
もう20年以上、加計の部落解放同盟の学習会に参加させてもらっています。
部落差別はじめ、そのほか、人権、平和、教育など、いろんな問題を本や、映像や語り合いで学んでいます。
この4ヶ月は、去年度版の「全国のあいつぐ差別事件」から学びました。
その中から紹介します。
 
岡山の結婚差別事件
 
おととしの12月1日付の新聞では、倉敷市が、11月30日、消防局職員に交際女性との婚約を不当な差別で破棄したとして懲戒免職処分を行いました。
彼の父で消防局職員へも、婚約破棄への影響を与えたと定職6月の懲戒処分と一般職への降格分限処分にしました。
そのいきさつでは、彼は被差別部落出身の女性と恋愛し、家族ぐるみの付き合いの中で、結婚話も出るようになっていました。
しかし、父親が、「部落の人間との結婚は、親類、家族の今後にも影響を与える」として、突然に猛反対をとなえ始めました。
同時に家族も反対で動きました。
彼は彼女に別れを切り出しました。
彼女は高校三年生から付き合っていて、家族での食事も時折一緒にしていました。
彼のおばあさんの家にも案内され宿泊もしています。
彼女は、彼に自分が被差別部落出身であることを付き合いが進む中で伝えていました。
 
私の感想
 
こういう例がまだあるのですね。
彼女は、自分の出身を明かしています。
彼と家族は、反対しています。
反対された彼女や、彼女の家族の心中は?
私が、双方の当事者だったらどうふるまうものだろうということも考えます。
とても当事者には成れないことはわかっていても、考えてみるのです。
彼女の心理を勝手ながら、推し量ります。
人間の大事なものは、他の何より、人間性、生き方だと思うから、部落出身であることにためらいはない。
でも、世間の人の中には、偏見で、部落出身者を、押しなべて、忌避する意識を持っている人もある。
持っていない人もある。
彼や、彼の家族、親族の人々がどういう意識かはわからない。
もし間違った意識を持っておられたなら、その過ちに気が付いてほしい。
部落問題を正しく理解してもらっていて、結婚したほうがいいのだ。
一番いいことは、みんなが、部落問題について、全く知らないから、差別がないことよりも、みんなが、部落問題について、よく知っていて、なお、誰もが差別しないというのが一番いいのだ。
ということで、彼女は、彼に出身を明かしたのであろうと思います。
 
私の経験
 
私も、兄弟も、結婚のとき、一切、身元調査はしませんでした。
親戚に、調査してみるという人がいましたが、私は、そんなことせんでいいからとお断りしました。
被差別部落の出身であろうと、外国人であろうと、病気があろうと、障害があろうと、ともかく、付き合って、結婚しょうということにお互いが意気投合したなら、それでよいという思いでした。
もし、後で、知ることがあったなら、それはそれ、それから何らかの苦労があったとしても、共に、みんなで支えあって生きてゆけばいいじゃないかという思いでした。
 
彼や、彼の父や、彼の家族の問題
 
根本は、人間の評価観の違い、生き方の違いということに尽きると思います。
つまり、人間を、その人の優しさ、思いやり、あたたかさ、誠実性といった人間性、人柄、人格、そして、それに基く思想、生き方を評価するのか、それとも、それ以外の、財産、能力、職業、家柄、血筋、名誉、地位、世間体などを評価するのかの違いですね。
そう思います。
いうまでもなく、彼や、家族、ことに父親は、前者の人間性に基く、人間観、生き方への自覚が薄く、後者の、財産、家柄などの世間体にからめとられてしまった人だったということでしょう。
ですから、この人たちは、被差別部落の人を押しなべてマイナスイメージでとらえてしまう、偏見というものにからめられてしまっていたと思います。
 
押しなべてということの間違い
 
たとえ、僧侶でも、先生でも、押しなべていい人ばかりではありません。
いわゆるいい人といわれる人もあれば、悪いといわれる人もあります。
どこの世界でもそうでしょう。
ですから、被差別部落の人でも、外国人でも、経済的に恵まれない人でも、どこの世界でも、いいといわれる人もあれば悪いといわれる人もあるわけです。
ですから、押しなべていいとか、悪いとか決め付けるのは偏見、間違いということでしょうね。
 
彼や、彼の父や家族が救われる世界
 
さらに、差別は当然という人が救われる世界は、やはり、先の財産、家柄などの世間体にからめとられてしまう考え方生き方から人間性に基く考え方、生き方への自覚が内心に確かに確立されることでしょう。
それは、差別者といわれ、差別意識にからめとられ、偏見に絡められた人を、憎しみを超えて、悲しき人、早く、目覚めてもらうべき人として、大きく包むことの出来る心が開かれる世界でもあるでしょう。
仏教徒なら、かくありたしと思います。
 
広島・有限会社平成タクシー不当労働行為
広島労働相談(広島ユニオン)ブログより
申立書などによると、組合員は昨年、10月下旬、無事故手当カットの撤回や正常な労使関係構築などを求めて15日間のストライキを実施し、待機所となっている商業施設周辺でチラシを配るなどした。
11月4日、組合員は「お客様の敷地に入り、業務を妨害する行為をした」などとして、タクシーの乗務停止と無線配車停止の懲戒処分を受けた。
半数程度の組合員は11月の収入がほぼなくなったという。
ストライキ後に会社から受けた懲戒処分は、労働組合活動に対する処罰で不当労働行為に当たるとして、「有限会社平成タクシー」(広島市安佐北区上深川町256―1)の社員でつくる労組「スクラムユニオン高陽分会」の組合員12人が24日、処分取り消しや慰謝料などを求める労働審判を広島地裁に起こした。
 代理人の平田かおり弁護士は「組合活動阻止の目的で処分したのは明らか。
きちんとした労働環境で働けるようにとの思いで申し立てた」と説明している。以上
この件は、去る7月25日、県労働委員会から次のような命令書が平成タクシー宛に出されました。
「会社は、教育指導の業務を命じるに当たって、組合員の正当な組合活動を理由として差別する取扱いをしてはならない。
また、組合への加入を妨害する言動等により、組合の組織及び運営に支配介入してはならない。
会社は、本命令書受領の日から 一 週間以内に、下記の文書を組合に交付するとともに、縦 一 メートル、横 一 メートルの大きさの紙に記載し、会社事務所正面玄関の従業員が見えやすい場所に 30 日間掲示しなければならない。」
「掲示内容」
「当社の貴組合分会所属の組合員に対する、正当な組合活動を理由として教育指導の業務を命じない不利益取扱いや、他の従業員に対する貴組合分会への加入を妨害する言動等が、広島県労働委員会において、労働組合法第 7 条第 一 号及び第 三 号に該当する不当労働行為であると認定されました。
今後、このような行為を繰り返さないようにします。」
というものでした。
垣根を越えて闘う
支援先:スクラムユニオン広島〒732―0057
広島市東区二葉の里1―3―16 吉村ビル3階電話/Fax 082―262―3751Eメール roso34@ybb.ne.jpホームページ http://www.geocities.jp/rosohi
これは時々紹介する、現実の労働ニュースです。
私も応援しています。
労働問題で悩む方はぜひここへ連絡を
 
2,011年8月
盆会法座のご案内  17日(水)夜〜19日(金)日中 初盆物故者・全戦没者追弔法要・・19日々中      日中 9時半・夜、7時半時始 『仏法と人生と社会』  住職自修 本郷親和会共催
 
映像による原発問題学びあいの集い          26日(金)夜7時〜10時 27日(土)朝9時〜12時 講師陣 小出裕章、広瀬隆、武田邦彦他 ユーチューブのプロジェクター映像講演 飲食持ち込み自由 参加費無用 映像講演から、学び語りましょう 誘い合って気楽にどうぞ
 
辛淑玉さんが突きつけた女性差別・天皇制
 
辛淑玉さんは在日朝鮮人の女性です。
人材育成コンサルタント会社の代表で、著述、講演で全国を駆け巡っておられます。
念仏者9条の会での講演でした。
司会者は男性僧侶でした。
司会者は、開口一番、「辛さんは怖い人かと思っていましたら、かわいい感じでー、云々というように紹介しますと、早速「あー、あなたの中には、女性は、かわいくあるものだ」という観念があるのですね」などと切りかえされました。
辛さんは平素、女性差別にも歯にきぬを着せぬ、発言をしておられるようです。
私達男性僧侶の差別性をえぐられる講演が続きました。
僧侶なら、人権思想、平等思想が徹底しているはずなのにどうですかというような問い詰めでした。
具体的な例話の問いかけで、平素、気付いていない、男のおごり、高ぶりなどの差別性を抉り出され、内心タジタジの思いでした。
でもその時だけでも、「アー、イケン、イケン、」と反省の貴重な一時を与えられました。
また、辛さんは、9条ももちろんだが、憲法1条つまり、天皇制についてはどうですかと、司会の僧侶に尋ねました。
まことに、シンスゴの名前どおり、辛辣でスゴい人だなーと思いました。
残念ながら、当の僧侶は答えませんでした。
イヤー、辛さん、さすがと思いました。
9条改憲だけでなく、天皇制もおかしいと思えないなんて、仏教、真宗ではないという思いをずーっと持っていましたから。
 
仏教と天皇制
 
お釈迦さんも、もと、カピラ国の王子であり、このお釈迦さんがモデルになった、阿弥陀さんも、もとは、国王であったとして物語られています。
国王に付随する、世俗の権力、財力、武力などを、まことに叶うものではないと放棄して、無我、慈悲、利他、布施といった「徳」の方向に生き方を変えられたのがお釈迦さんや阿弥陀さんの世界でした。
親鸞さんの主著にも、「出家の人の法は国王に向かいて礼拝せず云々」の経文を引用されています。
ですから、皇族ということで、国税で特権的に保護されながら、女性は、皇位継承から外され、信教、選挙、居住、職業の自由などの基本的人権が奪われている、この天皇制は、仏教、真宗からは相容れないものということになると思います。
特権身分を保存することも、被差別部落の人や、辛さんのような在日朝鮮人などを差別することも、真の民主主義とは言えない、仏教の目指す同朋社会とは言えない。
 それは、仏法ではないということになると思います。
 
原発は温暖化防止に良いはウソ
「日本カトリック正義と平和協議会の資料〜」
 
地球温暖化は、生命にとって危険ということで、炭酸ガスを出すまいと、政府や電力会社は「原子力は、炭酸ガスを放出しないゼロエミッション電源だ、クリーンエネルギーだ」と宣伝してきたようです。
それは間違いだといいます。
その理由として、巨大な原発を動かそうとすれば、燃料のウラン採掘から、濃縮・加工の過程で、さらに、原子炉建設時はもちろん、原発運転時、さらには、老朽化を迎え、高レベルに汚染された原子炉を解体する廃炉時や、使用済み核燃料や死の灰の未来にわたる管理にいたるまで、火力発電などの膨大なエネルギー供給システムを必要とするとあり、  原発の万一事故の補充電源に石油、石炭火力などの発電所も増えることから、炭酸ガスを大量放出することになるといいます。
 
2,011年7月
聖典学習会のご案内 25日(月)夜・26日(火)日中    日中9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」     住職自修  参加費無用   聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
 
前回の学習内容から
 
『経』(大経)には「即得」といへり、
釈(易行品)には「必定」といへり。
「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時剋の極促を光闡するなり。
「必」の言は審なり、然なり、分極なり、金剛心成就の貌なり
 
これは、仏の「まこと」に目覚めたもののあり方についての親鸞様自らの実にすごい表明文です。
解説してみます。
大無量寿経には、仏の「まこと」に目覚めるなら、即得といって即座に「まこと」を得るとあります。
また、竜樹菩薩の易行品(書物)には、それを必ず往生成仏に定まるといって、必定とあります。
「即」という言葉は、「仏の一切を救う」という願いのはたらきを聞いて、「私にはこんな尊い願いは到底無く、私の願いは、しょせん自分中心、不純なものだ」と目覚め、それゆえにこそ、この仏の尊い願いこそ、「まこと」なるものと目覚め、これを願い、これに生きようとする、確かな自己の成立することが即、往生成仏という究極の「まこと」に向かう真の因が決定する、光のごとき瞬間の開けなのです。  
「必」の言葉は、先の、「まこと」への目覚めとは、あやふやなものではなく、はっきりとした目覚めであり、しかとしたものであり、まことに、「真」と「虚仮」が分極されるものであり、もはや、揺るがず壊れない、ダイヤモンドのような固い心が成就した相なのです。
どうです、すごいですね。
 
「まこと」と「うそ」の同時の目覚めの救い
 
私達もこのような目覚めがはっきりとしない限り、真宗によって救われたという実感もおぼつかないことになりそうです。
私には、こんなに明確な目覚めがあるとはいえません。
でも本当に救われるということは、こういう目覚めがどんな苦悩に翻弄されようとも、決して失せることも、あせることも無く、一生、私の命の内面から吹き上げ続けてゆくものでなければならないものなのでしょうね。
まことに仏教は、至純なるものの探求であり、逆に同時に、虚仮不実なドロドロなる煩悩のしがらみを身に痛ましめられるものと思えます。
親鸞様の、「まことなるかな」と「仏」を仰ぎ、「悲しいかな」と自らを痛まれたことをあらためて思います。
 
聖典学習会へのお誘い
 
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーしますから、大丈夫です。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
 
反省しながらも、中々変わらない、でもまあこのままに
 
私は、無我ということを説く、坊さんのくせに、我執という自分への執着が強すぎるのではないかとよく思うことがあります。
つれあいは、私や他者にも、「この住職は謝るということがありません」とよく申しますからね。
私は、人の集まりに出ると、その雰囲気になじむのに時間がかかるような気がします。
どこか、自己防衛と自意識に自縄自縛されて緊張してしまうのでしょう。
それは、顔や態度に表れていることを自分で自覚します。
そのことを自分で嫌に思い、恥ずかしくも思い、そうであってはいけないという思いに、自分で葛藤します。
そんな自分だからでしょう。
たいていの集会で、よく発言します。
質問の時間があると、何か言わなければならないというような自分への強迫観念のとりこになるような気がします。
発言しながら、どこか攻撃し、ええかっこうしているようで、いつも恥ずかしく思います。
「一言居士」という言葉を聞くと、自分のことかとヒヤッとします。
あー、これが、ただサラサラと、自己への執着ではなく、ただ、ごく自然に、しかも至難なことですが、自分とは違う意見の人に対して、攻撃の敵対感情ではなく、慈しみ、同朋の情で発言できたらいいのにといつも反省します。
なかなかそうなれません。
でもまあ凡夫の恥をさらしつつ、一生の課題の歩みのような気がします。
40年、一貫して原子力反対の小出裕章さん
 
去る3日、広島で、京都大学原子炉実験所助教、小出裕章さんの講演を聴きました。
今、ベストセラーという、「原発のウソ」という著書も買って読みました。
小出さんは、今、反原発の専門家として、第一人者のような著名な人です。
小出さんは、はじめ、原子力の平和利用ということで、原子力の道に入られましたが、途中から原子力というものは、人間が手を出すべきものではない、危険なものであるとの信念から、40年間一貫して、原子力に反対し、その危険を訴え続けておられる研究者です。
本人の弁では、今まで同じ原子力専門の研究者仲間の先輩など原子力推進の立場の人たちと論争してきて、たいてい、勝って来たと言います。
それで、もうとっくに教授になれるほどの実力者でありながら助教(昔の助手)という地位に甘んじているのは、圧倒的な原子力推進論の中で、反対する、極少数派への圧力などから、自ら昇進の道を捨てたといいます。
それは、教授になれば、研究以外の諸用も多くなり、研究に没頭出来ないからという事情もあったようです。
 本人の弁では、たとえ薄給でも子どもを育ててこられたし、生活も別に贅沢をしたいというような考えもなかったからのようです。
「文明とは電気のつくことではない、人を殺さんことである」「少欲知足」といった人生観の持ち主でもあるようです。
私は、ずーっと、インターネットでも毎日、まだ収束しない、福島原発の状況を、この小出さんから調べ続けています。
 
夏の電力不足は、電力側のおどし
 
この夏、中電は大丈夫のようですが、東電、関電など、今、原発停止などでこの夏の電力不足について節電を訴えています。
これに関して、去る3月11日の大震災のとき、関東が計画停電で混乱したことがありました。
ところが、ある専門家が、これは、東電による、脅しだというのです。
つまり、あの福島原発の事故によって原発反対世論が増大するかもしれないという懸念に対して、原発推進の東電側が、計画停電をあえて仕組んで、「原発がなければこのように電力不足になるぞ」との脅しを仕掛けたのではないかというのです。
そのことを聞いていたので、この夏の電力不足と節電という、日本の多くの電力会社や政府やマスコミによる訴えも、これはマユツバモノではないかと思っていたところでした。
案の定、小出さんは、この講演で、今、原発をすべて止めても、火力、水力、自家発電で十分間に合っていて、今、電力会社側が夏の電力不足、節電を言うのは、これも、原子力発電を推進するための脅しですと言っていました。
節電の大事
 
ただ、節電は電力が不足しょうが、すまいが大事だと思います。
無駄な電気を使わず、みんなが節電に努力して、少しでも原発をやめ、クリーンエネルギーに変えることにつながればよいことだと思います。
私は、家ではコンセント抜き魔です。
 
核兵器開発のために原発がやめられない
 
こんなにたいへんな原発事故があっても、原発を電力会社も政府もやめないというのはどういうことかということを小出さんは話しました。
まず、国の防衛勢力は、日本の核武装のためにも、原発をやめられないということのようです。
原発を継続しなければ、核兵器開発が出来なくなるからといいます。
日本の財界は、兵器産業にも期待を抱いていて、武器輸出の制限を緩めたいというニュースもかつて聞いたことがあります。
そして、憲法9条を変えて、自衛隊を正式な軍隊にして日本を再び戦争のできる国にしたい勢力には、強い日本を目指すために、核兵器を持つべきだという考えもあるといいます。
 
原発がやめられない他の理由
 
さらに、今まで、原発を製造してきて、輸出しょうとしている東芝、三菱、日立などの企業や、それに関係する、日本の総体的な諸企業、研究所、技術者、学者、官僚、政治家、そして、電力会社から多大な広告費をもらうマスコミなどの原発推進への強大な連結があるからのようです。
また、電力会社の利益は、法令で、保障されているといいます。
これは、電力設備等に対して、一定率で利益幅が保障され、優遇されているといいます。
ですから、設備費用が膨大な原子力発電のほうが、他の水力、火力より儲かるということになっているといいます。
 
まだある福島原発、水蒸気爆発の危険
 
東電も政府も、原子炉の圧力容器の底が燃料の高熱で、熔けて「メルトダウン」から「メルトスルー」ということは言っているようですが、その先、最後の砦の格納容器の底を抜き、その下のコンクリート、さらに地下まで熔け沈んでいることまでは公表していません。
そうなら、爆発の危機はないだろうといいます。
しかし、地下水汚染増大の別の危険があるといいます。
また、もし、まだ、燃料が熔け残っているようなら、残っている水によって水蒸気爆発という、今まで以上の最大級の爆発の危険は残っているといいます。
 
 
 
 
2,011年6月
 
夏法座のご案内 12日(日)夜〜14日(火)日中 日中9時半・夜7時半始め 講和と話し合い法座 『仏法と人生と社会』 住職自修 ぜひ、共に学びあいましょう。
 
宗教へのうたがい
 
私はよく思います。
科学の発達していない昔ならいざ知らず、今は、学校で、科学的にものを学び、考える時代なのに、よくも、『神』とか『仏』とかが本当に実在していると信じられるものよと。
テレビでも、三輪明宏さんなんかがよく、『霊』や『前世』『来世』などのことを言っていますね。
また、『私は霊感が強いんです』という人が有り、自分の体験から、信じている人はかなりあります。
私は、本当に、よくも信じられるものよと思います。それは私に、そんな、『霊』的な体験が無いからでしょう。
精神科医の中には、このような『霊体験』をする人は、脳に傷があるのだと言っている人もあるようです。
脳に傷があるから、『霊』を感じるというのですね。ともかく、神や仏や前世や来世や霊を信じられる人もいれば、逆に、私のように、そういう、霊的な体験もなく、『神』も『仏』も『霊魂』も『来世』も『前世』も信じられないものもいるということでしょう。
 
私の宗教への姿勢
 
さしあたり、私は、『無神論者』『無仏論者』ということになります。
また、宗教の信仰を持っている人からいうと、私は、科学信仰者ということになりましょうか。
そうはいっても、もちろん、今の科学の探求したものが、絶対の真理だと信じきっているわけではありません。
科学は、どんどん進んで行きますからね。
そういえば、信仰を持っている人だって、自分の信仰が絶対だと信じておられたとしても、心のどこかには、『実は、神も仏もいないのでは?』との疑いが、ちょくちょく顔を出すのではないかと想像しますが・・・。
 
信仰としてではなく、思想としての真宗
 
いつも申しますように、お経は、無名の誰かが創作したものだと受け止めています。
阿弥陀仏も浄土も、経典創作者が、ある『意味』を象徴的に表現していると学んでいるわけです。
『ある意味』
それを、私は、「無我」「慈悲」「利他」「布施」といった事柄ではないかと思っているのです。
ですから、私は、『信仰』として仏教を学び、説いているのではなく、『思想』として仏教を学び、解き明かさせてもらっているつもりです。
 
阿弥陀仏や浄土の実質の意味への出会い
 
浄土真宗を、信仰ではなく、思想だなんて、と皆さんのなかには違和感を覚えられる方も相当おありだろうと承知はしています。
でも、皆さんのなかに、本当は、心から、阿弥陀さんや浄土を実在するものとして信じきっておられる人は少ないと思うのです。
多くの方が、阿弥陀仏や浄土の実在を信じるか信じないか以前に、ただ、阿弥陀様や浄土について書かれたり、説かれたりしている内容に、何らかの感動を得ておられるということは事実だと思います。
それは、阿弥陀仏や浄土と表現された実質の意味に出会っておられるということでしょう。
目下のところは、経典創作者の伝えたかった『意味』を確かめながら、それをヒントに、『生き方』『救い』といったものや『社会のあり方』を模索し続けたいと思っています。 
皆さんは皆さんなりに、こういった問題に、なんらかの答えを持っておられると思います。
お互いに、聞き合い、語り合って、さらに、学びあい、高まりあいたいと思います。
 
原発問題
 
このところ、ずーっと、この問題にこだわっています。皆さんもそうでしょう。
原発推進派と反対派があります。
その中にも様々な意見があります。
偏見かもしれませんが、以前から、私は反対派です。
以下、『日本カトリック正義と平和協議会』の反原発パンフレットなどから、原発問題を考えます。
京都大学原子炉実験所、小出裕章助教の監修です。
 
今、原発全廃しても大丈夫
 
 国内の原発を即刻やめても電力不足に陥ることはないとあります。
電力には、水力、火力、原子力、自家発電があります。
原発の発電をすべて、火力発電でまかなっても、全部の火力総発電量のまだ7割にすぎず、まだ3割、電力は余っているとあります。
総発電設備の18%しかない原発だけはフル稼働で、火力はむしろ止めているのが実状とか。
なぜなら、原発は途中で停止すると危険なので止めることが出来ず、代わりに火力を止めているだけのこととか。
2005年の発電実績のグラフでも、全部の火力の年間発電総力は、1兆2千億Kwhなのに、火力と原発含めて実際の発電量は、8千億Kwh台だけだったとか。
2007年の発電総量は、約1兆Kwhで、これに対して、原発以外の火力水力発電可能量は、1・6兆Kwhもあるとか。
それで、即刻原発止め、やがてクリーンエネルギーへ。
 
原発一基で広島原爆千発分の死の灰
 
100万Kwの原発は、年間、広島原爆の1000倍の『死の灰』を生み出しているとあります。
 
死の灰の恐怖
 
死の灰とは、放射能を持つ核分裂生成物です。
その中には、様々な危険な放射性物質があります。
ヨウ素131は、甲状腺に蓄積し、その周囲の細胞を被曝し、破壊し、発ガン化させます。
ストロンチウム90は骨に蓄積し、同じように発ガン化し白血病を起します。
プルトニウム239は肺がんを引き起こします。
コバルト60は肝臓がんを引き起こします。
セシウム137は生殖腺で不妊、ホルモン障害、遺伝子突然変異を引き起こします。
 
今までの原発から、広島原爆120万発分の死の灰 
 
2010年現在、日本の原発54基分の今までの死の灰の総量は、広島原爆120万発分で、放射線を放出し続けているといいます。
これらの死の灰の多くが、青森県の六ヶ所村の再処理工場に集められています。
 
青森県、六ヶ所村再処理工場の危険
 
ここでは、国の核燃料サイクル政策で、全国から集められた死の灰が、再処理され、プルトニウムを取り出します。
最終処分は不定ですが、ここで出る低・高レベル放射性廃棄物を冷却しながら保管しています。
ここでは、1基の原発が1年かかって放出する放射能を一日で放出するといわれるほど危険な工場です。
 
高レベル廃棄物は一〇〇万年の隔離
 
これは冷却後地中に埋め捨てるということになっていますが、しかし、100万年もの間、生命環境から隔離しなければならない危険物といいます。
ところが、地震火山の多い国内では、地中処分は危険で、それらあらゆる意味で人類の管理の限界を超えているといいます。
 
核燃料サイクルとプルトニウムと高速増殖炉
 
原発のウラン燃料は、全ウランの0・7%と量が少なく、そのために、他の違うウランをプルトニウムに変えることを考えました。
プルトニウムを燃やしながら、燃やした以上のプルトニウムにこのウランを変換するという夢のような原子炉、これが高速増殖炉です。
 
高速増殖炉『もんじゅ』の危険と核兵器開発への懸念
 
試運転以来事故続きで去年炉内に機械を落下させ、炉外に引き出せなくなっています。
若狭湾は、この度の東日本地震に次いで危険度の高い地震地域とされていますし、ことにこの『もんじゅ』は廃炉しかないと危険視されています。
そして、国がこの高速増殖炉に固執するのは、核兵器用の高純度プルトニウムを生み出す期待が有るからであるとあります。
 
長崎原爆4千発分のプルトニウム保持
 
すでに核燃料サイクルで、長崎原爆4千発分のプルトニウムを保持したといいます。
 
プルサーマル発電の危険
 
日本は、原発で出た使用済み燃料をイギリス、フランスに送ってプルトニウムを45トン分離してもらっているそうです。
高速増殖炉の燃料として使うつもりでしたが、『もんじゅ』の事故続きで、プルトニウムが使えずに残り、そこで、ウランと混ぜて、原発で燃やそうというのが、このプルサーマル発電です。
これは、灯油ストーブに、ガソリンを混ぜるようなものだとその更なる危険が叫ばれています。
 
やはり脱原発では
 
福島原発では、燃料が解け落ち、穴が開き、やがてコンクリートから、大地に埋まりこんでゆき、地下水や冷却水の海洋汚染へと懸念が拡大します。
ともかく、大事故が無くてもウラン採掘のはじめから、水や空気を放射能で汚染し、原発労働者から、原発近辺の住民の、ことに体内被曝による健康や命の犠牲、終末の原発石棺、さらに、高レベル廃棄物の100万年隔離まで、まことに、いのちへの冒涜、地震列島の事故の大災害を考えますと、やはり脱原発と思っています。
 
 
2011年5月
聖典学習会のご案内                       14日(土)夜・15日(日)日中 夜、7時半・ 日中、9時半始                  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用       どうぞ誘って気楽にご参加下さい。 「真実」「虚仮」とはどういうものかを、身にかけて学ばせてもらいましょう。                    
 
前回の感動内容から
 
深く大悲を行ずとは、衆生を愍念すること骨体に徹入 するがゆえに名づけて深とす。 一切衆生のために仏道を求むるがゆえに名づけて大 とす。 慈心は常に利事を求めて衆生を安穏す。
 
前回は、坊守も都合で参加できず、参加者も一人でした。
その方とは、聖典を学ばずに、人生経験の四方山話を聞かせてもらいました。
話の中で、人間の煩悩というものを他人事ならず、自分のこととしても思い当たることでした。
この感動内容というのは、私自身、「顕浄土真実教行証文類」の行巻の自習の時に見つけたものです。
以下、解説させてもらってみます。
まず、大慈悲を実践するのに、深くというところに注目します。
浅くではないのです。
ある人が、「他人の怪我は、たとえ重傷でも、自分の身は痛みません。
しかし、自分の指に刺さった小さなトゲに自分の身は痛むのです。」ということを申しておられました。
まことに、この度の大震災、津波、原発の被災者の方々のことでも、しょせん凡夫は、他人事です。
浅い、浅い、薄っぺらな同情でしかありません。
ある法事の席で、『こんなことを言っては、悪いが、実際、あの津波の押し寄せるテレビの映像を見ながら、大変だと思いながら、もう一つの心は、野次馬、興味ごころでした。』と申されました。
私も、相づちを打って、『ええ、私もそうでした。』と告白しました。
とてもとても、他人の痛みが、骨身までしみとおるということなんかありません。
こんな、私らには、決してありえない、骨身に徹入するという、大慈悲の世界を、経典作者は、『仏の大慈悲』『仏心』と象徴的に表現されたことと思います。
仏道を求めるのも、これも、知識、教養の自己満足のためではなく、一切衆生を救済しょうとすることであるがゆえに、『大』というのでしょう。
自分のためだけの仏道は、まさしく『小』です。
ちっぽけな世界です。
まことに『慈悲』とは『利他』ということです。
そして、他者の人生の根本的な不安や、迷いを、安らげ、穏やかさへと導くということでしょう。
まことに、ここからでも、『真実』と『虚仮』に思い当たります。
 
聖典学習会へのおさそい
 
このように、聖典は、深く考え学ぶことが出来ます。
こんな話があります。
関東に旅行して、宿屋から、帰る時、みんなと計って、宿屋の部屋の飾り物など、かっぱらって持って帰ろうとしていました。
そして、フト窓の外に目をやりました。
そこには、実に、美しく朝日に映える、富士の霊峰がそびえていました。
みんな『うわー、すばらしいなー、きれいだなー』などと感嘆していました。
すると、そのうちに、なんか、みんな恥ずかしくなってきて、かっぱらおうとしたことを恥じ入って、かっぱらうことをやめたということです。
まことに、仏法を学ぶということは、こういうようなことでもありますね。
 「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーしますから、大丈夫です。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
 
坊守をぶったたいたこと
 
去る朝、坊守が、私のいつものふざけた暴言に、私の肩甲骨を、『アッ、痛い』と思うほどに、ゴマすり中のすりこ木でたたきました。
私は『アッ痛ッ』と声を発したと思います。
それも坊守にしてみれば、ちょっとしたお仕置きのつもりだったのでしょうが、当たり所が悪く、骨に当たったのでした。
その声に驚いて、坊守は、『あ、ごめんなさい。
じゃあ今度は私をたたいてもいいよ』と言いました。
とっさに、私は、へいぜい、坊守にうざったい思いを抱いていましたし、怒りが生じて、かなり力を込めて、坊守の肩をめがけて、握りこぶしを打ち下ろしました。
 坊守が本気でたたいたとは思っていませんでしたが、『痛さ』に腹が立ったのです。
まことに凡夫といって逃げてはいけませんが、低劣な『凡夫』です。
自分でも、力を込めたと思っています。
かなり痛いだろうなとも思いました。
確か坊守は『痛い』と叫んだと思います。
どんな会話をしたか覚えませんが、確か私は、謝りもせず、自分の部屋に入り込みました。
部屋に入って、あんなにたたくんじゃあなかったとは反省していました。
あー、心も傷ついたに違いないとも。
でも謝りません。
乱れた思いで、部屋で、気が落ち着かず、新聞も集中しません。
坊守は、泣いていたと思います。
その時、私の非情、いつものように謝らないことに、離婚、里帰りを考えたといいます。
手がしびれているといいました。
私も、離婚されても仕方があるまい、恥じは恥でもしょうがないなどと居直っていました。
でも内心、それほどのことも無いとは思うがなーとも思っていました。
坊守が児童センターへ仕事に行くので、車で送ったと思いますが、二人ともほとんど無言であったと思います。
帰りも迎えに行きましたが、気まずい空気でした。
『手はどうか』と聞いたことは聞いたようにおもいます。
娘にも気まずい、いやな思いをさせてしましました。
夜の会話で、必死に、私達の間を気遣っていてくれました。
けなげで、申し訳なく思いました。
坊守は、好きか嫌いか、どうかなどと聞いてきます。
私は好きというほどのことでも無いが、嫌いというほどのことでもないなどと答えていました。
そんなこんなのうちに、なんか笑が生じてきていました。
私も内心『ホッ』としました。
その後しばらくは、自分への自重や神妙な思いがありましたが、でもまた、今はもうすっかり、いつの間にか、もとどおりになって、本気とも冗談ともとれぬ、こげんかをくりひろげています。
まあ、どっちもどっちだということもあるでしょうが、私の、口の悪さはいけんと思っています。
性格の悪さもあると思います。
それは、恥ずかしながら、心がきれいでないからということでしょう。
口や文章でもっともらしいことを説く僧侶でありながら、まあ、いいざまです。
でも、これが事実ですから、まことに、仏法が身についていない証拠です。
これでいいとは思いませんが、こういうざまのままにも、でも、一生かけて、いささかなりとも、いわれるところの、脱皮成長したいとは思っているのです。
お笑いください。
 
夜と霧
 
これはどんなに絶望的な状況の中でもなお誇りある生き方を示唆している有名な本です。
これは、ナチスドイツによって、ユダヤ人であるがために、強制収容所に家族もろとも連行され、両親、妻、子ども二人とも、ガス毒殺、飢えによって虐殺されながら、自分は、かろうじて生き残った、フランクルという人の書いた、収容所の記録です。
このユダヤ人抹殺というナチスヒットラーによる国家犯罪で、600万人もの人々が、飢餓、虐待、毒殺等で殺されたといいます。
今、朝日新聞に、この本を読んで、生きる力を得られた人々の記事が連載されています。
今、東日本大震災によって絶望的な思いにふさがれている人々にとって、何らかの生きる力を得ていただきたいとの応援の記事のような気がします。
フランクルは、ユダヤ人みんなと列車に詰め込まれて、収容所に強制連行されました。
手荷物は没収、労働に使えるか否かで選別され、9割は、ガス毒殺され、体力のありそうな者の一人として過酷な強制労働に従事させられました。
その4日間でも、食べ物は、たった150グラムのパン一切れでした。
飢餓や病気で働けなくなると、ガス毒殺行きです。
未来への絶望と心のよりどころを失った人は、心身が崩壊し、懇願しても、威嚇しても、殴打しても、一切を拒否し、自分の糞尿にまみれて、衰弱死するか、殺されるかに身を任せたきりになりました。
自殺する人は、電柵の鉄条網に向かって走り、看守に狙撃されるか、鉄条網で感電死するのでした。
それは、もはや人生に何も期待するものが無い状況の中で、実は、人生の方が自分に期待しているものを見つけられなかったのだと言います。
『苦悩の極みによって昂められうる道が見えなかった』のだというのです。
看守には、囚人が当たり、犬をけしかけ犬にかませるというようなあらゆる、虐待を快感のように行いました。
ある時、餓死寸前の仲間のジャガイモ盗みが発覚しました。
犯人を出せと命令されました。
犯人を出さねば全員一日の絶食が言い渡されました。
でも、2500人の仲間は、彼の死刑を拒むため、全員一日の絶食を受容しました。
フランクルはみんなに言いました。
『この困難な時と、また近づきつつある最後の時にわれわれ各自をだれかが、求めるまなざしで見おろしているのだ・・・・。一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者、・・・そして一つの神が。
そしてその者は、我々が彼を失望せしめないことを期待し、また我々が哀れに苦しまないで、誇らしげに苦しみ死ぬことを知っているのを期待しているのだ。』と
訳者はあとがきに、『私を感動させたのは、収容所の事実の話ではなくて、彼がこの地上の地獄ですら失わなかった良心であった。』と書いています。
 
2011年4月
 
永代経法座のご案内 9日(土)夜席〜11日(月)日中席 おとき日・・・10日(日)日中 夜、7時半・日中、9時半はじめ 講師 三次市 西善寺住職 小武正教殿 どうぞ、誘い合ってお参りください
 
震災救援金へのおねがい
 
まず、東日本大震災の被害者の方々にお見舞い申しあげます。
被災地の人々の、家財産だけでなく、家族友人を失い、町が壊滅し、放射能の危険にさらされ、遠いところへ避難させられて、風呂もままならず、寒くて、水や食べ物も少ない状況が目に入ってきます。
それを、暖かいコタツに入って、風呂へも入り、食事も十分にいただきながらテレビの惨状を見るのが申し訳ないような気がします。
震災救援金を本願寺だけでなく、広島別院でも受け付け、被災地に送金予定です。
山県太田組で集約しますので20日ぐらいまでにご協力下さるお方はどこのお寺でもいいですから、届けてください。
 
被災者、佐々木さんのこと
 
3月22日の朝日新聞に、妻と二人の子を津波で失われた佐々木さんの記事がありました。
『現実から逃げようとしたって逃げられないのはわかっていた。
でも受け入れられない。
空しさ、悔しさ、悲しさ、わびしさ、あらゆる感情に襲われた。
津波がすべてを持っていってしまった。
なぜ3歳と4ヶ月の未来と希望ある幼子まで奪ってゆくのか。
そして、なぜ自分だけ生き残ってしまったのか。
残されたことに何の意味があるのかわからなくなった。
「後を追おう」本気でそう思った。』と
 
救われるということ
 
いつも仮のお話をしますが、私なら、報正寺が全焼して、家族、兄弟、親族がみんな死んで、私も大やけどと癌で入院し、寿命が、後一ヶ月という状態になったとして、なおそれでも絶望せず、願いを失せずに生きて行くゆるぎない道が確立しているなら、それこそ《私は救われている》ということが出来るでしょうね。
坊守は、いつも「自分が体験していないことを言わないで」と私を批判します。
私は、「うーん、そうかもしれんがー」とは思いますが、でも、いつも極限状況というものを想定して、考えてみようと思っているのです。
 
私の願い
 
もとより、仮の話で、まことにそれが現実になったときは、間違いなくうろたえることでしょう。
でもそんな絶望的な状況の中でも、最後まで、周りの人のことを思いやる努力を忘れなかったら、また、見舞いに来てくださる人には、逆に、励ましてあげられるようだったらいいのだがと思います。
そして、最後まで、人権や平和が侵されない公平な世の中の実現に向かってささやかでも、やれることがやれたらいいのだがと思っています。
 
お釈迦様
 
80歳、伝道の旅の途中、臨終最後の言葉は、『自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、法を灯火とし、法をよりどころとせよ』という言葉でした。
これは、自分の生き方を家族や世間や国家や宗教や思想や誰にも何にも隷属されず、束縛されず、自ら主体的に自覚して自立して生きよということと受け止めます。
そして、自分の煩悩によることなく、それを制御して、自らを律せよ、それが『法』をよりどころとするということであると申されているようにうけとめます。
この『法』とは、万物の無限の関係性『縁起』の道理であり、そしてそれを踏まえた、無我、慈悲、利他、布施の道でした。
こういう道こそ、老、病、死、愛別離苦等の苦悩を超える道だということと受け止めます。
 
親鸞様
 
御消息「手紙」二五に 『詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はばめでたう候ふべし』とあります。
これは、『ようするに、あなただけでなく、念仏に生きる者は、自分のことは思わずとも、人が殺され差別される、間違った政治社会、間違った人々の生き方を、
みんな尊重される政治社会、みんな尊重する人々のあり方の為に念仏に生きるならこれこそ何よりめでたいことです』と申されているように受け止めます。
 
2011年3月
聖典学習会のご案内 18日(金)日中・夜 日中9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 どうぞ誘って気楽にご参加下さい。 「真実」「虚仮」とはどういうものかを学ばせてもらいましょう。
 
前回の感動内容から
 
「われ作仏せんとき、他方仏国の人民、前世に悪のためにわが名字を聞き、およびまさしく道のためにわが国に来生せんと欲はん。 寿終へてみなまた三悪道に更らざらしめて、すなわちわが国に生れんこと、心の所願にあらん。 しからずはわれ作仏せじ」と。
 
これは「無量清浄平等覚経」という無量寿経の異訳経典を、親鸞様が引用されたものです。
無量寿経は、古来、五存七欠といって、十二通りの異訳経典があるようで、現存するのは、五経典で、後の七経典は散失しているというのです。
十二の経典作者が同じか違うのかもわかりません。
とにかく経典創作者は、経典創作によって、真実というものと、虚仮というものをあらわそうとしたのだと考えます。
これは法蔵菩薩の願いです。
法蔵菩薩は、阿弥陀如来の前身です。
これは、『私が、仏になるとき、よその仏の国の人民が、過去、悪いことをして、その慙愧から、わが仏名を聞いて、まさに真実の道を願ってわが仏国に生まれようと欲するであろう。
そして命終わって、ふたたび、地獄「たとえば戦争」餓鬼「たとえば飢餓」畜生「たとえば差別」といった、三悪道の世界に還らないようにさせて、清らかなわが仏国に生まれること、それは、心の根源的な願望であることに違いは無い。
それが叶わないようなら、私は、決して、仏にはなるまいぞ。』と、と読めます。
ここに、法蔵菩薩の願いと表現した、経典創作者の昇華された願いというものを感じ取ります。
 
聖典学習会へのおさそい
 
このように、聖典は、深く考え学ぶことが出来ます。
風呂へ入って体の垢を落とすように、聖典の温泉に入浴して、日ごろの心や命にこびりついている垢を落としたいと思います。
また、もちろん、すぐに垢はつきます。
外からくっつく汚れと、内側からにじみ出てくる汚れが垢になりますが、毎日いつも、風呂上りのように、すっきりした心地で生活したいものです・・・・。
 「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーしますから、大丈夫です。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
 
山口・上関・原子力発電所建設抗議へ
 
去る2月21日、ニュースでご存知のように、中電は、一年三ヶ月ぶり、午前二時、突然、警備員、作業員約600名という動員体制で、工事を再開しました。
知人の僧侶から、当日、夕方、興奮気味に、「大変です。明日、早朝一時に出発します。いっしょに抗議に行きませんか」と電話がありました。
こういう緊迫した状況に抗議に行くのには、心の準備もあるし、早朝でもあるし、申し訳ないながらもお断りしました。
一日中、その思いをひこじっていました。
夕方、また連絡が入りました。
やはり、警備、作業員とせめぎ合いがあって、再度、
明日、23日、朝4時出発するということでした。
抗議行動は、あくまで、非暴力ということでした。
私は、参加する気持ちはありましたが、緊張感もあり、心の準備をすべく、返事はするから、もう少しまってくださいと電話を切り、一時間ぐらい考えました。
 
私の原発反対への考え方
 
私はかねてから、ウランを採掘する労働者の被曝、ウラン燃料を製造し、搬送する人々の被曝、原発下請け労働者の被曝、原発周辺、再処理工場周辺の被曝、プルトニウムによる、核兵器開発、
放射性廃棄物の半永久的管理、大量の温排水の魚介類への影響、地震、テロ、事故の危険、老朽処理に伴う、膨大な費用等々で、危険な原発に頼らない、クリーンなエネルギーをという考えでいました。
このように、原発反対の意思は持っていましたから、去年、10月、誘われて現地に行ってはいました。
 
決断まで 
 
国は、原発推進、山口県は、原発建設のため、海面埋め立て工事許可。
それに反対するということは違法ではないか。
しかし、原発が人類、未来永劫正しいといえるか?
反対の意思表示の自由はある等と自問自答。
そこで、原発反対の意思を表明するために行こうと思いました。
でも、もし、中電側が工事妨害だと警察に訴えたら、機動隊も来るかもしれないと思いました。
反対者は、工事妨害罪で捕まる可能性があります。
機動隊とのせめぎあいで怪我をするかもしれないとも想定しました。
でも、現場に行かずに抗議をすることよりも、現場で抗議の意思表示をすることが効果があり大事ではないかと思いました。
そこでまず。家族に打ち明けました。
連れ合いは、『今、心身ともに調子が悪いからやめてほしい』と申しました。
『うーむ』と思いましたが、でも、入院するほどの悪化にはなるまいと勝手に決め込んで、『すまんが、勝手を許してほしい』と申して、独断専行しました。
 
現地状況
 
朝、4時に家を出て、車に合流し、4人で現地の砂浜へ着いたのは、7時過ぎでした。
もうすでに、中電や、工事関係者と、祝島の反対住民や反対運動者が来て、お互いに言い合っています。
反対派には、祝島のおじさん、おばさん達が20人ぐらい、それにカヤックといって、前後とがった、一人か二人乗りのカヌーで、抗議する、男女の若者が10人ばかり、あと、滋賀県、四国、大阪、など、あちこちから、原発反対で、総勢、5〜60人ぐらい抗議に来ていたでしょうか。
みんな、仕事を休んで、手弁当です。
自由な格好で、長髪、ボロ切れの、原発反対といったような抗議文を書き付けて身にまとっている人もいます。
それに対して、中電職員、作業員、警官、マスコミ、中電に雇われた警備隊員など、4百人ぐらいいたのでしょうか。
砂浜から埋め立て予定の海を見渡しますと、反対派の漁船や、中電の船、海上保安庁などの船が緊張状態で対峙していました。
浜では昨日倒された作業パイプが横倒しになっています。
『立ち入り禁止』の札がくくってあります。
海では、抗議船が、浜に近寄らないように、中電が設置しかけたオイルフェンスのバリケードが漂っていました。
それを、カヤックのメンバーが、外そうとしています。
浜では、中電の職員が『それは犯罪行動です。手を離しなさい』などとマイクで叫んでいます。
それに対して、祝島の住民は、『違法は、中電、お前らじゃあ』などと、かなり激しい抗議です。
『本社は広島じゃあ、なら、原発は広島へ建てーやー』との声。
それには、とっさに、私は、『いや、わしは、広島から来たんじゃが、わしは、ここじゃろうが、広島じゃろうが、原発はいけんとおもうてここに来とります。』と言いました。
また、中電職員に対しては、『国は推進、県からは、許可が出ていても、原発そのものは、本来、放射能の無毒化不可能な無謀物件で、クリーンエネルギーに変換してもらわねば』などと訴えました。
砂浜のブルーシートの4隅を死守しょうということで、座りこんで『反対』の意思表示をしていました。
程なく、中電の船が、またオイルフェンスを張る作業に取り掛かりました。
すると即座に、カヤック隊などが抗議行動に出ました。一人のウエットスーツを着た女性が、サーフィンボードのようなものに腹ばいになり、手でこいで、中電の船に近づき、どうやら、自分の体をロープでまきつけて船を動かさないように抗議行動をしています。
結局、彼女は、朝9時ごろから、工事中止の夕方5時ごろまで体を張って抗議していました。
中電側が、『それは違法行動です、速やかに船から離れなさい』などとマイクで何度も叫んでいます。
反対側は、『いくら、違法だといっても、過去の最高裁の法廷の例では、制御されていても、浜を自由に使う自由は保障されていまーす。』などと、繰り返して応酬しています。
12時半ごろ、昼食をしていますと、突然、警備隊が、私達の前に50人ばかり、2列で立ち並びました。
マイクでは、何度も、『工事のため、焚き火を消しなさい。これは違法です。』と警告します。
隊員の一人がバケツの水で消そうとします。
それに、女性ふくめ3〜4名がさえぎり、原発反対の訴えをします。
マイクはしつこく、妨害の違法を叫びます。
反対派は、絶叫的に『こんなものを未来に残していいのかー』などと叫びます。
ある若者グループは、歌と楽器で、『「愛」の為にうまれてきたのですー、隊員を憎んでいませんー、わかってほしいのですー』などと歌っています。
私も感動し、涙と共に拍手しました。
絶叫した若者が戻ってきて、激しい言葉をお詫びし、今度は、静かに、『きれいな海だよねー、こんな好い海、島の人々、危険の無い世界を残したいよねー。何か質問ありませんかー』などと静かに語ります。
私も高揚してきて、隊員をねぎらいつつ、『いのちを侵さない世界を』などとやわらかく訴えてみました。
突然、向こうの方で騒ぎがありました。
すると、隊員達はさっと移動し、スクラムを組んで向こうに行かさないようにしました。
多くの人は、すぐ応援に向こうに走りましたが、私は、溜まっていた小用をまずとの間に、向こうへ行きそびれてしまいました。
残念にも、二人のけが人が出ていました。
一日中、原発と自分に向き合っていましたが、他人事の甘さを今も恥じています。
 
2011年2月
 
釈尊涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内       18日(金)夜〜20日(日)日中                 日中9時半 夜7時半はじめ 前席・講話 後席・話し合い 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職自修          お釈迦様の(涅槃図)を掲げて学びます。           お誘いあってお参りください。
 
お釈迦様涅槃図の寄贈
 
昨年、8月22日、坊守の父が往生いたしまして、その縁で、坊守の母から、何か報正寺に寄付をさせてほしいと依頼がありました。
そのお気持ちをありがたくいただきながら、何にさせてもらおうかと坊守と相談いたしました.。
お寺は、仏法伝道の道場ですから、やはり、何か、伝道布教になるものはないかと考えました。
そこで浮かんだのが、そうじゃ、毎年のお釈迦様の涅槃会に、いつも、「あー、お釈迦様の涅槃図が有ったらなあ」と思っていたことでした。
お釈迦様の涅槃図というのは、お釈迦様の亡くなられた御遺体を囲んで、お弟子だけでなく、鳥も木も虫も獣も泣いている絵でした。
実は、そこに、仏教の教え、仏教の心、仏教の願いというものが絵で表されているからです。
すべての命のつながりを踏まえ、すべての命をいつくしむ、これが仏教の思想でした。
そこに、仏教の大慈悲という思想があります。
そこで、「あー、これがいい」と思い、坊守と母に相談して、涅槃図と決まりました。
早速注文し、去る11月26日、(涅槃図)が届きました。
早速ご寄贈の由来を裏に墨書して、本堂内陣の右余間に掲げさせてもらいました。
図は、お参りいただいて拝んでいただければ一目瞭然です。
今から2555年前、2月15日の満月の夜、お釈迦様は伝道の旅の途中で亡くなられました。
80歳でした。
絵は、満月の光の中で、お釈迦様の横たえられた御遺体を取り囲んで、沙羅双樹の木も時ならぬ花を咲かせて弔意を表し、天上からは、天上人がお釈迦様の80年の伝道の一生を讃え弔問し、天上に迎えようとしているかのように見えます。
泣いている弟子達だけでなく、野山の象や虎やたくさんな獣達、さらにはムカデや蛇や蝶や虫までも描かれています。
大臣、富豪のようなものも取り囲んでいます。
面白いことに、赤鬼のようなつわものも、剣を投げ出して、ひっくり返って悲しんでいます。
さらに、海や川の魚、蛸、貝類にいたるまで、描かれています。
もちろん、お釈迦様の(涅槃)という臨終に、生きとし生けるものたちが弔意を表したということは事実ではないはずです。
元の(涅槃図)というものがどういうものか知りませんが、時代により、また、画家の創意によって、生き物の種類も増やして色々描かれたのではないかと思いました。
まことに、お釈迦様のすべてのものへの慈しみの心が表現されています。
まさしく、仏教の説く、生きとし生けるものどうしのつながりあいと、個々の命の尊厳ということを、お釈迦様の臨終絵によって表現したものと考えられます。
益虫害虫といっても、それは人間の勝手な区分けで、本来対等の命のはずでした。
だからこそ、むやみに殺生してはすまないということになりますね。
人間生きていく上で、どうしても他の命をいただかなければならないという、致し方ない、殺生の罪、悲しさも感じることが出来るように描かれているとも思えました。
坊守も母も私も共に、「あー、いい仏縁とさせていただいた」と喜んだ次第です。
参詣される皆様に、絵で、目で見て仏教の心にふれていただくことが出来ます。
義父のいのちが、涅槃図となってくださったことよと思えました。
「わしの若い時には戦争に行かねばならんかった。
本当は、あんな戦争の無い、人間同士だけでなく、生きとし生けるものまでも共に、いつくしみあって、無謀な殺生をせず、調和のある世界や地球こそが本当なんよ」と呼びかけていてくださっていると思ってもいいなと思いました。
この涅槃図は、先月の親鸞聖人御命日法座にも紹介しましたが、今回の涅槃会では初公開です。
この涅槃図から、仏教の心、また、親鸞様の「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したることいまだそうらはず。その故は、一切の有情はみなもって、世々生々の父母・兄弟なり」の心を学ばせてもらいたいと思っています。
 
今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします
 
ダーナとは布施(ほどこし)というインドのことばで、ほどこしは、共に分かち合うという、仏教の生活実践です。
 
在韓被爆・渡日治療者、ユン・ハンシクさんの証言
 
両親は兄を連れて東観音にやってきました。
六人の子が生まれ9人家族になりました。
母は近所の父の兄のところへ行く途中で被爆、全身大やけどでした。
家は倒壊しましたが、全員何とか這い出ることが出来ました。
近所の親戚を尋ねて避難しました。
母は治療らしいことも出来ず、一ヵ月後になくなりました。
9月、一家は母の遺骨を抱いて帰国しました。
少しばかりの畑を耕していましたが、一年目は凶作でほとんど収穫はありませんでした。
生活は苦しくいつもお腹をすかしている状況でした。末の弟は食べるものも無く帰国三ヵ月後になくなりました。
小さいときから体が弱く、漢方薬を飲み続けていました。
15歳の頃はひざの関節が痛み、トイレにも兄に背をわれていく状態でした。
30歳ごろから胃腸が弱く、20年前ごろから心臓も悪く狭心症と診断されました。
生涯病身で薬のお世話になっています。
これも被爆とのかかわりがあるのかよくわかりませんが、父、兄達も癌で30歳代、50歳代でなくなっています。
手帳は14〜5年前に姉からの勧めで取得しました。母が被爆して、全身やけどで苦しみながら死んだのが悲しく辛く悔しくてなりません。
 
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は
          35,800円でした。
布原、2,000円・大井、2,000円・
小原、3,000円・萩原、2,000円・
数舟、1,500円・本一、5,000円・
本二、6,000円・本三、8,000円・
本四、6,300円
配分
山県太田組ダーナ募金会計・・・13,000円
在韓被爆者渡日治療委員会・・・10,000円
モンゴルの砂漠植林基金へ・・・12,800円
前年度山県太田組ダーナ募金総額は
           454,575円でした。
 
 
 
内訳
山県太田組内医療機関へ仏教誌施本
          ・・・ 205,920円
社会福祉法人芸北福祉会・・・150,000円
安芸教区連盟委託金等 ・・・ 98,655円
(厚く御礼申し上げます。 報正寺)
 
 
 
2011年1月
 
過年・色々ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。
 
 親鸞聖人御命日法座のご案内              21日(金)夜〜23日(日)日中 日中9時半・夜7時半始め 前席 講話・後席 話し合い                「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修        共に、親鸞様から、生と死と、 現在の世界を考えさせてもらい ましょう。                       おさそいあっておいでください。               お正月にお供え下さったお餅で ぜんざいをいただきましょう。
 
義父の往生
 
連れ合いである坊守の父は、91歳で、作年8月22日、肺炎のため往生いたしました。
昨年のこの寺報で書きましたように、義父は、3年前、脳梗塞で竹原の病院に入院し、寝たきりで、胃に直接栄養を注入する重い病人になりました。
当時85歳の義母も高齢で病弱でもあり、とうとう、おととし、6月9日、両親とも筒賀の私方に来てもらいました。
義父は、二ヶ月ばかり一緒に自宅介護でしたが、肺炎のため町立病院、入院となりました。
竹原での入院の時からほとんど語ることが出来ない状態でした。
ただ、私らが病院に行ってお会いしますと、目ははっきりと開かれているので、誰が来ているのかはわかっていてくださっているだろうと想像しているだけでした。
ずーっと、最後まで、ウンもスンもハイもイイエも意思表示がありませんでした。
こんな状態でしたが、竹原の入院以来、全く反応は無いのですが、いつも話しかけることにしていました。
私の語りは、僧侶としての実践法話のつもりでもあり、私自身の人生観なり、死生観の表明でもありました。
語りながら、自分に言い聞かせていることでもありました。
『お父さん、今日もお父さん、お母さん、先祖、みほとけ様の願いの中で一日が終わりますね。 又明日が来れば、お父さん、お母さん、先祖、みほとけ様の願いの中で一日が始まりますね。
お父さんはこうしてベッドで寝ておられて、昔のいろんな事を思い出されることでしょうね。
そして、善かったことは有難いと感謝され、又悪かったことはすまんかったのおと反省されることでしょうね。
また、私らに、『わしの若い時のような戦争などのない、いい世の中を創ってゆけよ』と願っていて下さると思っています。
そのように、願いと共に、心を耕されていることと思います。
お父さん、お母さん、先祖、みほとけ様は、そのように、80になっても、90になっても願いを忘れず、心を耕して生きてゆけよと願っておられることでしょうね。 
じゃあおやすみなさい、又明日来ます。
いい昔の夢でも見てください。』等と語って病室を去ったものでした。
盆前でしたか、病勢がすすんでいることを診て、医師は、『お寺さんですから、盆は過ぎさせてあげませんと』と申されました。
私は、どういうことだろうかと思っていました。
そして、盆が過ぎ22日に病院から、酸素濃度が上がらないと連絡あり、駆けつけまして、やがてまもなく息を引き取られました。
失せていった義父の顔色と医師の告げる臨終に、義父の最後を感じ取りました。
『あー、医師は、盆を過ぎるまで何とか持ちこたえさせてくださったのか』と思いました。
自家用車で私方に連れて帰ってあげ、臨終勤行を勤め、葬儀社の車で、竹原の自宅に帰っていただきました。
自宅の仏壇でもおつとめをし、葬儀会館で、通夜、葬儀を勤めました。
近隣の町内にも通知せず、身近な近親者のみの、いわゆる家族葬としました。
あたふたとした中にも、すべて、儀式は、私が僧侶として勤めさせてもらいました。
通夜、葬儀、還骨とお勤めし、法話しながら、義息でしかなかった薄情さ、義父にさえも、ちゃんと、仏法をお伝え出来ていなかったであろう自責と共にお勤めしました。
法話では、義父の生涯のことをたどりつつ、今は、義父は、義父はじめ、みんなの命の底の願いである、思いやりや、やさしさの世界、その究極の象徴表現である、仏願の浄土にかえられたこと
そして、そこから、これからもずーっと、愚かな私達を導き続けてくださること、別れの中にも別れのないことを確かめつつ、時に自ら、涙しながらお話させていただきました。
弟が早世し、一人娘である、連れ合いの坊守や、六十余年連れ添われた、義母の哀しみへの配慮を忘れている、凡夫の身を慙愧しつつ、義父の葬送をしました。
 
2010年12月
 
聖典学習会のご案内 23日(休日)日中・夜        日中9時半・夜7時半始                     学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」     住職自修  参加費無用    どうぞ誘って気楽にご参加下さい      「真実」「虚仮」とはどういうものかを学ばせてもらいましょう。
 
前回の感動内容から
 
「諸天・人民・ケン飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。
歓喜勇躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。
この願を得ずは、ついに作仏せじと。」
これは法蔵菩薩の願いです。
法蔵菩薩は、阿弥陀如来の前身です。
経典創作者は、こういう法蔵菩薩物語を創作して「真実」というものを表現したのですね。
 
諸天とは
 
仏教では、もろもろの天人達ということです。
天人とは、人間より上位に位置づけられている境涯ですが、まだ、迷いの境涯ですから、「真実」を求めて生きようとする、自覚がまだ未熟な境涯といえます。
有頂天になって、自分だけの幸せに酔いしれていて、他者の苦悩などに思いが至らない境涯というのでしょう。
 
人民とは
 
「真実」を求めようというような志願もおぼつかなく、ただ、様々な苦悩をかかえて時には空しさを覚え、「あー、何のために生きているのやら」などとこぼしながら年をとっている私達人間ということかと思います。
 
ケン飛・蠕動の類とは
 
飛び回る虫や、地にうごめく虫のことです。
ここに、経典創作者は、人間だけでなく、虫にまで心を及ぼしていることがわかります。
人間だけのことを考えて、他の生き物に心が及ばないというのは、「真実」とは言えないでしょうから。
 
わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。とは
 
南無阿弥陀仏という、わたしの名前にこもる大慈悲心を聞き受けて、天人も人間も、虫たちもみんな慈悲の心を起さないというようなことがないようにしたい。
つまり、みんなに慈悲の心を起させたい。
という法蔵菩薩の願いです。
ここに、法蔵菩薩の願いに託した、経典創作者の願いというものを感じ取ります。
有頂天のものも、人間も、動物も虫も、みんな争いあって悲しんでいる。
みんなに慈悲、慈しみの心が成就したなら、争いの悲しみも憂いも無いであろうにという願いを・・・・・。
もちろん、現実には、みんなが慈悲の心を完成するということは不可能です。
それは、わかっていながら、なお、人間はじめ、生きとし生けるものの争い、殺戮を悲しむ、経典創作者の感性の深さを思います。
 
歓喜勇躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、ついに作仏せじと。とは
 
天人や人間や虫たちまで、みんなに、闘争の心を翻して、慈悲の心を起こさせ、そして、その自己変革に、躍り上がるほどの歓喜を起させ、みんな私の慈悲の国に生まれさせたい。
こういう願いを確立して即座に大慈悲の完成者の仏になりたい。
もし、この願いを自ら確立することが出来なければ、私は、決して仏とはなるまい。と
実に、経典創作者の昇華した願いというものを考えさせられました。
 
聖典学習会へのおさそい
 
このように、聖典は、どのようにでも深く考え学ぶことが出来ます。
風呂へ入って体の垢を落とすように、聖典の温泉に入浴して、日ごろの心や命にこびりついている垢を落としてみませんか。
でも、説き方、読み方がまずかったりしますと垢は落ちません。
かえって、垢がつのります。
また、もちろん、すぐに垢はつきます。
外からくっつく垢と、内側からにじみ出てくる垢があるように思いますが、毎日いつも、風呂上りのように、すっきりした心地で生活したいものです・・・・。
 
お寺参りが少ないわけ      
 
いつも住職として気になることです。
いつも反省するのは、私自身の不徳ということです。
不徳ということは、仏教が私自身に身についていないということです。
身についていないから、人格にまで高められていないということです。
人格が高ければ、連れ合いからも、子どもからも、兄弟、親戚、知人、世間、門信徒の皆さんから、信頼と尊敬を受けるはずですから。
そのように、人格が高ければ、自然に、話を聴きに行こうということになると思いますからね。
私自身の不徳を恥じます。
また、ご講師を、この人はと思う方をお呼びしていますが、ご講師の話が、皆さんに、感動を与えて、「あー、いい話だった、元気が出た。もっと聞きたいし、みんなにも誘いたい」というような内容であればいいのですが、そうでないなら、お寺に足が向きませんよね。
私自身も反省しますが、話している私自身が感動を持って話せた話しにいつもなるということにはなりませんからね・・・・・・。
 
心のリズムあれこれ
 
朝起きて「あー、朝か、クソー、寒いのー」と、なんということもなく起き出すようなリズム。
そして、なんということもなく日を過ごしていて、たいてい、好きか、嫌いか、敵か、味方か、損か得か、負けちゃあいかん、勝たねばならん、
心地よいか、気分悪いか、面白いか、面白くないか等で、わがままな思いや気分がいつも、思いの底にわだかまっていて、他者を思いやり、配慮することを忘れて、人にわがままな言動を振りまいているリズム。
私はたいていこれです。
でも、「あー今日も、大事な二度とない日。
自分を豊かに脱皮成長させてゆかねばならん日じゃ、人間関係も豊かに、人間として大事なことにお互い、共感し合うようにしなければならんぞー」と自覚して起き出し、いつも、そのことを忘れないようにし、自分のわがままな思いにブレーキをかけて、生きようとするリズム。
でも、たいてい忘れています。
自分のイラついた思いをそのまま言葉にして、相手の状況を思いやることなく、
「おい、○○しとけーやー」と
そして、「なんねー、そんな上から目線で、押し付けるように言ってからに」などとなじられて、照れ隠しにからかい気味なふざけ言葉を言ってごまかしながら、「アー、すまん、すまん」と言い、「クソー」と思いつつも、「いや、恥ずかしい」と内心反省することが出来るリズム。
まことに、命の中の根深い、わがままな思い、煩悩のリズムを照破し、恥じさせてくれるものが、仏法の説く真実のリズムと思います。
 
山口・上関・原子力発電所建設予定現場に行って
 
去る10月、知人の僧侶から、山口の上関原発の建設予定現場に反対意思表示に生きませんかという案内を受けました。
私はかねてから、ウランを採掘する労働者の被曝、ウラン燃料を製造し、搬送する人々の被曝、原発下請け労働者の被曝、原発周辺、再処理工場周辺の被曝、プルトニウムによる、核兵器開発、
放射性廃棄物の半永久的管理、大量の温排水の魚介類への影響、地震、テロ、事故の危険、老朽処理に伴う、膨大な費用等々で、危険な原発に頼らない、クリーンなエネルギーをという思いでおりました。
それで、早速、上関の現地に駆けつけました。
上関原発は、まだ国から、最終許可が出ていないにもかかわらず、山口県が、海面埋め立て許可を出して、中電が、山を崩して、用地の造成工事をしている最中でした。
工事現場は、中に入れないように、金網で仕切られています。
その金網には、全国の脱原発の人たちが、それぞれメッセージを書いて反対の意思を表明していました。
この上関では、周辺の漁業組合が、中電から補償金をもらっていますが、この上関原発の対岸にある、祝島漁協だけは、補償金を拒否して、祝島の島民の90%が、28年間原発反対で一貫しています。
その日も祝島の猟師さんは、みんな漁を休んで、抗議行動をしていると漁師の人は言っていました。
埋め立て工事用の船を動かさないように、漁師さん達が、自分達の船で取り囲んでいるというのです。
抗議をする人の中には、祝島の漁師、京都などから来た市民、広島から来た女性、僧侶、監視小屋に住んで、抗議行動をしている人、抗議を込めて、ギターを鳴らしている人など50人ぐらいいたでしょうか。
中電に対して、抗議者は、工事現場で出てくる地下水を海に流すのに泡が流れたという抗議をしていました。
海を汚しているではないかという抗議です。
中電も、洗剤を投入したということで、抗議する側に謝っていました。
祝島の女性の申されるのに、山を削りだしてから、海底の「スギモク」という海草が少なくなったといわれました。
それは、陸の地下水が海底から湧き出ていたのが、工事のため、地下水の変化が起きたためだといっておられました。
この「スギモク」というのは、魚の産卵場なのだということも聞いていました。
また、祝島の猟師さんは、「一番腹が立つのは、祝島を離れて、陸に住んでいる裕福な者たちが、何も祝島の我々の運動に加担してくれんことだ。
あれらも木の股から生まれたわけじゃああるまいに、先祖のおかげ、祝島のふるさとをないがしろにしとる」というものでした。
ほとんど傍観者のような自分を恥じながら、帰途に着きました。
 


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