2012/8/23



報正寺通信
 
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2012年7月
 
聖典学習会のご案内 20日(金)日中9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 問題を持ち寄ってください。 ご一緒に考えて見ましょう。
前回の学習内容から
 
 
断というは、往相の一心を発起するがゆえに、生としてまさに受くべき生なし。 趣としてまた到るべき趣なし。 すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。 ゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。 ゆえに断というなり。
 
真に往き願うところ
 
もし私達が、この嫌な世界から、どこか、いい世界に往きたいと願うなら、ここに、その答えが明確に示されています。
以下解釈してみましょう。
自己中心で、冷たくて、利己的で、他者のものを奪おうとする、こんな嫌な自分や世界を断ち切ってゆくということは、結局、自分中心でなく、慈悲に満ち、利他の心で、他者に施す世界の究極、すなわち阿弥陀仏の世界と表現された、浄土というものから、明確に、
『あー、ここにこそ私の命の底から願うべき、本来の真実の世界が表現してあるではないか。』
と目覚め、『よし、この浄土の指し示す方向に向かって、慙愧と共に一生歩んで往こうと願わしめられる一心、まさにこの一心の発起こそ要である。
 
一心の発起
 
この一心の発起があるところ、ここに、すでに、永遠の、滅ばざる生を得ているのであるから、この浄土以外にまさに、往くべきまた、受けるべき,趣くべき、到るべき生など何もなく、必要もないのである。
 
迷界からの断絶
 
この一心の発起あるところ、すでに、
次の六つの世界である、地獄という暴力の世界も、餓鬼という貪欲の世界も、畜生という、本能だけの無自覚な世界も、また、ただ争いの修羅の世界も、単なる人間の世界も、浮かれている天人の世界も、
また次の四つの世界である、湿地のカビの世界や、卵から生まれる虫や鳥の世界や、胎内から生まれる動物の世界やサナギから飛び立つチョウのような世界に往く、因も果も全く滅しきっているのである。
こういうわけで一心の発起あるところ、即座に、三有という次の三つの迷界である、欲界という、貪欲の世界、色界という、物に執着する世界、無色界という、心に執着する世界というこれら迷いの人生を断絶することが出来るということ、すなわち、この迷界に、決して埋没しきってしまうということがないのである。
こういうわけで、『断』というのである。
 
では、浄土とは?
 
以上から、大慈悲の浄土は、太陽や星のような物質の世界ではないことがわかります。
いはば、『真実そのもの』といった、高度な精神の世界、哲学的には、形而上の世界ということになります。
でも、阿弥陀経などには、浄土には、宝の池があるとか、宝の楼閣があると書いてあるじゃあないかと言われると思います。
はい、言うまでもないことですが、もちろん、これら宝の池、宝の楼閣などの表現は、『真実そのもの』の象徴表現なのです。
 
学習会へのお誘い
 
このように、聖典から、仏教のものの見方、考え方を学びます。
そして、私達の現実の具体的な実際上の応用問題に取り組んでゆきたいと思っています。
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
仏法と人生と社会を聞き学びましょう。
どうぞ、問題を持ち寄ってください。
 
象徴ということ
 
先に述べたように、よく浄土も、阿弥陀様も、象徴だと申しています。
このことについて書いてみます。
象徴とは、たとえば、空を飛び、鉄砲の弾もはじくスーパーマンは、超人の象徴ですね。
また、米俵に乗り、打出の小槌を振るって、大判小判を打ち出す、福の神の大黒さんは、五穀豊穣と財宝の象徴でしょう。
同じように、鯛釣りの福の神、恵比寿さんも、大漁の象徴といえるでしょう。
つまり、スーパーマンも、恵比寿、大黒さんも、実在の人物ではありません。
空を飛び、鉄砲の弾もはじく超人的な能力や、五穀豊穣、財宝、大漁といった人間の願望を、誰かが、超人化したり、神格化したのですね。
ですから、象徴とは、実在ではないが、ある何かを意味し、表現するために創り上げたものということが出来ます。
 
浄土真宗での象徴表現
 
経典も、阿弥陀如来も、本願も浄土も、南無阿弥陀仏も、信心も、往生も成仏ということも、還相ということも、お経を読むことも、阿弥陀如来を礼拝することも、念仏を称えることも、すべて、象徴表現あるいは、象徴行為ということになります。
 
経典とは
 
「昔、平清盛がいました。」というような実際の事実の記述ではありません。
阿弥陀仏説話をご存知のように、元、阿弥陀如来が、王様であったというのも、実際の事実ではありません。
これは、王様という、欲望世界のトップが、一心発起して、大慈悲の阿弥陀仏という人格完成を成し遂げ、一切のものを救い、導き続けているというストーリーによる、真実というものの、象徴表現といえます。
 
阿弥陀仏とは
 
全てに、平等に慈悲を注ぎ、とりわけ、最低、最悪のものをこそ、救わねばという、最も広く、もっとも深い大慈悲心というものの人格的象徴表現です。
 
本願とは
 
一切を、もれなく、平等に大慈悲の人格(成仏)になさしめるという、もっとも尊い願いの象徴表現です。
 
浄土とは
 
無差別平等、大慈悲心の実現した、もっとも清浄な境涯の場所的象徴表現です。
 
南無阿弥陀仏とは
 
一切の真実でないものを、すべてはぐくんで、真実になさしめんとする、大慈悲心というもののはたらきの象徴表現です。
 
信心とは
 
阿弥陀如来や、浄土や本願や南無阿弥陀仏という表現から、大慈悲という真実に目覚め、逆に、煩悩にまみれ、慈悲に程遠い、自分と社会のまことでないことに目覚め、それゆえにこそ、慙愧とともに、万人への目覚め、救済を願い、より真実なる自己と社会の創造を願って、終生、歩んでゆこうとする目覚めそのものの象徴表現です。
 
往生とは
 
先の信心という目覚めの成立によって、慙愧とともに、万人への目覚め、救済を願い、より真実なる、自己と社会の創造を願って、終生、歩んでゆこうとする、その道程そのものの象徴表現です。
 
成仏とは
 
大慈悲の自己完成そのものの象徴表現です。
 
還相とは
 
真実の自己完成成就ゆえに、真実ならざる他の迷える一切を同悲同苦して、真実ならざる迷いの真っ只中に還り来たって、一切を真実に自己同化せしめんとする働きそのものの象徴表現です。
 
お経を読むということとは
 
お経の中の真実そのものを学び受容しょうとする象徴行為そのものといえます。
 
阿弥陀如来に礼拝するということとは
 
阿弥陀如来と象徴表現された真実そのものに向かい、同時に、真実ならざる自己と世界に向き合い、真実の自己と世界の創造に向かって歩んで行こうとする生き方に思いを致す象徴行為そのものといえます。
 
念仏を称えるということとは
 
阿弥陀如来と象徴表現された、広く深い大慈悲の真実そのものに思いを致す時、「あー、まことなることよ」と心が動くままのつぶやきであり、
また、同時に、慈悲に程遠く、真実ならざる、どうしょうもない自己と世界に思いを致して、
「あー、恥ずかしいことよ、情けないことよ、哀しいことよ」とこぼれるつぶやきでもあり、
またその中で、これではいかん、ささやかでも出来るところで、おごらず、高ぶらず、謙虚に、慙愧とともに、よりましな自己と世界の創造に向かって歩んで行こうとするつぶやきであり、そういう仏徳賛嘆と自己慙愧と願いと共なる自己確認の象徴行為そのものといえます。
 
2012年6月
 
夏法座のご案内 26日(火)夜〜28日(木)日中 日中9時半・夜7時半始め 講話と話し合い法座 『仏法と人生と社会』 住職自修 ぜひ、共に学びあいましょう。
 
劣化ウラン爆弾による、イラクの子ども達の被害写真展示へのご案内 右記、夏法座中・報正寺本堂に展示します。
 
 
これは、1991年の湾岸戦争、そして2003年3月20日の米英軍イラク攻撃で、劣化ウラン弾による放射性被害により、悪性腫瘍、白血病、新生児の先天性形成不全等という、イラクの子ども達がこうむった被害の現実の写真展示です。
百万人以上とも言われる民間人の犠牲があり、その半数は子どもといわれています。
以前、何年か前、一度本堂で展示させていただいたことがあります。
そのときも皆さんとともに、戦争、ことに劣化ウラン爆弾の放射線被害の罪深さを思い知らされました。
その後も今も、イラクの子ども達は、同じように苦しんでいます。
湾岸戦争には、日本は、135億ドルという軍事資金を提供しました。
また、9年前のイラク戦争には、自衛隊が現地に行き、戦争支援をしました。
2008年、4月17日、名古屋高裁で、イラク戦争での自衛隊の活動を憲法違反とする判決が下され、5月2日に確定しました。
国際紛争解決の手段に武力の行使を永久に放棄するとの憲法9条精神の判決でした。
日本の私達は、この湾岸戦争、イラク戦争を反対せず、容認したのですから、イラクの子ども達のこれら被害へも責任があります。
平素はこのことを忘れてしまって生活していますが、まことに罪深いことと思います。
この度は、新しい資料も展示します。
わたしたちの罪とこれからのあり方を再確認したいと思います。
展示写真は、セイブ・ザ・イラクチルドレン広島代表の、戸河内、土居、大江厚子さんから借り受けます。
さらに、セイブ・ザ・イラクチルドレン広島への支援をしてくだされば幸いです。
 
安芸太田町大字土居314
(TEL・FAX) 0826(28)2629
支援募金振込先  ゆうちょ銀行
口座番号  01370(3)78607
口座名
セイブ・ザ・イラクチルドレン・広島
 
お寄せいただきました募金は、医薬品、医療消耗品(カニューレ、点滴など)や、輸送費に充てられます。
 
宗教とは何か
 
宗教も色々ですね。
一般的には、何か人知を超えた不思議なものを、とにかく信じるものが宗教というものだと、とらえられていると思います。
神とか、仏とか、前世とか、来世とか、霊魂とか。
そういう、何か人知を超えた不思議なものを、とにかく信じるものが宗教だということになると、はたして、仏教は宗教といえるのだろうかと思います。
ある学者が、『仏教は宗教ではない、仏教は仏教だ』といったということを聞いています。
わたしはもっともだと思っています。
でもまた、宗教の『宗』とは「むね」、つまり大事なものということであり、だから、「宗教とは、自分にとって大事な教えである」というような宗教の捕らえ方があります。
そういう、宗教とは、自分にとって大事な教えであるという宗教の捕らえ方から言うと、仏教も宗教の中に入るでしょうね。
ところで、私や、皆さんにとって、仏教、さらには、浄土真宗が自分にとって、大事な教えというものになっているでしょうか?
仏教?浄土真宗? ん?、別にどうでもいいんだが、葬式、法事もどうでもいいんだが・・・・・と
今は、葬式せず、火葬場に直接遺体を運ぶ直葬というのも増え、遺骨を海や山に撒き、樹の下に撒く樹木葬というのも聞きます。
葬式法事、やらにゃあ世間体ということもあるし、そのためにまあ仏教、真宗、必要ということにしておこうかというような方が多いように思います。
失礼だったらお許しください。
これは、結局は、住職、私の伝道力量不足ということで、頭をかかざるをえません。
 
仏教とは何か
 
仏教も色々です。
インド、タイ、ベトナム、ミャンマー(ビルマ)スリランカ、チベット等外国の仏教そして、日本の、真言、禅、天台、法華、浄土等の各宗派があります。
それぞれ教義が違っています。
教義は色々違っても、結局、成仏をめざすのが仏教です。
成仏とは、一般に言う死ぬことではありません。
世界と自分との一体観とそれに伴う、万物への大慈悲心という人格完成を成仏といいます。
いわゆる、『無我』『慈悲』『利他』『布施』の人格完成です。
それは、ただ、自分だけのそういう人格完成だけでなく、万人にそういう人格完成をめざす自覚をうながし、万人を人格完成せしめることの出来る人格の完成でもあります。
こういう人格完成を本当に、自覚的に、人生最高の目的とし、生きることによって、自らを救い、他者を救い、世界を救う教えが仏教といえます。
私達は、一応仏教徒ですが、果たしてこういうことを人生最高の目的として目覚めて生きているでしょうかね。
とてもおぼつかなくて恥ずかしいことです。
 
今までの浄土真宗
 
浄土教の起源は、お釈迦様が亡くなられてからおよそ500年、西暦1世紀ごろ、お釈迦様の教えを基にして阿弥陀仏という仏を創作表現した無量寿経など、阿弥陀仏経典になります。
実際にはお釈迦様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、誰がどういうわけで説いたのかはよくわかりません。
考えられるところは、お釈迦様は80歳で亡くなったけれども、お釈迦様の教えは永遠の真理だとして、お釈迦様の教えを人格化し、象徴化したのが阿弥陀仏だとも言われます。
また、仏教の目的は、成仏という真実の人格完成ということですが、こういうことに目覚めて成仏を自覚的に目指すというような人は、一般的にはそんなに多くはなかったはずです。
多くの人々が、それどころか、生活に追われ、煩悩や衝動に振り回されて老、病、死、罪の報い、不安、孤独、死後の恐怖などの苦悩を深めていたはずです。
そういう一般庶民の苦悩の救いと仏道への導きということが大きな課題となったことと推察されます。
そこに、阿弥陀仏信仰を説く阿弥陀仏教典が創作された意図を考えることが出来ます。
そこでは、阿弥陀仏とは、無限の過去から無限の未来にわたる永遠の大慈悲の仏であり、一切を救い導き、阿弥陀仏の浄土に迎えて成仏せしめ、そして、またこの迷いの世界に還らしめて、苦悩の人々を永遠に救い導く身に成らせてもらうのだと説かれます。
こういう阿弥陀仏や浄土の信仰によって、多くの人々が、生活に追われ、煩悩や衝動に振り回されて老、病、死、罪の報い、不安、孤独、死後の恐怖などの苦悩から癒され救われてゆきました。
そして、阿弥陀仏にうながされる慙愧と願いの自律の道にまことの道を発見したのでした。
また、人格完成を本当に、自覚的に、人生最高の目的として、自らを救い、他者を救い、世界を救うことを自覚して道を求める後世の仏教徒の中には、その理想と、現実の我執煩悩に振り回される身の落差に、苦悩し、成仏ということの永遠の不可能さに絶望し苦悩する人々もありました。
こういう絶望感に陥った仏教徒に、希望と救いをもたらしたのも阿弥陀仏、浄土信仰でした。
阿弥陀仏経典が創作されてから約200年後に生まれた、竜樹、その200年後に生まれた天親など、七高僧といわれる、阿弥陀仏信仰の伝承者、そして、親鸞聖人もこの阿弥陀仏、浄土信仰に救われたのでした。
 
これからの浄土真宗
 
しかし、いつも申しますが、親鸞聖人が亡くなられて750年後の実証的、論理的思考法の現代、今までの純朴な阿弥陀仏、浄土信仰は、現代の実証的、論理的思考法によって、さらに再構築されなければならないと考えます。
いわゆる、『信仰』という用語ではない『信心』という用語への注視です。
この信仰と信心を信仰と同一にとらえる表現もあります。
しかし、信心の原語には、領解するとか、心が澄んできれいになるという意味があります。
この領解するとか、心が澄んできれいになるという信心は、阿弥陀仏や浄土を、思いはかることが出来ない不可思議な実体、実在として、信じ仰いでおまかせし、あてたよりとする、というような信仰とは違います。
この信心は、無差別平等の大慈悲の阿弥陀仏や浄土のことを学ぶことによって、まさしく真実というものがここに象徴的に表現されてあると領解し、逆に、差別、無慈悲の自分と社会の不実を慙愧せしめられ、また、それゆえにこそ、なお、真実の自分と社会の創造を願わしめられ、自己変革せしめられるように、心が澄んできれいになさしめられるという信心ですから。
こういう実践的な信心こそ、これからの浄土真宗にとって、明確にされなければならないと切に思います。
信心がおぼつかなく、心が澄まず、濁っているということは、真実ということにも自覚が薄く、自分や社会の不実にも慙愧の心薄く、したがって、自律心も社会変革への願いもおぼつかないということになります。
それは、まさしく、私自身振り返って、家族の中から、地域社会での人間関係の熟度が問われ、社会行動の質が問われてきますから、あー、恥ずかしいこと、信心不具足と慙愧せざるをえません。
 
 
 
2012年5月
 
聖典学習会のご案内 26日(土)朝・夜 朝9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい。                                                 前回の学習内容から                                                                                     回向に二種の相あり。 一つには往相、二つには還相なり。往相とは、 おのれが功徳をもって一切衆生に回施したまひて、 作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せし めたまふなり。還相とは、かの土に生じをはりて、 奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の 稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道 にらしめたまふなり。
 
仏教徒としての生き方
 
ここに仏法(仏)に導かれる私達仏教徒としての生き方というものが示されています。
解釈してみましょう。
『回向』という仏法(仏)の導きに二つあります。
一つには、『往相』という真実へ向かはしめられる導き、二つには『還相』という真実から、不実へ向かはしめられる導きです。
 
『往相』という真実へ向かはしめられる導き
 
これは、阿弥陀仏が自らの全功徳をみんなに施して、みんな浄土に往かしめようとの仏願の導きです。
これは、自らの全功徳を一切に与えて一切を真実に向かはしめられるとの阿弥陀仏という、人格的象徴表現から、真実に目ざましめられ、そのことによって、私達が真実の方向に歩ましめられる導きです。
それは、いつも申しますように、逆に、虚仮不実の自分と社会を慙愧せしめられ、それゆえにこそ、より真実なる自己と社会の実現に向かって歩ましめられる導きということになります。
 
『還相』という真実から、不実へ向かはしめられる導き
 
これは浄土に往生して、自我の執着を離れ、利他教化の働きを得て、虚仮不実の世界に還って来てみんなを導いてともに真実の道に向かはしめられる導きです。
このことは、いつも申しますように、実際にこの身に起きる実証的な事実ということではありません。
先の、阿弥陀仏が一切を真実に向かはせられるということが真実の象徴表現であるように、真実の浄土で真実の自己実現(仏)として実現せしめられたものは、そこで、自己満足にとどまるものではなく、真実の身なるがゆえに虚仮不実の世界を悲歎し、一切を真実に自己同化すべく真実へと導き続けるという、これも真実というものの象徴表現なのです。
ですから、この『還相』ということが示唆するのは、仏教徒の生き方として、私達は、とても阿弥陀様のようにはふるまわれない、不完全な我執煩悩の身ながらも、身近な人からより多くの人へと、ともに真実に目覚め導かれる生き方ということでしょう。
今まで『真実』というその内容にふれていませんでした。
『真実』とは、仏の本質、仏法の実践的キーワードとしていつもご紹介する、『無我』『慈悲』『利他』『布施』といったことがらになります。
 
学習会へのお誘い
 
このように、聖典から、仏教の人生観、世界観の原理を学びます。
そして、私達の現実の具体的な実際上の応用問題に取り組んでゆきたいと思っています。
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
仏法と人生と社会を聞き学びましょう。
 
私は一体、どこから来たのか
 
 一般的には、父母、先祖、人類、生命、宇宙の始原にまでさかのぼる母なる大宇宙、大自然から来たということでしょうね。
仏教は、実証的な事柄の言及ではありません。
仏教は、先の『無我』『慈悲』『利他』『布施』といった理念の世界の言及です。
『仏』も『凡夫』も本来地としての『真如法性』『自他一如』の世界から、出て来たといいます。
この『真如法相』『自他一如』という世界は、先の完全な『無我』『慈悲』『利他』『布施』の世界といえます。
『仏』とは、この『無我』『慈悲』『利他』『布施』の本来の世界そのままが全顕した世界といいます。
それに対して、『凡夫』とは『我見』のために、この『無我』『慈悲』『利他』『布施』といった本来の世界に背反した世界といいます。
背反しているということは、逆の『我』『冷酷』『利己』『収奪』の世界にいるということになります。
それゆえに、本来の『無我』『慈悲』『利他』『布施』の世界から逸脱して、『我』『冷酷』『利己』『収奪』の世界に迷い出ているのだから、本来の『無我』『慈悲』『利他』『布施』の世界に還ろうというのが仏教のようです。
 
私は一体どこへ行くのか
 
これも実証的には、死後、火葬場で灰になり、元の産み出されて来た母なる大自然大宇宙に分子となって分散して還ってゆくということでしょうね。
また、これも仏教の理念の世界から言うと、先の『無我』『慈悲』『利他』『布施』の世界こそが、本来の世界ですから、この『無我』『慈悲』『利他』『布施』の世界に還ってゆくということになります。
この『無我』『慈悲』『利他』『布施』の究極の世界を場所的に象徴表現されたものが『浄土』でした。
ここに還らないと本当の安らぎはないのですね。
逆の『我』『冷酷』『利己』『収奪』の世界ではとても安らげないはずですから。
ですから同じようにこの『無我』『慈悲』『利他』『布施』の人格的な象徴表現である、阿弥陀仏は、この浄土にみんな還らせたい、つまり成仏させたいと願い続けておられるというように象徴表現されているわけです。
また、この『無我』『慈悲』『利他』『布施』の世界を真実なるもの、また私達の本来の命の願いの世界だと目覚めなければ、人生は目覚めのない、ただ我執煩悩に翻弄されて、自他共に損ないあって人生を終わるというような悲惨さ、救いのなさを痛むがゆえに、真実に目覚めること、つまり目覚めの信心が大事だといわれるゆえんがあります。
 
私は一体何のために生まれてきたのか
 
これも、『ヒト』という生き物の事実としては、『ヒト』という種族の繁栄、永続のために生まれてきたということでしょうね。
また、これも仏教の理念から言いますと、真実の自己の実現(成仏)のために生まれてきたということになります。
先の、『我』『冷酷』『利己』『収奪』の自己実現ではなく、『無我』『慈悲』『利他』『布施』の自己実現ということになります。
 
私の人生の本当の目的・意味は何なのか
 
これも、先の『ヒト』という生き物の事実としては、『ヒト』という種族の繁栄、永続のため、もっと言えば、自分の遺伝子の永続のためということでしょうね。
また、これも仏教の理念から言いますと、真実の自己の実現(成仏)のために生きることが人生の本当の目的であり、人生の本当の意味ということになります。
 
幸せとは一体何なのか
 
これも、生き物としての事実ということになりますと、あらゆる欲望、快楽が満たされている世界ということになるでしょうね。
でも、また、これも仏教の理念からとらえますと、たとえ、欲望、快楽に不十分であっても、どんなに不遇で、過酷な状況であっても、何があっても、何にもなくても、ともかく、揺らぐこと無く、真実の自己の実現(成仏)に向かう生き方が、臨終まで、自分をうながし、自分を支え続けているということでしょう。
それは、死ぬるまで、やさしさや、思いやりを自分にも、周りの人にも、国家社会にも実現させてゆこうという願いを持って歩み続けられているということでしょうか。
 
「反貧困ネットワーク広島」を応援してください。
 
「とうとうお金がなくなった。
今夜から寝るところがない。」
「仕事がなくなって、寮からも出された。
次の仕事を見つけるまで泊まらせてもらえないか。」
「夫が暴力を! 着の身着のまま逃げてきた。」
そのような人たちが、人間として最低限の生活ができるように、人間としての尊厳を失わなくてすむように、「反貧困ネットワーク広島」はシェルター(緊急一時宿泊所)を運営しています。
2012年1月6日、特定非営利活動法人(NPO法人)として広島県に認証され活動しています。
2012 年2月現在、8室を運営していますが、常に満室状態です。
しかし、資金的には大変苦しく、「もし運営できなくなったら・・・」という心配がつきません。
シェルターを維持するために、寄付をつのっています。
このほか、「反貧困ネットワーク広島」は、弁護士・司法書士・社会福祉士・医療ソーシャルワーカー・社会保険労務士などの専門家・その他多くのボランティアの協力のもと、生活・労働・借金・住まいなどに関する相談会の開催、生活保護申請等への同行、その他の支援活動をおこなっています。
私も入会してささやかながら支援しています。
去る2月5日、3周年の定期総会に参加し、反貧困ネットワーク代表・宇都宮弁護士の講演を聞きました。
【連絡先】  広島総合法律会計事務所  弁護士 秋田智佳子 〒730―0004     広島市中区東白島町14-15
NTTクレド白島ビル7階       TEL 082、227、8181       年会費(年1口1,000円、1口以上)
寄付金の振込先         
郵便為替 01390・1・98338  
反貧困ネットワーク広島
 
 
2012年4月
 
永代経法座のご案内   12日(木)夜席〜14日(土)日中席 おとき日・・・13日(金)日中 『靖国の檻』上映・解説                                       夜、7時半・日中、9時半はじめ                                                講師 島根県大田市 正蔵坊前住 真宗遺族会代表   菅原龍憲殿              どうぞ、誘い合ってお参りください
 
講師紹介
 
ご尊父が戦死、1985年、中曽根首相が靖国神社に公式参拝したことへの抵抗から、真宗遺族会を立ち上げられました。
中曽根、小泉首相の靖国参拝違憲訴訟はじめ、靖国合祀取り消し訴訟原告団長として、一貫して、念仏を根拠に、人間の尊厳を侵す国家権力の相対化、及び国家による、国民の内面支配に抗する運動を続けておられます。
『靖国は今』・念仏弾圧の『承元の法難』・靖国合祀取り消し訴訟の原告を訪ねた、『靖国の檻』などの映像製作者でもあります。
 
石泉学派と空華学派 二つの真宗学派の相違
 
インターネットのフリー百科事典、ウィキペディアに紹介されてある『石泉学派』を参考に考えてみます。
ウィキペディアには、
『石泉学派とは、浄土真宗本願寺派 の学派のひとつであり、江戸時代に長浜(現、広島県 長浜)の地で「石泉塾」を開いた、同派の学僧の石泉僧叡 の流れをくむ。 本願寺派の教学理解では、空華学派 と二大学派をなす。
今日の本願寺派においては、二つの主流学派のうち、もっぱら空華学派 の教学のみが語られていることから、石泉学派は実質的に異端の位置にある。
空華学派の学説との根本的な差異は、浄土真宗 の重要な教義のひとつである「信」についてみられる。
石泉学派は、「信」を「心が清浄になること」と定義し、あくまで能動的・主体的な「信」を説く。
「此の信と云ふも、自性の物柄を云と、心を掃除して清からしむるなり。 心は心王なり。 清からしむとは、心が澄んで奇麗になる。 其れが信と云ふ物柄なり」
『教行信証文類随聞記』
「未聞の前は、機も法も濁り果てて、自身をも見限り詰めることも出来ずにありた者が、仏願の機法を聞て、心が澄んで来る。 此れ信心の模様なり。 心の澄浄なるが信の自性なり」           (同上)
空華学派は、「信」を阿弥陀仏 に「頼る」あるいは「すがる」ことであると定義し、専ら阿弥陀仏を信仰、帰依する生き方を説く。
「信というは諸仏所讃の名号を当てにし頼みにしたるなり」             『本典敬信記』
「歴史的な背景」
本来、仏教の教えは徹底した自力救済を説くものであり、阿弥陀仏への信仰による他力救済を根本教義とする浄土門は、異端的な流れとして存在する。 このことは仏教の根本を乱すものであるとして、旧来の仏教者たちから厳しく非難されてきた。
真宗学者の信楽峻麿 の教えを継承した、彼より後の指導者達の、親鸞の思想とかけ離れた教説によって、真宗の信心のあり方が大きく歪められた結果であった。 (.神仏習合、王法為本、門弟追放)
浄土教における、阿弥陀如来による他力 救済と、仏教本来の自己救済という二つの矛盾する考え方を、どのように理解していくかという試みの中で、称名念仏 行を重視し、信心を「心が澄んで清らかになる」として理解する教学が形作られた。 これは種々の異安心によって、きびしく自力を否定する伝統的な真宗教学の内において、本来の仏教的な流れを取り戻そうとするものである。』とあります。
以上から、本来、仏教は、自力救済であるといわれます。 事実、お釈迦様には、阿弥陀仏による他力救済という説法は無かったようですから。
じゃあなぜ、釈尊滅後約500年、阿弥陀仏経典が創作されたのかということになります。
無名の経典創作者達は、釈尊の教説を、阿弥陀仏説話によって、象徴表現し、さらに、自力成仏ということの絶対不可能の明確化と、ことに、一般庶民の死後の問題、罪や不安、孤独、諸苦悩への癒し、救済と共なる仏道へのいざないということを意図されたのではないかと考えます。
石泉さんは、空華学派 の、ただ阿弥陀仏に頼りすがるばかりという信仰に、仏道としての疑問を感じられ、本来の主体的、能動的な仏道としての念仏を取り戻そうとされたもののようです。
そのため、石泉さんは、本山から異端視され、名誉回復されたのは、死後85年目のことでした。
宗祖以降の覚如、蓮如、そして空華学派 を、親鸞からの変質、屈折ととらえられる、石泉学派の信楽先生は、空華学派では、十分なる社会性を持って、これからの人間社会に噴出してくるであろう、様々な社会的な課題に対して、的確に反応し、発言することは出来ないだろうと思われると論じられています。
 
2012年3月
 
聖典学習会のご案内 20日(春分の日)朝・夜 朝9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい                         
 
前回の学習内容から
 
また深信する者、仰ぎ願はくは一切の行者等、 一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定し て行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなわ ち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなわち行ず。 仏の去らしめたまふところをばすなわち去つ。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。 これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。
 
仏教徒としての生き方
 
ここに私達仏教徒としての生き方というものがはっきり示されています。
解釈してみます。
『また、仏法を深くうなずく者、
この仏法を仰ぎ、願うことには、一切の仏教実践者等は、ためらい無用に、ただ、仏説の真実に目覚め、身命を惜しむことなく、心身に決意して、無我、慈悲の行によって、仏法の捨てるところの我愛、冷酷、利己、収奪等の道を当然至極に捨て、仏法のうながす、無我、慈悲、利他、布施等の道を当然至極に実践する。
仏法の捨離する、煩悩による権力、財力、暴力等は当然至極に捨離する。
こういう生き方こそ仏教に従い、仏の心に従うことと名づく。
これを仏の願いに従うことと名づく。
 こういう生き方をするものこそ真の仏教徒と名づく。』
 とてもとても、煩悩に振り回されて、いかんともしがたい凡夫ではありますが、仏教徒としてあるべき生活信条だと思います。
 
学習会へのお誘い
 
このように、聖典から、仏教の人生観、世界観の原理を学びます。
そして、私達の現実の具体的な実際上の応用問題に取り組んでゆきたいと思っています。
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
仏法と人生と社会を聞き学びましょう。
 
思わずムフフ・・・・・
 
『あの世にて、死んで仏になるよりは、この世に生きてよき人となれ』
ちょっと言葉が違っているかもしれません。
この歌を見た時、本当に『そうじゃそうじゃ』というような思いがこみ上げ、思わず『ムフフ』と微笑んだのです。
以前の私でしたら、『なんじゃ、浄土真宗を馬鹿にしてからに』と怒ったかもしれません。
この歌をつくった人がどういう人なのか分かりません。
浄土真宗の人ではなさそうです。
そりゃそうです。
浄土真宗の教義上では、死後、浄土で仏にならせてもらうということですからね。
それに、自ら恥ずかしいと慙愧を持つ真宗門徒であるならば、とても他者に、この世で、よき人になれなんて、そう単純に言えるものではありませんからね。
でもね、案外浄土真宗をよく分かっていて、あえて、浄土真宗者の過ちを風刺している歌かとも思われるのです。
そのわけは、『寺へ参るものにろくなものがおらん』とか『後生願いの六性悪る』とか言う、素行の悪い、真宗門徒への批判を思い出すからです。
それはまことに、親鸞聖人の時代から、『悪人こそ救われるというんだから、悪いことをしても差し支えない』などという間違った人も有りましたからね。
現在でも、『アミダさんがすべて引き受けて救ってくださるんだから、何をしてもかまわない、また、何もせんでもかまわない、どうせ凡夫だからしょうがない』などとまったく、倫理性、実践性を失ったような人もあります。
ことに、阿弥陀仏に帰依しているといいながら、阿弥陀仏にそむいて、戦争と一体化し、部落差別など、世間の差別を容認してきた、僧侶、門徒、教団人全体への批判とも考えられるものがあるからです。
現在なら、真宗門徒であるというのなら、人間や命の尊厳が侵され、人権が侵されている状況にどれほど取り組んでいるのかと問われている歌のようにも思われます。
安易な如来依存、未来信仰に陥るのではなく、人間成就の道、人生どう生きるかということに目を開けという歌とも受け止められます。
 
「死後、往生浄土、成仏」という教義の真意
 
この死後往生成仏と言うこと、さらには、浄土からこの世に還って来て、今度は、みんなを救い導くということ、このことの真意を探ってみましょう。
この、私たちが命終わって、浄土に往き、仏となって云々ということを、多分、実際に、本当に、この身に起きる実際上の事実であるとは思っておられないと思います。
そうです、これは、実際上の事実ということではなく、これは、『真実の法則』の象徴表現なのです。
象徴表現されたものを受け止めるということは、実際の事実として受け止めるのではなく、その象徴的に表現されたものの中から、その真実の意味を感得することなのです。
このことをじっくりと究明してみましょう。
 
『真実の法則』とは
 
これは、物理的なものの世界ではなく、精神の領域の事柄になります。
『真実』というものの法則を考えます。
『真実』なるものが、『不実』なものを排除するなら、それは真実とはいえません。
『真実』なるものは、『不実』なるものをはぐくみ、真実へと自己同化してこそ『真実』といえます。
この『真実の法則』を人格的に象徴表現されたのが、『阿弥陀仏』です。
ですから、阿弥陀仏は、一切のものを育み、慈しみ、阿弥陀仏、同体の『真実』そのものに同化し、そして、『真実』そのもののはたらき(一切衆生の救済)を無限になし続けるという教義に仕立ててあるわけです。
ではいつ、不実のものを真実、すなわち、成仏させるかということになります。
この、我執煩悩があるままに成仏しているということは道理に合いません。
ですから、すなわち、この我執煩悩から完全に解放される時、つまり、臨終、命終わる時ということに設定されているわけです。
そして、前述しているように、『真実の法則』は『不実』を自己同化するということですから、往生成仏したものが、何もせず、じっとしているというのでは、『真実の法則』に合いません。
ですから、往生成仏したものは、即座に、『不実』の世界に還って来て、みんなを永遠に救い導くという教義になっているわけです。
そしてこれら教義の真意とは、『真実』は『不実』を自己同化するものであるという『真実の法則』に目覚めることによって、逆に『不実』への同化どころか、自我中心の、『不実の自己と社会』の現実を慙愧し、それゆえにこそ、より『真実なる自己と社会実現への道』に導こうとするものであるということが出来ます。
ですから、安易な未来信仰、依存信仰に陥ることなく、『真実の法則』に目覚めて、自己成就の道、人間陶冶の道、社会創造の道を歩んでこそと示唆されるものを感じるのです。
 
戦時中の中国人、性被害者の証言
『慰安婦』問題の立法解決を求める会ニュースaC50より
『尹玉林』さん(1922年生まれ)
 
夫病死後、日本軍に目をつけられ、1年余り自宅や警備隊の砲台下で、性被害に遭いました。
被害直後から腹痛、月経困難、痙攣、震えの発作など様々な病気を患い、今も体調不良の訴え。
自分が不在のときには、姉が強姦されました。
 
『張先兎』さん(1926年生まれ)
 
結婚したての頃拉致され連行途中でも数時間の輪姦、下半身血だらけになって、砲台に監禁され、十数人の日本兵に20日間にわたって輪姦されました。
心身共に衰弱し、下腹部の出血、頭痛、喘息などに苦しみ続け、今でも重い肺気腫を患っています。
 
『万愛花』さん(1930年生まれ)
 
12歳の時、村へ侵入した日本軍に捕らえられ、抗日派情報の自白強要で拷問。
3回目につかまったとき輪姦と激しい拷問により、瀕死の状態で真冬の川に投げ捨てられ村人に救出されましたが、体中を骨折して背丈は20センチ縮んでしまいました。
戦後は、あちこちの村を転々とし、針仕事や時には物乞いをして生きてきました。
1992年、中国人女性として始めて名乗り出てからリーダーとして活躍し、今は病気がちですが戦う意欲は衰えていません。
 
韓国水曜デモ千回アクション連動アピールに参加
 
去る12月14日、広島市内で、日本軍「慰安婦」被害者に正義を!韓国水曜デモ1000回アクション連動アピールに参加しました。
韓国水曜デモは、1992年に元『慰安婦』の女性はじめ支援者が、日本に『慰安婦』問題の事実確認、公式謝罪、賠償などを求め、デモを行ったのが始まりです。
以来、毎週水曜日、雨の日も雪の日も正午からソウルの日本大使館前で『水曜デモ』が行われています。
去る12月14日は、その千回目で、広島でのアピールは、その韓国でのデモに連動し応援するものでした。
当時の女性ももう80代、90代、名乗り出られた234人のうち、すでに167人が亡くなっています。
一刻も早い、日本の誠実な対処を求めます。
 
2012年2月
 
釈尊涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内     16日(木)日中〜17日(金)日中      日中9時半 夜7時半はじめ               前席・講話 後席・話し合い 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職自修 お釈迦様の(涅槃図)を掲げて学びます。 お誘いあってお参りください。
 
人類滅亡しても・・・・・
 
人類滅亡なんてとんでもないと多くの方が思っておられると思います。
ところが、ある意見に考えさせられたことがありました。
それは、『あー、人類滅亡してもよいということも言えるなー』と納得したことです。
そのいきさつを紹介してみます。
去る1月24,25日、広島別院で、念仏者9条の会と安芸門徒9条の会の主催で、原発と放射線、原水爆、核兵器と原発、福島の反原発運動、山口県、祝島の反原発運動などの交流学習会がありました。
そのとき、祝島で、反原発運動と共にブタを飼い、自然農法をしておられる、氏本長一さんの講演がありました。
 
氏本さんの講演
 
講題は、祝島からの報告として、『命のつながりにささえられて生きる』というものでした。
その中で、二種類の漁師、それぞれが求める豊かさというものを紹介されました。
一つは、『人並みの生活をするにはカネがいるから、やはり原発は必要だ』として、補償金で漁業権を放棄した原発推進漁師の談話でした。
もう一つは『毎日、海からこんな恵みをもらって暮らせる生活自体がそもそも人並み以上の生活です。
その海をカネで売って原発を建てさせるのは自殺行為で、ご先祖様や孫・子に顔向けできません』という原発反対の祝島地区の漁師のおばちゃんの話でした。
氏本さんは、草ぼうぼうの荒地のようなところにブタを放し飼いのようにされています。
そこで、ブタが自然のえさを食べ自然に子を生んだり子を育てたりしています。
祝島の島民の皆さんは、商品にならない、ミカンやビワや野菜などをブタに持て来てくれます。
島民の皆さんから、残飯をブタの飼料としてもらって、自然農業です。
氏本さんは、『人はお天道様の恵み(太陽エネルギー)の範囲内で、同じような生命時間を持つ動植物のつながりの中で暮らすのが、自身のためにも、他の動物のためにも、身の丈の暮らしなのではないのだろうか』と訴えられています。
ここでの自然飼育のブタもブタの子どもも、病気になったことはありませんと言われました。
ブタが荒れた草地を掘り返した後を利用して、野菜などを栽培しておられます。
鉄線の柵はありましたが、ブタも親子で草地の草を食べ土を掘り返して動き回っていますから、自然でいいと思いました。
講演を聞き終わって、まことに、あー、『自然と共に、身の丈の知足の生活』ということを感じました。
聴衆も、ブータンのように、機械文明には乏しくても、みんなが支えあって、幸福度が高い社会のことを思い、語っていました。
 
世界大戦争になったらとの質問と答え
 
質疑応答が始まりました。
『これから、核兵器などもまだ開発され増えるだろうし、将来、水や資源、食糧不足でその獲得をめぐって戦争が起きる予測もあり、核兵器の使用で、人類が滅亡することも予測されますがどうでしょうね』というような問いがありました。
氏本さんは、『私は生き物を扱う、生活をしています。そこから考えると、人間はずいぶん、他の生き物を蹂躙していると思います。
もし人類が滅んだら、他の生き物はどんなに生き易いことかと思います。
決して、虚無主義者ではありませんが、たとえ、戦争で人類が絶滅するというような、そういうことになってしまったとしても、それも人類の自業自得の結果として引き受けたい。
他の生き物にとっては幸いなことでしょう。』というような回答をされました。
 
私の感想
 
私は感動を覚えました。
聞いていて、氏本さんは、みんな人間も他の動植物も共生しあって生きてゆくという考え方ですから、決して、戦争肯定論ではなく、平和主義者であることは分かっていますが、でも、ブタを飼い、ブタの命をもらう生活の中で、人間、人類の他の動植物への罪ということを深く感じておられればこその言葉だと感動したわけです。
いくら、未来の子孫のことを思って、脱原発を言っても、原発推進者は強大であり、いくら平和を願っても、戦争容認する人々が強大であるという現実から、決して、戦争や原発を肯定しないけれども、もし、戦争や原発事故になって、人類滅んでも、それは戦争・原発肯定者も反対者も共に人類の共同責任として引き受けざるをえないということかと思った次第です。
世界には、武器を捨てた、コスタリカがあり、精神的に豊かな、国民の幸福度世界一といわれる仏教国ブータンがあり、脱原発の、ドイツ、イタリアがあることを思い、希望は失うまいと思います。
お釈迦様や親鸞様の不退転の伝道布教を思います。
 
今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします
 
ダーナとは布施(ほどこし)というインドのことばで、ほどこしは、共に分かち合うという、仏教の生活実践です。         (毎年のご協力を感謝します。)
 
モンゴルの砂漠植林基金への支援打ち切り
 
今まで長いこと、支援しておりました、モンゴルの砂漠植林基金への寄付は、今まで、草津の教専寺に事務局があった、アミダの森事業が、中国の現地で引き受けて下さることになったので、打ち切りました。
今までの皆様からの寄付は、今、モンゴルの地で植林され、砂漠にみどりを広げてくれています。
ようこそご協力くださいました。
つきまして、去年1月25日付で報正寺門信徒に対し、内モンゴル自治区シリンゴル盟緑化委員から表彰状が届きました。
その表彰状には、『長期に渡った内モンゴル自治区の砂漠緑化事業への多大なご協力に対して、内モンゴル自治区シリンゴル盟人民政府は感謝の意を表すると共にこの栄誉証書を授与し、表彰します。』とあります。
 
 
 
在韓被爆者渡日治療委員会支援のこと
 
これは、28年前、1984年に、広島市の河村病院の河村虎太郎先生が始められたものです。
韓国の被爆者を広島に招いて、個人や団体からの寄付によって治療奉仕をさせてもらおうというものでした。
報正寺の名で寄付名が載せてあるこの委員会のニュースは1989年のものが残っていますから、もう23年もダーナ支援を続けているのですね。
かつての戦争責任のある日本人、仏教徒として、ほんのささやかな謝罪のつもりです。
 
在韓被爆・渡日治療者、ホマンジョンさんの証言
 
8月6日、突然ピカリと光り、家が倒壊し、その下敷きになりました。
全身にガラスの破片が突き刺さっていました。
父と弟がヤケドしました。  岩国に逃れ、入院し、弟は一週間後死にました。  
岩国でも空襲があり、韓国に帰国しました。
1950年、朝鮮戦争で入隊しました。
同じ民族で殺し合う戦争がいやになりました。
1988年に被爆手帳を取りました。
妹達は、被爆者との発覚を恐れて手帳を取得しませんでした。  韓国原爆被害者協会には手帳の無い人が約150名います。
60数年たって、証人もなく、記憶もあいまいで手帳確保は難しいですが、日本政府はこの人々を救済してほしいと願っています。
 
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は
          31,800円でした。
布原、2,000円・大井、2,000円・
小原、3,000円・萩原、2,000円・
数舟、1,500円・本一、4,000円・
本二、5,800円・本三、8,000円・
本四、3,500円
配分
山県太田組ダーナ募金会計・・・13,000円
在韓被爆者渡日治療委員会・・・10,000円
本願寺東日本大震災支援金・・・・8,800円
前年度山県太田組ダーナ募金総額は
           403,896円でした。
過年度積立金含め配分
山県太田組内医療機関へ仏教誌施本
          ・・・ 205,920円
社会福祉法人芸北福祉会・・・150,000円
東日本大震災義援金  ・・ 500,000円
火災・雪害見舞金、三件・・  40,000円
安芸教区連盟委託金等 ・・・ 30,567円
災害援助等積立金繰越残額見込み       
1,468,591円
 
2012年1月
 
過年・色々ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。
 
親鸞聖人御命日法座のご案内 20日(金)日中・夜、21日(土)日中・夜 日中9時半・夜7時半始め 前席 講話・後席 話し合い 「親鸞様の御一生から学ぶもの」      住職自修     共に、親鸞様のご一生から、生と死と現在の世界 を考えさせてもらいましょう。 例年通りぜんざいをいただきます。 おさそいあっておいでください。
 
越年つれづれ
 
一年の節目に、また、あー、何のために生きているのだったか・・・・と思い返します。
最近、地球に近い、水があるような惑星が見つかったといっていますが、はたして、生命がいるのかどうか、興味深いところです。
地球外生命がいても不思議ではありませんから。
それにつけて、いつものことですが、もともと本来、人間、生命、地球、太陽、自然宇宙の存在意味は・・・・と問います。
この宇宙は、無のような真空のエネルギーに満ちたところから、約137億年昔に、ビッグバンから生じ、最終的には、冷却して、暗くて空漠とした状態になるらしいといいますし、本来宇宙も私もその存在に意味は問えないと思えます。
が、とりあえず、犬でも猫でもなく、人間という生き物として産み出されているからには、いたしかたなくとも、生きねばならんようにしくまれています。
食欲も性欲も、財欲も欲望は、すべて、自己や人間という種族永存のために命に仕組まれた衝動なのでしょう。
そして、もう一つ、この欲望とは違って、人間には、真とか、善とか、美とか、価値というものを願い求めるものもありました。
この分野が、思想、哲学、倫理、宗教、芸術といわれる精神分野と思われます。
私達は、本来、『非』意味ながら、動物として、欲望と共に、さらに、人間という精神的動物として、価値を願い求めて生きてゆくということではあるでしょう。
仏教は、一般的に、欲望を超越して、最高の真、善、美、の価値を実現(成仏)する教えといえます。
又、浄土真宗は、同じく最高の真、善、美の人格者として象徴的に表現された、阿弥陀仏から、真、善、美の反対、偽、悪、醜、欲望、我執の自己と社会を慙愧せしめられつつ、命や人間の尊厳の侵されない人生や社会の創造に向かって歩ましめられる教えと言えます。
今年もその道をおぼつかなくとも確かめつつ歩めたらと思っています。
 
去年の東日本大震災・大津波
 
天災地変の猛威と何が起こるかわからん人生を思い知らされました。
たとえ自分も被災者となって、家族も親族も家もふるさとも何もかも失って、一人ぼっちになったとしても、なお、なおも、よりよき自己と社会の創造に向かって生きようとする意欲が持続できるものかどうかを自問自答させられました。
親鸞聖人は、35歳のとき、死刑から越後へ流罪になられましたが、かえって、この越後の田舎の人々と共に仏法を伝え学び合うことこそ、わが師、法然上人のご恩に報いることだと思い定められたことを思い起こしました。
また、人によっては、震災への義捐金や、救援ボランティなどに積極的に取り組まれ活動されている人があるのに、無我、慈悲、利他、布施などといつももっともらしく言いながら、口先だけで、身の動かないことを、仏法が身についていないことと恥じます。
 
去年の福島原発事故
 
これも大きな衝撃でした。
40代の頃から、脱原発への思いはあったのですが、しばらくその運動から遠のいていました。
この事故をきっかけに、自分のええかげんさを恥じ、
ほとんど毎日、インターネットで、原発の情報を聞き学んでいます。
東京電力は、莫大な補償等廃炉資金不足から、国有化する方向になりそうです。
原発事故の収束に、これからどれだけの年月と費用がかかるのか途方に暮れるような思いです。
被曝された人々、ことに子ども達のこれからの発ガンなど、健康悪化の心配がいつまでも続きます。
日本は、ベトナムに原発を輸出するといいます。
アメリカは34年ぶりに原発を建てるといいます。
ともかく、日本だけでなく、世界中に溜まり続ける、半永久的に無毒化出来ない、猛毒の放射性廃棄物は大問題です。
これは、子孫、また、生命への冒涜と思えます。
ドイツやイタリアのように全世界、脱原発に決断してほしいものです。
 
2,011年12月
 
聖典学習会のご案内 23日(金・休日)朝・夜 朝9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
 
前回の学習内容から
 
悲願はたとえばなお利鋸のごとし、 よく一切無明の樹を截るがゆえに。 なお利斧のごとし、 よく一切諸苦の枝を伐るがゆえに。
 
ここに、親鸞様自ら、仏法によって救われた実感を表現されているように思います。
救われたということの内容ですね。
以下通釈してみます。
「阿弥陀様の、大慈悲の願いは、たとえば、まことに良く切れるノコのようです。
なぜなら、阿弥陀様のこの悲願は私達一切の迷いの大樹を切り倒されるからです。
又、よく切れるオノのようです。
なぜなら、一切のいろんな苦悩の枝を伐り払われるからです。」と読めます。
どういうことでしょうか。
阿弥陀様の悲願というのは、大慈悲というものの象徴的な表現です。
大慈悲とは、たとえば、どんなに心がすさみ、大罪を犯した大悪人であっても、みんなを、最も広い、もっとも深い思いやりの大慈悲の実践者に完成させようとする願心です。
たいていなら、大悪人というものには、えてして忌み嫌うものが世間というものでしょうが、阿弥陀様の慈悲というのは、真反対の大いなる慈しみです。
実に、最大、最高、最深の悲願です。
親鸞様も、『真実』を求める求道の中で、この阿弥陀様に象徴された、大慈悲というものにこそ、何よりもまして、尊い真実そのものを実感されたものと思います。
そこに、親鸞様も、人生の根本的な問いである、人生の目的とは何か?人生の意味は何か?人生どう生きるべきか?といった人生の迷いの大樹が切り倒され、人生の迷いが晴れたのを実感されたものと思います。
 
親鸞様の人生の目的、意味、生き方の答え
 
「人生の目的は、大慈悲の人格の完成であった。
人生の意味は、大慈悲の人格完成を自他共に目指し、慈悲に満ちた社会の完成に向かって生きることであった。」
これが、親鸞様の人生の根本問題の回答であったと思います。
もちろん、とはいえ、自らの根深い我執、煩悩の身を悲歎慙愧されながらでありました。
 
親鸞様の人生の苦悩の解決
 
親鸞様は、90年の人生で、国家による念仏弾圧、長男の背信、火事、など苦悩の多い人生でした。
でも、なんのバチとも、タタリともせず、神仏への除災、お払いもせず、招福などの祈願も全くされませんでした。
人生に起きる出来事のすべてを、『よし、これがわが人生の自ら引き受けるべきめぐり合わせだ』と受け止められたと思います。
さらに、自分が受け止めたはずの仏法が本物か偽者か、この仏法によって、この苦難を乗り越えられるかどうかが試される試練として受容されたと思います。
そして、弾圧する国家権力にも、自らに背いた長男にも怨讐を超えて、哀れみ悲しみの心を持って包摂されました。
それこそ、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」と苦難の人生を乗り越えて生きられました。
まさしく、親鸞様には、どんな苦悩があっても、ただ、人生とは、阿弥陀仏の悲願として象徴表現されている、大慈悲というものを真実そのものとして、その大慈悲にうながされる人生と社会の創造に向かって、慙愧とともに一筋に生きるだけであるという念仏の道を一貫されました。
だからこそ、大慈悲にうながされる道は、一切のもろもろの苦難の枝を切断する良く切れる斧のようであったと実感されたものと思います。
 
学習会へのお誘い
 
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
仏法と人生と社会を聞き学びましょう。
 
わかっちゃいるけど・・・・・・
 
3人の子どもの小さい頃の写真を時たま見ることがあります。
そのとき決まって、『まーまー』とつぶやき、涙のにじむ思いにかられます。
それは、あー、こんなにも可愛かったのに、あのころ、ちゃんとかわいがってやっていなかった。
ちゃんと育ててやっていなかったという申し訳のない後悔です。
もう取り返しがつきません。
今をちゃんと向き合うしかありません。
じゃあ、今、ちゃんと向き合っているかというと、ところが出来ていません。
わかってはいるつもりなのに、いつも自我が出てきて消し飛んでしまうのでしょう。
それは、あの小さい時の頃でも同じことだったんだと思います。
あーあ、こうして、同じような繰り返しで、一生を終えてゆくのかと思います。
それは、もう13年も前に亡くなった母のことを思うても同じ後悔です。
頭ではわかっていても、実際母が生きていた現実の生活では、やはり自我で親不孝でした。
連れ合いともいつかどちらか死別することがあることを想像することもあります。
絶対後悔する思いが湧き上がってきます。
一期一会で、今、今を大事に、思いやりを忘れないようにとは思うものの、それがつづきません。
でもこれが凡夫と居直ってもいけないと思いますが、時々、思い返しては、日ごろの自我に絡められた振る舞いを反省し続けたいとは思うことです。
 
平岡法務大臣の地元、岩国での死刑廃止集会に参加
 
11月6日でした。
あまりたくさんな人ではありませんでした。
70人ぐらいだったようです。
心ある全国の人々が集まっていました。
日本で初めて死刑囚として再審の結果、獄中34年ぶりに無罪を勝ち取られた免田栄さんも参加され思いを述べられました。
岩国市の人々にも参加してもらいたいと、岩国市内でチラシを町行く人々に手渡しました。
会場でそれぞれの思いを語ることになり、初めてでしたが広島県からということで、又以前から、死刑廃止フォーラムの会員であったということで私に突然世話人から何かメッセージをと依頼されました。
突然で驚きましたが、いつも心に残っている、小松川事件のことを紹介して私の思いとさせてもらいました。
 
小松川事件
 
本願寺の機関紙、『宗報』から紹介します。
この事件は、1958年の殺人事件です。
犯人は在日朝鮮人少年でした。
法律上少年犯罪でしたが、異例の速さで死刑が執行されました。
実に感動するのは、殺された少女の両親の思いです。死刑判決後、両親は犯人の減刑を願われました。
その思いとは『人間として成長していく可能性がある少年ならば、生きて立ち直ってほしい。
死刑で殺しても、少年のご両親や兄弟が悲しむだけで、娘が生き返るものでもない。
生きて自己を改善してくれてこそ娘に対する本当の供養になるでしょう。
外に出られることになれば、小さな工場ですが、喜んで家に迎えましょう』と
でもその後、『非国民・・・娘をチョーセンになぶり殺された日本人か・・・・死ね・・・』と殺到してきた抗議に深く傷ついておられたといいます。
少年は処刑されました。
少女の母親は、『どうしても少年の母上を慰めたい、焼香に伺いたい』と案内を請われたといいます。
そして少年の生家に向かうバスの中でその母は
『大震災のとき私はまだ子どもでしたが、この辺りはそれはもう、むごい朝鮮の方たちの亡骸がいっぱい放り出されて、・・・・・
私どもは、たいそうな罪を朝鮮の方たちにしていながら、お詫びも償いも何一つしていないのですよ。・・・・
どうして、私どもが娘の不幸一つをうらんだり出来ましょう。・・・・
又一つ罪を重ねてしまいました』と話されたといいます。
そして、少年の家に行かれて少年の母親としっかり抱き合い、慟哭されたといいます。 
 
平岡法務大臣への要請文の一部
 
平岡法務大臣に於かれては、『死刑のあり方についての勉強会』で今後とも死刑の存廃について開かれた論議を行うと共に、死刑についての情報公開を積極的に行っていただきたいと思います。
死刑という峻烈かつ重大で取り返しのつかない刑罰の執行については、他の刑罰と異なり、法務検察官僚の決済によるのでは十分ではなく、政治家である法務大臣が熟慮に熟慮を重ね、政治的決断も踏まえてその当否を判断するというものです。
日本政府が国際社会から人権後進国との謗りを受けることの無いよう、法務行政の最高責任者としてリーダーシップを発揮し、日本の死刑廃止、執行停止の取り組みを世界に発信していただくことを期待したいと思います。
 
世界7割が死刑廃止・去年(2010年)
インターネット『死刑廃止と死刑存置の考察』より
死刑存置国・・・57ヶ国(29,1%)
死刑廃止国・・・139ヶ国(70,9%)
もう世界は7割が死刑廃止の流れです。
日本は世界から遅れている人権後進国です。
 
2011年11月
 
秋法座のご案内 24日(木)夜〜26日(土)日中                           報恩講おとき日・・・25日(金)日中 日中9時半・夜7時半始              講師 呉・明円寺・竹田嘉円殿    お誘いあっておいでくださいませ
 
地球の課題
 
 温暖化も言われ、どうも、将来、だんだんよくなるとは思えないような状況ではないでしょうか。
海も、大地も空も水もだんだん汚れてきているようです。
 森も少なくなり、熱帯雨林のジャングルも少なくなっているようです。
砂漠は広がっているといいます。
生物も、どんどん絶滅種が増えているといいます。
人口は、日本では少なくなっているようですが、世界中ではまだ増えるといいます。
人口が増えて、科学文明が進歩した分、地球の生命環境は汚れ、破壊されてきたようです。
 
世界の課題
 
 貧富の格差が広がっています。
 飢餓、難民、エイズの拡大があります。
国家、民族、部族や宗教紛争などが絶えません。
自爆テロ含め武力抗争、原発標的テロの脅威があります。
領土、領海、資源をめぐる紛争もあります。
将来、水、食糧、資源エネルギー不足の懸念があります。
世界中にある、核兵器、原発、そして放射性廃棄物の事故等の地球、全生命の汚染、発癌増大の心配があります。
小型核兵器はじめ、軍事力の開発、競争はやみそうにありません。
 
人類の課題
 
 地球、世界の様々な課題の元凶は、我々人間の自己中心性、あくなき欲望であろうと思います。
このあくなき欲望にブレーキをかけることが出来るのが、人間性というものではないでしょうか。
しかし、この人間性にいつも立ちきるということはおぼつかないように思います。
根の深い、自我の欲望、保身というものに誘惑されているからです。
でも、政治家も実業家も役人も学者も、教育者も、宗教者も誰であっても、この人間性の自覚と主体化の熟成こそが人類永遠の課題と思えます。
 私達の、人間性の自覚と主体化の熟成、これなくして、地球、世界の課題は解決しないと思われます。
 
人間性の自覚と主体化熟成の方法
 
 人間性の自覚と主体化の熟成、これを言う私が恥ずかしい限りです。
 でも、この方法ということを考えるなら、まず、この人間性の自覚と主体化の熟成された人格に出会うということがあげられるでしょう。
 さらに、じかに、出会われなくても、こういう熟成された人格が表現された芸術、宗教、哲学、倫理、思想、精神にふれるということもあります。
これらに深くふれることによって、私達の人間性の自覚と主体化は熟成されてゆくのでしょう。
 これは一生かけての課題と思います。
 
人間革命と文化革命
 
 仏教とは、念仏とは、この人間革命、文化革命だというようなことを言っていた、真宗僧侶がいました。
私ももっともだと思いました。
生まれて以来、他者に負けるな、勝て勝てと競争し、勝って、他者を支配し、欲望をかなえ、一流トップを目指すという、競争志向の生き方、社会の風潮、
もし、生まれた時も、生まれてからも、一生、心身、能力ともに、家庭も境遇もなにもかも不遇、人生のすべてに不満なら、不幸、負け組みときめ込んでしまう考え方や社会の風潮があります。
そのまっただ中の人間革命。
それは、自分だけ勝ち誇っても、他者の恨み、悲しみ、苦悩、格差、不幸が、たとえこの世の一人にでもある限り、私は幸せとはいえないということに気が付き、
又、逆に、たとえ、何もかも、不遇であっても、人間の尊い道は、前記の、人間性の自覚と主体化の熟成であるということに気が付いてゆくこと。
そこから、何があっても、何もなくても、ともかく、
『物を公平に分かち合い、お互いに平等に尊重しあい、殺さず、奪わず、差別せず生きられるなら、原始生活でも結構じゃないか。
便利になり、豊かになるのも結構だが、それは、殺さず、奪わず、差別せず、お互いに公平に分かち合い、尊重しあうということと共にでなければならない』というような人生観、社会観が多くの人々に熟成してゆくことでしょうね。
 
2,011年10月
 
聖典学習会・原発映像学習会のご案内    28日(金)朝・夜 朝9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 インターネットユーチューブから原発映像学習  住職自修  参加費無用  聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい                                
 
前回の学習内容から
 
 
『あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。 ゆえに不回向の行となづくるなり。 大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。』 ここに、親鸞様の私たちへの願いがあります。
私なりにつたない解釈をしてみます。
だいたい、念仏を申すということは、私が、仏に、病気を治してくださいとか、苦しいことを助けてくださいとかいって、自分の欲望願望を訴えるようなことでは決してない。
念仏を申すということは、この私が仏の「まこと」を仰ぎ、私の「うそ」を慙愧するつぶやきである。
仏の「まこと」とは、完全なる、無我、慈悲、利他、布施の世界である。
私の「うそ」とは仏の「まこと」の反対であり、「無我」の反対の「我」であり、「慈悲」の反対の「冷酷」であり、「利他」の反対の「利己」であり、「布施」の反対の「収奪」である。
それゆえ念仏を申すということは、仏の「まこと」を仰ぎ同時に、「うそ」の自分と世の中を慙愧し、それゆえにこそ、「まこと」の自分と世の中を願って生きてゆこうとする思いのつぶやきである。
この念仏のつぶやきは、自分のつぶやきではあるが、それは逆に言えば、仏の「まこと」が私を感動せしめ、つぶやかせたということが出来る。
だから、あきらかに、知ったことであるが、念仏することは、我々凡夫であれ、聖人であれ、自分の力による行ではないのである。
だから、私の方から仏に向って手向け、回向するというような私の念仏ではなく、仏の方からいただいた念仏ということで、不回向の行と名づけるのである。
だから、大乗小乗の聖人も、罪が軽かろうと重かろうとどんな悪人も、みんな同じように、阿弥陀様が選び取られた、広大な宝の海のような、無我の大慈悲に「まこと」があることにめざめ、この「まこと」をよりどころとして念仏を申しつぶやきながら、成仏という、究極の自己実現を果たすべきである。
 
親鸞様の私達へのうながし
 
ここに、親鸞様が、私達に、「人生において、単に、自分だけの欲望、快楽をのみ求めるのでは、それでは空しいはずです。
我々凡夫は、我執煩悩のとらわれからは逃れられない悲しい存在ではあるけれども、なお、仏の導かれる、我執を超えた慈悲や利他や布施の方向に向う人生と社会の創造に向って歩んでゆこうではありませんか。
それこそが救われた人生と言えます。」とうながされているように感じます。
 
学習会へのお誘い
 
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
この度は、出来るだけ新しい、原発問題の映像から、原発問題も学習します。
 
信が問われる、つれあいへの態度
 
過日、僧侶他の研修・飲み会に参加しました。
夫婦、布団は別か一緒かという話になりました。
色々でした。
ある僧侶は、妻と寝る前に、たいてい、妻の耳と肩をもみ、足をマッサージしていると告白しました。
私は「オー」と感心しました。
私は、何もしていないからです。
たまに、ふとんに手をかけて、
「今日は、ご苦労でした」ぐらいの言葉を眠気眼と眠気声で語るぐらいです。
彼は、「平生色んなことで、出かけて、坊守に苦労をかけているから慰労と、罪滅ぼしのようなもので、そりゃあ、夫婦の間、うまくやって行きませんと」というようなことでした。
生活信条でも、「互いに敬い助け合い云々」ともっともらしく称えながら、私は身についていないことを反省します。
彼の振る舞いに敬服します。
じゃあ、今、真似をしているかというと、やっていません。
でも、考えさせられました。
 
坊守との冷戦状態からの脱出?
 
最近、なんとなく、坊守とは冷戦状態のような空気がわだかまっていました。
これも、どっちもどっちということも思わないではありませんが、どうも、私の冷酷、非情、わがままの為せるものということをいつとはなしに感じてきました。
こりゃーいかんなーということを感じ出したということです。
つまりは、口先だけの僧侶で、仏教が身についていないということです。
本当は、連れ合いや、子どもから、本気で「あなた、お父さんと、次の人生があったとして、やはり又、いいえ、永遠に人生を共にしたい」と言われるような私になりたいものだとは思っているのですが・・・・。
最近、坊守は、腰の痛みと風邪なのか、十日ばかり37〜8度の熱が続いていました。
その間、私は、あれこれ集会で家を出たり入ったりしていました。
もう熱は大丈夫かなと思える日、私は、又、市内へ原発問題の集会に行くことにしていました。
まだ熱が出る心配と申し訳なさも感じていました。
また、前の文章に紹介した、寝る前に、平素の妻への苦労への慰労のマッサージする彼のこともよみがえりました。
とうとう、広島行きは中止しました。
坊守は喜びました。
私も、市内に行けない残念さもありましたが、まあいい、という思いもありました。
坊守からは、平素、「社会のことは、心配しても、身近な家族のことはかえりみないんだから」となじられていましたから。
調子に乗って、私は、『「愛」は、万病の妙薬』などと放言していました。
坊守は、「そうよ」などと言ってうれしそうでした。
ともあれ、熱は引きました。
すこし、冷戦状態がぬるんだかなと思っています。
でもまた冷戦を大なり小なり、繰り返すことでしょう。
親鸞様の和讃、
「無明煩悩しげくして塵数のごとく遍満す、
愛憎違順することは、高峰岳山にことならず」を思い出しました。
 
東日本・地震津波、原発被災地に野菜を送るご支援を
 
@ 震災支援ネット(びんご)
備後の寺院、仏教婦人会などの支援活動です。
過去4〜5回僧侶有志で、現地に炊き出しなど支援
活動を継続されています。
「ご縁のつながった被災寺院・門徒・有縁の皆様へ、野菜を送る」活動
震災から半年が過ぎ、テレビ報道なども少なくなってきました。
しかし被災地の状況は、これから再び立ち上がれるか、これからが踏ん張り時でありましょう。
遠隔の地にあって私達は大変微力ではありますが、この半年の支援の中で出会った被災地の寺院・門信徒・有縁の皆様と「この震災を機会に、今後も共に歩ませてもらいたい」という思いを届けたいと思います。
三次組仏教婦人会ですでに行われています、ご縁のつながった被災地へ継続的に門信徒の皆様の野菜・米などを送っていきたいと思います。
とりあえず、2ヶ月1回程度、まず今年度末まで継続することを考えています。
A 福島の子ども達に、安心して食べられる野菜を送ろう! 福島の子ども達を放射能から守ろう!ヒロシマ・キャンペーン
私達は、福島県いわき市内にある保育所を訪問しました。
震災前は、子どもたちが土や自然にふれることを大切にした保育を行い、給食も、地産地消にこだわって福島県産の食材を用いてきたと聞きました。
しかし事故後、福島県外から取り寄せるようになり、子ども達が安心して食べられる野菜の入手が困難な状況が続いているようです。
そこで、出来るだけ放射能に汚染されていない安心な野菜を子供たちに送ることにしました。
ご協力ください。
園児は220人ぐらいと聞きました。
備後は、とりあえず、今年度末まで、ヒロシマキャンペーンは、園児が地物野菜を食べられるようになるまで長期になります。
米、タマネギ、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモカボチャ、ハクサイ、ダイコン、ニンジンなど皆さんのところでご協力くだされば、報正寺へご一報ください。  集荷に参ります。
 
水質・食品・土壌の放射能測定装置、寄贈支援を
 
福島の子ども達を放射能から守ろう!ヒロシマ・キャンペーンの企画で、私も賛同者に名を連ねています。
福島県いわき市では、内部被曝をより低く抑えようとして市民自ら「いわき放射能市民測定室」(仮称)を開設し、食品の放射能汚染を測定する「水質・食品・土壌汚染モニター(ベクレルモニター)」を配備する準備を進めています。
そこでヒロシマからベクレルモニターをいわき市に送るため1台分300万円をカンパで集めることにしました。
福島の子ども達を放射能から守るために、ぜひ、ご協力ください。 (御同朋の社会を願って)
ベクレルモニターとは、食品・土壌・水・原材料などの放射能測定を行うものです。
郵便振替番号
01350―9―88571
加入者名 「放射能から守ろうヒロシマキャンペーン」
 



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