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2007/3/6

報正寺通信NO,1

 
2,007年2月                                               
 
釈尊涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内 15日(木)夜〜17日(土)日中      日中9時半 夜7時半はじめ 前席・講話 後席・話し合い 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職自修
 
生と死へのこだわり
 
生きるということについては、
今現に、どういう不足があろうとも、自分で自分を選んで生まれてきたものはなく、生まれてみたら、良くも悪くもこういう自分で、こういう環境で、こういうめぐり合わせの人生だったのだとちゃんと背負い込んで生きるほかないでしょうね。
家庭や健康や能力や財産や地位に恵まれようが恵まれまいが、失敗や過ちがあろうがなかろうが、何があろうが、何もなかろうがとにかく臨終まで、
真実の自分創りに生きてゆこう。
真実の社会創りに生きてゆこう。
そして、いつも、自分のおごり、高ぶり、ひがみ、ねたみ、欲望、打算、わがまま、差別、冷たさ、思いやりのなさなど偽善でしかないことをいつも恥じる心を忘れずに。
というようなことになるのではないかと思いますがいかがでしょうね。
そして、真実というその内容ですが、それは優しさ、思いやり、同悲、同苦といったことにつながるものではないでしょうか。
こういう生き方を、仏法では、
「真実ならぬわが身とわが世を慙愧しつつ、究極の無我・慈悲・利他・布施の自己実現と、そういう社会(御同朋の社会)実現への道に向かって何があっても何がなくても、臨終まで歩み続ける往生成仏の道」として表現しているのであろうと受け止めます。
これは、『いのち』の尊厳『個』の尊厳ということを自分も侵してはならない、他者にも、社会、国家にも侵させてはならないという生き方でもあろうと思います。
ここに、ありとあらゆる、差別や最大の人権侵害といわれる戦争を痛み反対する道があります。
世の中では、教育基本法が変えられ、愛国心や、公共の精神が強調されるなど、国家に従順な国民を教育する教育管理がいよいよ強められようとしているようです。
又、防衛庁が防衛省に格上げされ、安倍首相が、施政方針演説で、戦後体制の変更を表明しました。
戦後体制の変更とは、もう二度と決して戦争はしないということを憲法に掲げ、戦後の国づくりをしてきた国家体制を変えて、国際状況に応じて、戦争ができる国家体制へと国の形を変えるという大変なことと考えられます。
今夏の参院選では、憲法改定を争点に取り上げようとしているといいます。
『非戦平和、人権』を侵すことのない生き方や社会創りを願う私たちとしては、ゆるがせにできない状況の中で、親鸞様750年を迎えようとしています。
今年は、ちょうど、法然様や親鸞様が国家から死刑・流罪という念仏弾圧以来800年目の年です。
国の体制が大きく変わろうとしている今、国家権力と念仏ということを改めて考究したいものと思います。
本願寺教団のみならず、報正寺もその存在意義が問われるところでもあると考えます。
『死』については     
『霊』とか『あの世』とかいったことが実在するかのように言われる方がありますが、これはどうも私にはさっぱり分からないことです。
『仏』も「浄土も』実体ではなく、究極の『無我・慈悲・利他・布施』といったものの象徴的表現と受け止めますし、『死』はいやな悲しい、さびしい別れであることには違いありませんが、この『死』を如何に心豊かに受け止めるかということが大事と思います。
死はいやなことではあるが、もう煩悩に振り回されることのないところに帰るのだと受け止めたのがお釈迦様の『涅槃に入る』という言葉として受け止めます。
事実、死は悲しいさびしい別れですが、お釈迦様は、「私は、『法』の中に永遠に生きている」ということを臨終に言われています。
この『法』こそ『無我・慈悲・利他・布施』の道ですね。
まこと死は、命の根源的な究極の願いの世界にかえってゆくことなのでしょう。
そここそ、平生は忘れていても、いのちの底で本来願い続けている世界であり、そこからは、いつでもどこでもおろかな私たちが願われている世界でもあると受け止めることが出るのではありませんか。     『裏へ』
そこのところを、親鸞様は、南無阿弥陀仏の中でいつも一緒、みんなお浄土にかえり、そこで浄らかな仏とならせてもらって、今度はこの過ちの世界に返ってきて、いつまでも、どこまでも、過ちの私たちとこの世を導き続けて行くのだと受け止められていましたね。
 
 今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします
 
ダーナとは布施(ほどこし)というインドのことばで、ほどこしは、共に分かち
合うという、仏教の生活実践です。
 
在韓被爆者、李判吉さんの証言
 
吉島で生まれ8歳のときに原爆にあった。
朝食中に突然家が崩れてきて下敷きになった。
左足のかかとがつぶれ、今も腫れるときがある。
翌年9月に帰国した。
下の姉は、帰国後内臓が悪くなり10年後に急死。
被爆が原因と思う。
家の手伝いで、学校に行けず、大人になると自分でがんばらなければならず、土方はじめなんでもやった。
非常に多くの病気に苦しみ、生活に終われて病院に行けず、病気に気づかずにいた。
21歳のとき、徴兵検査で左肺不機能がわか
り、初めて原爆を意識する。
子供のことを考えて、被爆のことを誰にも言えず
病気の相談者もいなかった。
おととし8月広島へ被爆手帳を取りに来て手当て
をもらえるようになった。
このとき初めて被爆のことを子供に話した。
 
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は
          33,600円でした。
内訳
布原、2,000円・大井、2,000円・
小原、3,000円・萩原、2,500円・
数舟、2,000円・本一、5,700円・
本二、5,000円・本三、5,400円・
本四、6,000円
配分
山県太田組ダーナ募金会計・・・13,000円
在韓被爆者渡日治療委員会・・・10,000円
モンゴルの砂漠植林基金へ・・・10,600円
前年度山県太田組ダーナ募金総額は
           470,350円でした。
内訳
山県太田組内医療機関へ仏教誌施本
          ・・・ 235,740円
社会福祉法人芸北福祉会・・・150,000円
安芸教区連盟委託金等 ・・・ 84,610円
(厚く御礼申し上げます。 報正寺)
 
2007年1月
 
過年は色々ありがとうございました。
本年も命あらばよろしくお願いいたします。
 
  親鸞聖人御命日法座のご案内 18日(木)夜〜20日(土)日中 日中9時半・夜7時半始め 前席講話・後席話し合い 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修
 
越年に生と死をあらためて確認
 
毎年のこだわりですが、人間が存在しているということの、意味というものを考えます。
私は、もともとこの宇宙はじめ森羅万象は、単なる自然現象として、その存在の意味は本来無いように思っています。
ですから私たち人間の存在も本来意味は無いように思うのです。
そしてその上で生き物として存在している意味を考えますと、それは、種族保存ということだろうと思います。
そして、生き物の中で人間であるということは、種族保存の本能だけの生き物ではなく、理性的な生き物であるということであろうと思います。
理性的ということの意味は、単に大脳の発達した創意工夫の知性ということより、自己中心性の欲望を制御して、利他、共生に生きようとするものといえると思います。
そこに、いわゆる、平等、平和、博愛等を求める世界があると思います。
ですから人間として生きる意味は、単に自己中心的な本能・欲望だけに生きるということではなく、この欲望の暴走を制御して、利他、共生の博愛、平等、平和等の創造に生きてゆくということになろうと思います。
そして仏教は、この理性の究極を仏や浄土と象徴的に表現したものと思います。
ですから、仏教の説く生き方は、自己中心的な欲望の増長を慙愧し、制御しながらも、いつもふれますが、仏や浄土の本質としての無我、慈悲、利他、布施といった人格と社会の創造に生きようとするということになると思います。
これは、理知的な表現ですが、これを情的な味わいで表現しますと、阿弥陀様に抱かれながらも常に煩悩に狂わされて、阿弥陀様を悲しませているわが身とわが世をいといつつ、照らし導き続けてくださるお浄土に向かって、み仏とともに全ての命、あらゆる人々を御同朋と尊重し、歩ませていただこうというようなことになろうと思います。
こういう生き方を突き詰めてゆくと、物を公平に分かち合い、差別せず、暴力で解決せず、奪い殺すということのない、戦争のない、自然環境も汚染しない社会を、慙愧と共に歩むということになろうと思います。
こういう考え方が広く全人類世界に、浸透してゆくなら、社会の諸問題はより解決に向くことでしょう。
次に死の問題を考えて見ましょう。
私たちは死によって、実際、人生が終わることは間違いないことと思います。
この事実は、ごまかしようのない厳然たる、事実として踏まえねばならないことと思います。
実際、死は悲しい、さびしいものではあるけれども、でもこの死を如何にこころ豊かに受け止めることができるかということが課題だと思います。
私たちは、死んでも願いとしては、みんなと一緒にいたいと願望します。
又たとえどこかへ行っても暗い、汚れた怖いところには行きたくありません。
明るい、きれいな安らかなところへ行きたいと思います。
そして成れるなら半端でなく、最高の自分に成りたいと思います。
そしてそこで、過ちに陥って苦悩し迷える人があるなら、導いてあげたいと思います。
そして、いつでもここへ帰って来たいと思います。
そして、過ち苦悩する人々を導いてあげたいと思います。
どうでしょうか?
実はこの願望に沿うて真実というものを表現し、私たちを導いて、死をこころ豊かに表現しているのが浄土真宗の教義だと思うのです。
教義では、「阿弥陀様は、私たちみんなすべてを導いて、不完全に命終わるままを抱き取り、お浄土で同体の悟りを開かしてくださり、仏となさしめられ、今度は、この世に還って来ていつまでもどこまでも迷いのみんなを導き続けさせてくださる」ということになっていますね。
これは、「真実というものは、真実でないものを包摂して真実に自己同化するものだ」という真実というものの法則・道理というものを象徴的に阿弥陀仏の救済という表現にして、示してあると受け止めるのです。
ですから、阿弥陀様の導きの中、私たちの不実の命の終わる死を通して、究極の願いである真実そのもの光明無量・清浄安養の浄土にかえり、仏となって、迷界の人も導き、この世の迷える人も永遠に、いつまでもどこまでも導き続けてゆくと受け止めることができますから、この真実なる法則・道理に導かれているところ、いつでもどこでも、往けるものも、残れるものも、いつも一緒なのだと受け止め味わうことができるようになっているのだと思います。