男は知っていた。自分が還れぬことを
皆は知っていた。彼が還らぬことを
それでも男は旅立った
それでも皆は彼を見送った
男は歌った、声高らかに
皆はそれを、ただ涙ながらに聞いた
そして男は振り返る事は無かった
壮士一去兮複還
「どうか・・・ご無事で・・・」 諸葛亮は祈るように言う。趙雲はそんな言葉にどこまでも穏やかに笑む。 そう、いつも彼はそうなのだ。 どんな時でもその優しげな笑みを絶やす事は無い。 例え死地へと赴くその時ですら。 もちろん彼はそんな簡単に死ぬほど弱くは無いのだが。 10万の兵の中を単身で駆け抜けるほどに・・・ しかし、今回は勝手が違う。 明らかにこちらに分の悪い戦いなのだ。 「殿を止める事が出来ず・・・申し訳ない・・・」 諸葛亮の顔が悔やむように歪んだ。 「それは・・・私も一緒です。殿は私の言葉にも耳を傾けては下さらなかった。」 趙雲は笑みこそ浮かべてはいたが、その瞳はどこか悲しげだった。 「どうか、ご無事で・・・」 諸葛亮は再び口に出す。それは目の前に立つ青年に向けての言葉だったのだが、しかし彼はあ えてそれには答えない。 「この命に代えても殿は必ず守り抜いて見せます。」 代わりに彼の口から出た言葉に、思わず諸葛亮の顔が歪んだ。 「どうか・・・ご無事で・・・」 三度諸葛亮が口に出すと、趙雲はようやく少し悲しげな笑みを浮かべて頷く。 「・・・はい・・・」 彼が真実無事に戻れる事を確約しての言葉ではないと解ってはいたが、それでも諸葛亮はその 言葉に満足げに頷いた。 そんな諸葛亮に、趙雲は優しげに微笑む。 それは今までに見た彼のどんな笑みよりも、穏やかな笑みだと思った。 苦しみも悲しみも、全て洗い流されたかのような穏やかな笑み。 恐らく、趙雲は最早この国に戻れないかもしれないと言う事を覚悟しているのかもしれない。 それほどまでに彼の顔は穏やかだった。 全てを覚悟し受け入れたものだけが見せる事が出来る、そんな笑みだった。 『いや・・・』 ふいに諸葛亮は思う。 『もしかすると、彼は戻るつもりが無いのかもしれない。』 それほどまでにここ数日の間に起こった、この国の主君との諍いは彼にとって辛い事だっただろう。 「お前には本当に人の血が流れているのか!?」 関羽を失い、相次いで張飛を失った事に激怒した劉備は呉に侵攻することを決める。 無理な戦である事は誰の目にもあきらかであった。 そんな劉備を、当然のように趙雲は諌める。 しかし、共に死のうとまで誓い合った義兄弟を無残に失った劉備にとっては、失ったものの大 きさに我を忘れ、 「今呉を攻めるべきではない」 という、趙雲の言葉に逆上したようにそう言ったのだ。 あの時の彼の表情を未だに諸葛亮は忘れる事が出来ない。 はじかれた様に己が主君を見つめ、言葉を失ったように立ち尽くす彼の姿は、まるで母親に叱 られた子供のようだと、諸葛亮は思った。 泣きたいのに涙すら出ない、そんな辛さを彼自身も良く知っている。 諸葛亮は、ただじっと立ち尽くす彼にかける言葉も見つける事が出来ず、そんな彼の姿を背後 から見つめる事しか出来なかった。 そんな出来事を知っているからこそ、諸葛亮にとっては彼が死を覚悟しているとしか思えなか った。 忠義に厚い彼にとっては、ほかの国に降るなどもっての他であろう。 だからと言って、この国に居るのは彼にとって何よりも苦痛なのではなかろうか。誰よりも命 を賭して尽くした主に見放されたこの国に・・・ いや、真実劉備が趙雲を見放したわけではないのは理解できる。 しかし、あの瞬間趙雲は悟ってしまったのだ。 彼にとって真実、信頼し信じあえた者は、関羽と張飛だけであった事に。 趙雲は言葉無く自分を見つめる諸葛亮をいぶかしむように見つめる。 「丞相?」 怪訝な顔で見つめてくる趙雲にようやく気付いたように、諸葛亮は顔を上げた。 「殿を・・・頼みます。」 搾り出すように言う諸葛亮に、趙雲は深々と頭を下げる。 そして顔を上げると同時に踵を返すと、彼は再び振り返る事も無く立ち止まる事も無く歩き出した。 そんな彼の後姿を見送りながら、諸葛亮はふいにある歌を思い出す。 壮士一去兮複還 それは秦の始皇帝を暗殺する為に、秦へと赴く荊軻を唄ったものだった。 その時彼を派遣した太子丹を始めとする多くのものが、例え成功しようと失敗しようと、彼が 二度と生きて戻る事が出来無い事を理解していた。 荊軻もまた自分か決して戻れ無い事を理解していたのだ。 果たして荊軻はどのような思いで死地へと赴いたのであろう。 果たして丹はどのような思いで、彼を死地へと送り出したのであろう。 * 蜀敗戦の知らせを受けたのはそれから間もなくの事であった。 呉の圧倒的な兵力の前に、蜀の軍勢はあえなく惨敗した。 「して・・・・・・殿は?それに他の者達は?」 主君の無事よりも、思わず趙雲の無事を確かめようとし、寸での所で言い治す。 そんな諸葛亮の言葉に、使者は解らないと首を振った。 敵に囲まれ、窮地へ陥った劉備を助けると、趙雲は単身敵の中へと飛び込んでいったのだとい う。その後、趙雲が無事劉備を救い出せたのか、それとも彼もろとも討たれたのかは解らない という。 途端に諸葛亮は絶望に目の前が真っ暗になるのを感じた。 しかし彼らの無事を確かめようにも、あれだけの軍勢の中へといけるだけの力を持った者等今この蜀にはいない・・・そう思った矢先。 「俺が行く!」 そこに立つ男の姿に、諸葛亮は目を見開いた。 彼は最早戦場に立てるような体ではない。 「馬将軍・・・」 「勘違いするな。俺は劉備の安否など関係は無い。子龍の無事を確かめたいだけだ。」 事も無げに言ってのける馬超に、諸葛亮は思わず苦笑いを浮かべる。 「では・・・」 言いかけたその時だった。 「丞相!殿が帰還されました!趙将軍もご一緒です!!」 勢いよく駆け込んできたその姿に、諸葛亮も馬超も目を見開いた。 知らせを聞いて駆けつけた二人の目の前に飛び込んできた姿は余りにも凄惨なものだった。 もとは白かったはずの紅く染まった白馬の上で、ただ眠るように意識を失った劉備を抱えるよ うに血まみれの趙雲の姿がある。 二人に息があるのは何とか理解できた。 「殿を・・・」 かすれた様な趙雲の言葉にハッとしたように、諸葛亮は周りの者に目配せする。下官が心得た ように趙雲から劉備を受け取り、その手当ての為に彼を城内へと運び込む。 「趙将軍も早く手当てを・・・」 諸葛亮の言葉に趙雲はいつものあの穏やかな笑みを浮かべた。 「孟起・・・手伝っていただけますか。」 そんな趙雲の申し出に、馬超は怪訝な顔をしながらも馬上の彼に手を差し伸べた。そんな馬超 の手をとった途端、趙雲は崩れるように馬から落ちる。 それを何とか受け止めた瞬間、馬超の顔色が変わる。 「お前・・・」 目を見開いたままの馬超を訝しげに見つめ、しかし諸葛亮も次の瞬間にはその顔色を失った。 嘗て、趙雲が劉備の子阿斗を救い出した時もまた、彼は血まみれであった。 ただし、それは全て返り血であったが。 しかし今回は・・・ 彼から流れ出るおびただしいまでの血は、普通であればその場で死んでいてもおかしくはない 程であった。 にもかかわらず、彼は己が主君を救う為だけに、気力を振り絞りここまで駈けて来たというの か。 「早く手当てを!!」 そう言って諸葛亮のほうを見る馬超に、彼は静かに首を横に振った。 「もう・・・」 諸葛亮の言葉に、場超の顔が絶望に歪む。 そんな彼らに息も絶えだえに趙雲が言う。 「孟起・・・丞相・・・どうか、殿には私は無事だと・・・伝えていただけますか?」 その瞬間、馬超の目が驚愕に見開かれた。 彼には何も答えることが出来なかった。何故、こんな時にまで趙雲は・・・ 「どうか・・・」 すがる様な目で趙雲は再び言葉を搾り出す。 「解りました。」 答えぬ馬超の代わりに、諸葛亮が頷く。 「良かった・・・」 諸葛亮の答えに趙雲は安堵したように微笑んだ。 「子龍・・・それはあんまりじゃないか・・・最期の言葉が・・・それなんて・・・」 * 趙雲の最期の言葉どおり、諸葛亮は劉備に彼の死を隠しとおした。 もとより劉備はあの戦以降、目に見えるほどに衰弱し、最早彼がそう長くは無いであろう事は 誰の目から見ても明からだった。 「もうすぐ・・・雲長と翼徳のところへ行ける・・・」 どこか悲しげに、しかしどこか嬉しそうに呟く劉備に諸葛亮は歯噛みした。 あれほどまでに彼に尽くし、守り抜いた者達が居ることに、彼は果たして気付いているのだろ うか。 趙雲だけではない。 あの無謀とも言える呉との戦いに於いて、一体どれほどの命が失われたのか、彼は知っている のだろうか。 五虎大将とまで呼ばれた蜀の武人は既に誰一人いない。 あの戦の直後に馬超もまた病死し、後を追うように黄忠も死んだ。 もし今魏や呉が蜀へと攻め入ってきた時、果たして太刀打ちできるかすらも怪しいのだ。 そして劉備亡き後に彼の後を継ぐはずの劉禅が、皇帝の地位に何の興味も示していない事は明 白で、恐らく蜀の命運すらももう長くないであろうと言う事が、諸葛亮には悲しいほどまでに 理解できた。 「いや・・・」 と彼はふいに思う。 劉禅はもしかしたら蜀という存在を憎悪しているのかもしれない。 物心ついたときにはすでに母はおらず、自分を慈しんでくれるはずの父は、蜀を得る事に必死 で決して自分を省みようとはしなかった。 蜀を得た後も、相次ぐ父の義兄弟達の死に、ついには勝てぬ戦へと赴き・・・ 父ほどの覇気を持たぬ彼に、周りの者は愚鈍だの器が無いだのと陰口をたたいているのを何度 聞いた事だろう。 そんな彼にただ一人、誰よりも優しく手を差し伸べた者を、劉禅が誰よりも敬愛しているのを 諸葛亮は知っていた。 もしかしたら劉禅にとって、彼こそが父であり母であったのかもしれない。 彼の死を知らせた時の劉禅の表情。 『そうか・・・』 とだけ呟いた彼の表情は、驚くほどまでに感情が失せていた。 「丞相・・・」 突然にかけられた声に、諸葛亮はその声の主を見る。 「殿が・・・丞相にお会いしたいと・・・」 どこか複雑な顔で申し出る姜維に、静かに頷くと諸葛亮は静かに席を立った。 * 「孔明か・・・」 現れた諸葛亮の姿を確認すると、劉備は力ない笑みを浮かべる。 「お主は、儂を愚かと笑うだろうな・・・」 「・・・」 諸葛亮は答えない。 「思い返してみると、儂は後悔ばかりの人生を送ってきたように思える。儂に仕えたが為に無 駄に散っていった命のなんと多い事かと、悔やんでも悔やみきれん。」 その顔には深い苦渋が滲み出ている。 「殿・・・決してその様な事は・・・」 「お主にはすまぬ事をした。お主にもアレにも・・・本当にすまないことをした。どれほどに 詫びても詫びきれぬ・・・」 「え・・・」 諸葛亮の怪訝な顔に気付いているのか居ないのか、劉備はあくまでも静かに淡々と言葉を続け る。 「儂亡き後は・・・息子の事を頼む。だが、禅に器が無いと思えば・・・その時は構わぬ。お ぬしがこの儂に取って代れ。」 主君の言葉に、諸葛亮は目を見開いた。余りに意外な言葉だった。 てっきり劉禅を補佐して欲しいと頼まれるのではないかと思っていた。 「どんな事がありましても、劉禅様を主と仰ぎ、これより先蜀の・・・そして三国の安定に心 を尽くしてまいります。だから、どうぞご安心ください。」 そんな諸葛亮の言葉に、劉備は少し悲しげに微笑んだ。 「恐らく、儂ほどに家臣に恵まれたものはおらんだろうな。儂の周りに集った家臣たちのどれ ほどに素晴らしかった事よ。もしも儂のような愚鈍にさえ仕えねば、もっと別の良い生き方を 見つける事が出来たかも知れぬ者たちばかりであったというのに」 「そんな事はありません。殿という素晴らしい君主が居たからこそ、彼らもまた素晴らしい忠 臣になりえたのです。そして、殿だからこそ、彼らはその命を賭しても貴方を護り、この国を 護ろうとしたのです。」 そんな孔明の言葉にかすかに救われたような眼差しをうかべる。 「人の人生など・・・悔やむ事だらけなのかもしれないな。こうして逝く間際となっても、決 して尽きる事は無い。だが、お主の言葉で、少し救われた。」 「殿・・・」 劉備はその瞳をそっと閉じる。 「おぉ・・・来てくれたのか雲長、翼徳・・・これでようやく儂もお前達の元へ行ける。」 既に諸葛亮の姿も目には入っていないのであろうか。そんな主君の姿に、諸葛亮は悲しげに目 を伏せた。 「・・・お主も・・・来てくれたのだな、子龍。」 その瞬間諸葛亮の目が見開かれた。 しかし既に劉備は永い眠りについた後だった。 「殿・・・貴方はご存知だったのですか・・・」 小さく呟かれた疑問に答える者は無い。 涙は不思議と出なかった。 彼が死んだ時のような、苦しさも全く無かった。 「ああそうか・・・」 諸葛亮は気付く。 「私はずっと貴方を憎んでいたのかもしれません。」 驚くほどに冷めた瞳で物言わぬ主君の姿を一瞥し、諸葛亮は踵を返した。そして再び主の顔を見 る事も無く、ただ静かに部屋を後にした。 貴方の存在を。』 |
史実を無視しまくり・・・趙雲が死んだのは本当ならこの7年後で、しかも病死です。
多分劉備という人は、関羽や張飛ほどに他の武将を信頼しては居なかったと思います。
だからこそ、回りの静止を振り切って勝てない戦に踏み切ったのだと。
本当に信頼し、また大切に思っていたら、無謀な戦いで多くの命が失われるとわかっているにもかかわらず、そんな戦いはしないと思います。
趙雲は実は誰よりも長く劉備に仕えていたんですよね。それだけ義兄弟の絆が大きかったとはいえ、それがとても可哀想に思えたのを憶えています。
これは孔×趙というよりは孔→趙ってかんじですか。馬趙前提の。
これは無双というよりも、三国志の話ですね。