広島城の近代


広島城内及びその周辺には、近代の様々な痕跡が残っています。
ここでは、旧広島城内に残る近代の痕跡を紹介します。

なお、本丸内に残る大本営・昭憲皇太后御座所・中国軍管区司令部については、広島城の本丸をご覧下さい。

※近代とは、
日本史の区分で言うと、江戸時代(つまり武家社会)が終わって、新しい社会が生まれて明治時代以降で、第2次世界大戦終了までの区分のことを言います。年代で言うと1868年〜1945年ということになります。広島の場合、原爆までの歴史ということになります。


全 体 図
広島第二陸軍病院跡にあるプレートから

※東から、反時計回りに紹介していきます。

歩兵第十一連隊 跡
池田勇人の像の南側の木陰にある歩兵第十一連隊の跡です。広島城の内堀の東側の広大な場所、現在の裁判所や合同庁舎をすべて含むこの連隊の敷地でした。
明治初旬の萩の乱から始まって、西南戦争、日清戦争、シベリア出兵、日中戦争などに出兵し、太平洋戦争においてはマレー作戦に参加しています。日本近代の主な戦争において重要な役割を果たしました。そういった歴史が書かれている。
歩兵第十一連隊の門柱。東から撮影したもので、奥に見えるのは広島城本丸の石垣で、手前は内堀です。

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広島陸軍幼年学校 跡
広島城の北東にあたる、現在のRCCの真北あたりに、かつて広島陸軍幼年学校がありました。この門柱は、被爆したもので、ほぼ当時の位置に立っているようです。
広島陸軍幼年学校の説明。明治30年に陸軍幹部の養成期間として作られたこと、軍縮によって一旦廃校になったが、その後再開されて、3345名を世に送り出していることが書かれている。
当時の軍隊の配置図と現在の施設などが併記された地図。ただし、地図の南北など、少し間違いがある。

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軍馬の碑、野砲隊第五連隊碑
広島城天守閣の、内堀をはさんだちょうど北側にある公園内に建っている。野砲隊の部隊は、広島城内堀の真西あたりにいたようであるので、もとの部隊の位置とは少し違うようである。これは、昭和8年に「野砲兵第五連隊将兵一同」と書かれているが、正面下に昭和37年に復元されたと書かれている。
上の碑から、だいぶ南にいったところ、、広島城の堀の西側で、祇園新道の西側、基町小学校の東の空き地のあたりにある碑。この位置は野砲隊の跡地にあたる。

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部隊記念碑
部隊跡記念樹とある。前の野砲隊の碑から、15メートルほどの距離にある。奥に見えるのは基町高等学校。
裏には、ノモンハン事件参加部隊、歩兵七十一連隊、野砲兵第十三連隊、輜重兵第二十三連隊と記されている。ノモンハン事件とは、1939年にソ連との国境紛争事件のことです。

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広島第二陸軍病院 門柱・碑
広島城の西北角から、太田川をやや下流に下ったところ付近に、かつて陸軍病院がありました。かつては、別の位置にあった病院が広島衛戌病院として1885年にこの場所に誕生し、1937年には陸軍病院と改称、終戦直前には第二陸軍病院となっていました。当時の門柱が残っています。
上の写真に見えるのは、この広島陸軍病院原爆慰霊碑ですが、その左に陸軍病院及び慰霊碑についての説明があります。


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輜重兵第五連隊 馬碑
輜重隊は「しちょうたい」と読みます。輜重とは、兵站(へいたん)といって、戦争をするときに戦争に必要な物品の輸送などにあたることで、輜重隊とはそれらの部隊ということになります。この碑は、空鞘橋の東南隅近く、広島城の西にある太田川に面したところにあり、かつての輜重隊の部隊もこのあたりから北側にかけてにありました。

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旧護国神社
広島護国神社は、戦前までは旧広島城の南西、現在の広島市青少年センター付近にありました。原爆により倒壊したが、鳥居倒れず、被爆写真によく出てきます。この写真は、旧護国神社の鳥居の脚部で、下水工事に伴って発掘されました。

茂みのなかにあり、見つけにくいと思います。
ちなみに、その護国神社の鳥居は、現在は移築され、広島城内堀の東側入り口にあります。右隣にRCC中国放送があります。
鳥居の横には、奉献 昭和9年(1934)とかかれており、この鳥居が戦前のものであることが分かります。

上の鳥居の写真の右手側にあります。


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中国憲兵隊司令部 跡
中国憲兵隊司令部は、現在の水道局の南西から南あたりにありました。このプレートは、県庁の真南にあり、相生通りの一本北の小さい通りに面したビルにあります。かつてここに捕虜収容所があり、ここにアメリカ軍の捕虜が収容されて被爆死しました。プレートが英語であるのはそのためです。
この捕虜の話については、現在歴史研究家森秀昭氏が研究されており、生き残った機長の書籍なども出版されていますので、詳細はそちらに譲りますが、森氏のご尽力によりこのようなプレートが作られました。当時の新聞記事なども近くに掲示されています。


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臨時帝国議会仮議事堂跡
日清戦争の時、広島に大本営が置かれ、前線基地となったことは良く知られています。その際、明治天皇が来広したわけですが、軍事予算を捻出するため、臨時帝国議会が開かれました。その際に議事堂があった場所にプレートが立てられています。場所は、水道局の真北、中電基町ビルの前にあります。


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済美学校跡
YMCAの南西角にあります。ここは、東側外堀のすぐ西側の旧広島城内にあたります。明治5年開校した開成社を前身とする済美学校は、明治24年に誕生し、軍人の子弟のための学校でした。原爆により児童・職員が亡くなったようです。横には、被爆した門柱が置かれています。ちなみに、「せいび」と呼びます(甲子園で有名になった愛媛県の学校とは読みが異なります)。


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