縮景園 探訪


縮景園は、現在は市民や観光客でにぎわっていますが、もともとは藩主の別邸の庭園として築成されたものでした。
浅野長晟の家老で、茶人として知られる上田宗箇が元和6年(1620)に作庭しました。その後、天明年間に七代藩主藩主浅野重晟の時に、京都の庭師清水七郎右衛門を招いて大改修をした結果、現在の姿になったと考えられています。
その後、昭和15年(1940)に広島県に寄贈され、国の名勝に指定されましたが、原子爆弾により園内の建物や樹木等ほとんどすべてが焼失しました。しかし、戦後復興して、元の姿に戻っています。
園の名称は、「幾多の景勝を聚め縮めて表現した、ないしは中国杭州の西湖を模して縮景した」と伝えられています。
最近、「日本の歴史公園100選」に選ばれました。

ここでは、縮景園の様々な風景を紹介します。
跨虹橋。ここうきょうと読む。東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の千歳橋にも似た橋で、縮景園の中心に位置する。
(普段は入れない)清風館の内部から見た悠々亭。
迎暉峰(げいきほう)から見た縮景園全景。この場所は一番標高の高いところで、意味は「朝日を迎える峰」です。
奥が超然居と呼ばれる場所で、上田宗箇が作庭したころの様子が少し残っているそうです。
池は濯纓池(たくえいち)と呼ばれ、大小さまざまな島々がある。
梅のシーズにはこんなにキレイ
(写真は2006年のもの)


平成18年2月15日の中国新聞に、縮景園のコイ全滅、という記事が出ていました。
どうやら、百匹いたコイが全滅し、ボラ・チヌが占拠して、コイが全滅したこと。鯉城の別名を持つ広島城城主が築庭した縮景園にコイがいなくなったことを嘆き、対策を考えるというような内容になっています。記事にもあるとおり縮景園は川から水を引き入れていますが、水路の水が水質悪化によって引き入れていないようでしたが、コイがなくなるほどの状態とは思っていませんでした。

その後、平成18年の4月には水路の水は少なくとも復旧していました。




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