薄氷 【うすらい】 (薄く張った氷、美しくも脆いものの意)



荒野に風が吹き抜ける。
地面は所々、その朝と夕の温度差に耐えきれず凍りつき、白い。
行くのは二騎。
一人は白銀の房飾りが勇ましい若い将で、今一人は重厚な兜を被り、髭が覗く。

「・・間もなく見えてくるだろう、令明殿。」
「そうですな・・・。」

時は夜明け前。
あたりに霧が立ちこめる。


 馬超は遠駆けに出るときに同じく出かけようとしていた令明と出会った。
男の目的もまた、退屈した愛馬を連れ出すためであり二人は共に駆けることにしたのだ。

「さりとて・・・如何駆けるか。」

ホウ徳は呟く。

「俺の知るところで好ければ、日の出前に良い場所がある。」
「では任せましょう。」

こうして陣を後にし、今に至る。

蹄に打った蹄鉄が時折氷った草を踏んで滑る。
名馬なので転ぶことはないが彼らは馬から下りて歩いた。

丘を登る。

馬超は持ってきていた毛皮の外套で体をくるむ。
ホウ徳もまた、同じだった。

「・・・・・霧が立ちこめる。」

ほんの少し距離を置いて立つ二人の間をゆっくりと取り巻いてゆく朝霧。
手を伸ばせば届く距離であるのにその姿は霧にとけ込むかの如く消えてゆく。

「散霧・・・。」

ホウ徳は呟く。

かぎろい。
間もなく霧は金色を帯びてゆく。
馬超の兜が煌めいた。
彼はじっと、陽が昇るのを見つめている。




悲歌可以當泣(悲歌 以て泣くに当つ可し)
遠望可以當歸(遠望 以て帰るに当つ可し)
思念故郷(故郷を思念すれば)
鬱鬱累累(鬱鬱累累たり)
歸家無人(帰らんと欲するも 家に人無く、)
欲渡河無船(渡らんと欲するも 河に船無し)
心思不能言(心思 言うこと能わずして、)
腸中車輪轉(腸中に車輪転ず)





霧の中から微かに聞こえた詩を吟ずる声。
少し高い声で歌う彼はどんな顔をしているだろう。
愛する者を失った悲しみはまだ昨日の如く。
そして、帰ることも出来ない残された故郷。

若き将は自分と居るときだけ己の悲しみをぶちまけるかの如く詩を吟じた。
しかし、それ以上口にすることはない。
だから、男も答えることはない。

霧が晴れる。
陽は、目線の高さまで昇った。
いよいよ、日の出も本格的に進む。

「・・・戻ろう、令明殿。・・・・美しい眺めであっただろう?」

ホウ徳は頷く。

「ここから望む陽は、故郷の平原から見ているそれによく似ているのだ。
少し小高い丘と、水平に続く平野が・・・。」

一応はまだ涼州内だ。
しかし、一歩出れば長安は近い。
景色も、随分と違う。

馬超は何も言わない男を困った顔をして見上げた。

「気に触ったか?」
「いえ・・・ただ、」
「ただ?」
「・・・・・・いつか故郷へと、思いました。」

馬超は強く笑む。

「当たり前だ!まだ我らは駆け出し!必ず曹魏を討ち、勇んで涼州へ帰ってみせる!!」

まさに貴公子然とした人を強く引き寄せる姿。
風が外套を靡かせる。

悲哀と強さをもった、まさに薄氷の将。
悲しみに飲まれることなく、涼州へ導いて欲しいとホウ徳は強く願った。






悲しい歌をうたうのは泣くかわり。
遠くをながめるのは故郷のかわり。
故郷をしのべば、切なさがこみあげる。
帰ろうにも、家に待つ人はなく、河を渡ろうにも、船はない。
このつらい思いは言葉には現せない。
まるで腹のなかを車輪がまわっているようだ。

悲歌−無名氏−(漢代)