−優しい忘我−
暖かい風が吹いている。
陣内をかけた風は炊事の匂いをまとわりつかせ、すり抜けるばかり。
場所を変える。
丘の上。
馬と共にゆっくりと歩く。
具足は外した。
手には一振りの槍のみ。
丘の上から見えるのは青葉薫る、緑の大地だった。
なだらかな平原は、新芽に覆われていてここを戦場とするとなると、心が痛む。
これだけ肥えた土ならば、開墾して村を立てた方が有意義に使えるというものだ。
連れていた馬をほど近くの木に留めておき、少し逍遥する。
馬が見える範囲でないと方角が分からなくなりそうなほど、一体は青々しく、また花びらは色とりどりでもあった。
「・・・春か。」
呟いても答えてくれる人はいない。
『おおっ!これは見事だ〜兄者〜!!』
『本当に、見事ですな、兄者。』
『ああ。・・・ちょっとだけ、酒を持ってこようか?景気づけに。』
『いいのかぁ?兄者?やった〜!!次兄!酒取りに行こうぜ〜!!』
『ああ、行こうとも。』
『・・・・見事だな、子龍よ。』
『はい。』
『・・・・・・』
『殿?』
『・・・・・いや、なんだか感傷に浸ってしまうな、と思ってな。』
『え・・・?』
『子龍、どうか約束してくれ。』
『何なりと・・。』
『私のあずかり知らぬ所で死んではならん。』
『急に・・・残酷なことを仰いますな・・・殿。』
『・・・そうだな。しかし・・・・・・』
『・・・分かっております。趙子龍に、お任せ下さい。』
『・・・ありがとう。』
過去の思い出だけが風によって運ばれてくる。
「・・・私だけになってしまったか・・・。」
正直言えば短期の遠征でも、体は音を上げてしまうのだ。
私ももう、長くないだろう。
しかし武人であるがゆえ、そんな迷い言は吐けない。
ふと、何かが香る。
うららかで、眠りに誘わんばかりに穏やかで暖かい風は、花の香を運んできたようだ。
振り返れば、見事な山桜、幾本か。
地はすっかり桜色に染まっている。
「これは見事な・・・!」
側へ寄れば、花びらが儚く散る様がまた心を突いてきた。
ひらひらと落ちる様子は、まるで命潰えた将達の様にも見えたからだ。
「・・・。」
花びらを手のひらで受け止める。
「・・・・・玄徳殿・・・雲長殿・・・翼徳殿・・・孟起殿・・漢升殿・・・・・。」
亡き、主。
亡き、五虎将。
自然と、涙がこみ上げてきた。
ただ、慕った主の名を呟いただけなのに。
ただ、仲間の名を呟いただけなのに。
地に座り込む。
悔しいのか悲しいのか分からないが、とにかく涙が流れている。
もう私だけしかいない。
そしてまた、私自身の残された時も少ないだろう。
しかし、世はまだ三つに分かたれたままだった。
私がまだ若かった頃。
まるで目の敵のように追いかけていた曹魏の曹孟徳も、もはやこの世にはいない。
跡を継ぎ、皇帝となった息子もいない。
かつて戦場で相まみえた将達も皆先だった。
戦場で羨ましくも散った将や、無念のうちに病死した将。
私は・・・どうなるだろうか?
「・・武人たる者戦場で死ぬは本望。しかし・・・、」
皆が信じた大陸の統一というものを見ずに死にたくはない、最近はとくに思う。
かつて刃を交えた者達、狙うべき大将であった者達が信じた夢の果てを見ずに死ぬ事が、惜しい。
「・・・・幸か不幸か、私は老年になってまで槍を振るっています。しかし・・・・」
まだ、先は見えない。
まったく、彼らが生きていた時と変わらないのだ。
むしろ、戦さえなければ民に笑顔が戻るほどとなった。
黄巾の賊達が暴れ回った、あの凄惨な世を知るものはほどんどいない。
ああ、成都へ帰れば、一人だけ元黄巾賊がいるな。
「廖化殿・・・。」
時折話す昔話は、若き将達にとって羨望の的となる。
もう、昔話なのだ。
私たちが必死で生きて抜いてきた時代というのは・・・・。
「過去の話、か。」
諸葛亮殿の後継者である姜維殿は玄徳殿を知らない。
彼はまるで伝説のように語られる将達の話を知っていて、その子ども達にあって感激していた。
そして、私のことも。
「・・・五虎大将も、もはや彼方の話、か・・・。」
なんだか疲れがこみ上げてくる。
桜の木々のよく見える、側の巨木に寄りかかった。
とても心地よい。
暖かな太陽の光、頬を撫でる風は花の香を運んでくる。
大きく息をつくと、全身から力が抜けていくのが分かった。
『子龍・・・例え一人になっても・・・どうか最後を見極めてくれ・・・』
殿、私はもうすぐおそばへ参ります。
ああ、皆さん私のことを忘れてないでしょうか?
きっとじいさんになったと、笑うでしょうね。
戦場で死ぬのは本望、しかし、こうして光の中で果てるのもまた悪くない。
心穏やかで、静かで、暖かい。
私の死を彩るのは、きっと桜の花びらだろう。
それもまた、いいかもしれない。
「・・いいえ、私は許しませんよ、子龍・・・。」
心地よい、まるで今吹いている風が喋っているような声が言った。
ゆっくり目を開ければ、諸葛亮殿が、傍らで膝を突いていた。
その表情は、今にも泣いてしまうのかと思わせるほどだった。
「・・・今逝くなど、私は許しません。」
「・・孔明殿・・。」
いや、まだ逝く気はない。
「体は動くし、現にあなたの声で目が覚めましたから・・・。」
そう言えば、彼はいよいよ頭を垂れ、手にした羽扇で顔を隠す。
「私は・・まだここにいますよ、孔明殿。」
「あなたには・・・天下を見せたいのです。
もう、あの時のことを知るものはほとんどいませんから・・まして、殿のお側にいたあなただから・・・。」
「・・・私は天下を見るまで死ねませんよ。それが、亡き玄徳殿との約束でもあるのですから・・。」
そうだ、まだ死ねない。
もう少し、悲鳴を上げている体にむち打ってみよう。
若い頃は、それが当たり前の生活だったのだから。
「大丈夫・・・私はまだ現世(うつしよ)にいますよ。」
孔明の肩に手を置く。
やっと、彼は顔を上げ、言った。
「・・戻りましょう。じき、日も陰りましょうから・・・。」
「分かりました。」
立ち上がり、孔明が立つのを手伝う。
この細い男の肩に、蜀の行く末が全てのしかかっている。
あまり体の丈夫でないこの男は、ここ数年でとくに顔色が白かった。
「ありがとうございます・・・子龍殿。」
私は、歩き出した。
背中は曲がっていない。
とくに悪いところもない。
孔明を少しだけ助けながら歩く。
戦が始まれば、彼もまた自身の体に無理を言わせなければならないのだからそれまでは、
体を休ませてあげないと。
私は、まだもう少しだけ現世にいましょう。
少しでも天下が近づくように全ての力を出し切りましょう。
『・・・・子龍、』
「・・・・?」
ふと、呼ばれた気がして振り返った。
やや遠くなった山桜の木々の下に、懐かしいあの人達がいた。
けれど、すぐに舞い散る桜の花びらにかき消えてしまった。
「子龍殿?いかがいたしました?」
「・・・いえ、なんでもありません。ただ・・・」
「ただ?」
「呼ばれた気がしたのですよ、殿達に・・・。」
「え・・・?」
一瞬驚いた顔をするものの、彼は静かに微笑んだ。
「それは・・羨ましいことです。」
「私が死んだら、あなたの元にも現れましょう・・・。」
「それは遠慮しておきます。全てを終えれば、私はきっとすぐに気が抜けて死ぬでしょうから、
私が先に化けて出ます。」
「化けて出るのですか?」
「そうですよ、そのほうが、おもしろいでしょう?ぼさぼさの髪に人魂でも従えましょうか・・・?」
「確かに・・・。」
どこかひょうきんなところもあるこの天才軍師に笑顔が戻る。
「さあ、早く戻りましょう。みなが心配します。」
「では・・・失礼!」
私は孔明を抱き上げた。
頭の上から非難の声があがっているが構わない。
小走りに退屈そうに待っている愛馬の元へと、私は駆けた。
終劇