朝影と空悋気





 「左翼はこのまま上がれっ!右翼は迂回し、進行方向左舷より挟むのだ、ゆけぇ!!」

号令と采配が振られるや何千という騎馬が手足のごとく動き出す。

建業から離れた柴桑の原野における広大な演習風景だった。

呉の主孫権率いる紅い旗と傍らには都督の名をいずれは受け継ぐだろう若い新鋭、陸遜。

対する白い呉旗を掲げる大将は兄孫策、傍らには現都督呂蒙。

原野を見渡す崖には孫策と孫権の父親である、大殿孫堅率いる少数の武官と文官達が彼らの動きを見守っていた。

 「殿、城を空にして大丈夫でしょうか・・・。」

古参の将である黄蓋は心配そうにしている。

「大丈夫だ、周喩が切り盛りしているだろうからな。」

巧みに騎馬隊を動かす息子達を見下ろし、男は朗らかに言ってのけた。

いや、黄蓋の心配したところは「城に攻め込まれませんか?」ということだったと思われる。


 勝負は呉主孫権率いる紅だった。

敗因は、白の大将孫策が出過ぎ気質のため統制が乱れ、回り込んでいた騎馬隊から彼らの背後から現れ、取り囲まれたのだ。

 「もちろん実際の戦では奇襲のみにしか使えません。陣形が決められるからこそ突撃形態の相手に使えるのですよ!」

終了後、陸遜は頬笑んでいった。

「なるほどな・・・。私も少し鍛錬と兵法に時間を割くか・・・。」

「ご教授致しましょうか?」

「頼むぞ、陸遜。」


 孫権は兵法の大切さと策が発動したときの何とも言えない達成感が忘れられなくなり

建業へ帰ってきてからも一人で誰も来ない後宮のはずれの部屋へ閉じこもったり鍛錬場に一日中いたり、とにかくそれが楽しくてしょうがなかった。


 「おお幼平、」

ある昼下がりのこと。

執務室の孫権は入ってきた護衛に笑顔を向けた。

「なんだか久しいな。」

柴桑から帰ってきて以来夜の護衛でも彼らは話すことなどなかった。

むしろ周泰の方が遠慮して私室の外で任務に当たっていることが多かった。

護衛は何も言わなかった。

と、にぎやかな足音が聞こえてくる。

「殿〜、」

入ってきたのは凌統だった。

「おお公績!」

「鍛錬の時間ですけど一緒します?」

「来る頃だと思っていた。今書いているので最後だから、終わったら行こう!」

「待ってますよ〜。」

じゃ、と一礼して凌統は出て行った。


 「・・・・よし、これで最後だ。おおそうだ、周泰。」

「はっ・・。」

「兄上が呼んでいた。行ってくれるか?」

「御意。」

「ではな。」


呉帝はそう言って執務室を後にした。

いつもは護衛を付けるが、この日以来夜の護衛の任がある以外は行動を共にしなくなった。


 周泰は上の空だった。

何がどうというわけではない。

別に誰が悪いというわけでもない。

強いて言うなら自分のくだらない嫉妬だろうか。

いやこれは嫉妬なのだろうか?


 呉帝孫権とその忠実なる護衛周泰が恋仲というわけではない。

そう見えるほど親密な護衛とその主なわけだがそれ以上の関係ではなかったのだ。


 孫策の用事とは「最近お前達一緒にいねーけど何かあったのか?」という二人を案じたことだった。

しかし周泰としても「・・・・特には。」と答えることしかできない。

いつも通りに仕事をし、必要あれば同行し、なんら変わることもない。

ただ後宮にいる時間が長くなったことから共にいる時間は圧倒的に減ったと言えるだろう。

思い当たることはこれだけだ。

兄孫策としては後宮に誰か住まわせているのかと思えば父孫堅の夫人達と妹尚香がいるだけ。

女が理由ではなく、静かな空き部屋で兵法書を読んでいたりたまに尚香と手合わせしているのだそうだ。

「女でもないし喧嘩したわけでもない・・・・。こりゃあ先走りすぎたかぁ?」

気まずいずぇ〜と言いながら孫策は笑った。



確かに何があったというわけではない。

しかし周泰は気になった。

何故突然にも主は変わったのかを。



 周泰は孫策の前を辞すると鍛錬場へとやってきた。

広い施設を歩き、武舞台へと向かう。

にぎやかな声が聞こえてきた。

と、武舞台では甘寧が無双を発動したところで台から落ちたと思ったら側を歩いていた周泰と派手にぶつかった。

(・・・?)

考え事をしながら歩いていたせいか甘寧に気づかなかったどころかぶつかったこともよくわからなかった。

「わりぃ!」

甘寧があわててどくも周泰は「ああ。」というだけだった。


 武舞台の側では孫権が凌統と体術の訓練をしていた。

時折体術組が着ている武道服に身を包み、髪はただ結っただけという珍しい姿だ。

どうやら蹴り技でもやっているのだろう。

二人の足がぶつかるたびに防御時独特の火花が散っていた。

「おお幼平。」

孫権が足をおろした。

「隙ありっ!」

同時に凌統が吼え、足技を仕掛ける。

ハイキックだ。

しかし孫権はスッとしゃがみ、そのまま足を払って凌統を倒してしまった。

「いてて・・・・。」

頭を打ってうめく凌統。

「おお、すまんな反射的に・・・。」

「でもよかったじゃないですか、殿。強くなられましたよ!」

隣で見ていた陸遜が声をかける。

「上達なさいましたね!これなら戦場でも問題ないでしょう!」

「そうか?それは嬉しいな!」

笑いあう彼らの中にもちろん周泰は入ることなど出来ない。

多少の疎外感を感じながら周泰は場をこっそりと後にした。



 それからしばらくたった頃。

兵法書もあらかた読みあさり、剣技と言うよりは体術を身につけた孫権はふと廊下を行く足を止め、後ろを振り返った。

「・・幼平?」

いつもは後ろにいる周泰がいないのだ。

それより廊下は広く、天井もこんなにも高かったのだろうかと思う。


 そういえば周泰がいないなど何時からだろう。

いつも共にいるせいか、それとも当たり前すぎて気にかけなさすぎたのか。

「・・・。」

ともあれあまり自分に時間を割いている暇はない。

共に歩いていた文官達と軍議のために広間へと足を速めた。


 周泰は皖の地へ欠員が出たため補充が完了するまでの間、防衛軍の責任者として赴いているため建業には居なかった。

「・・・結構前にそう自分が採択したではないか。」

大都督であり軍務の責任者である周喩がそう言ったとはいえ、決めるのは自分だ。

孫権は自分にそう言い聞かせた。


 ところがひと月経っても周泰は帰らなかった。

揉めているわけでもないが後任の将軍が決まった直後怪我をして療養が必要となってしまったのだ。

不幸はまだ続く。

いつも何かと共にいた凌統や甘寧もまた小競り合いで建業には居ない。

呂蒙が都督として赴いていれば陸遜も必然的について行くこととなる。

「・・・・。」

公私共に親しい者の少ない軍議。

孫権は少しだけ寂しさを感じた。

こんなことは初めてではないにもかかわらず、孫権は寂しくなった。



 これが2週間続いた頃。

孫権は食が細くなったのと比例して忙殺されていたので倒れた。



 周泰が戻ったのはそれから3・4日たった夜だった。

明瞭な満月で実に明るい夜。

旅から帰った男は主が倒れたことを初めて知った。

帰路についてから主が倒れたためだ。

ひとまず旅の埃を落とし、主を見舞うことにした。



 「・・・殿が倒れられたのは・・・・」

「みなが出計らっておるからだろう?」

「ああ、若いもんはあらかたでておりましたなぁ。」

「・・・・・え?周将軍が戻られた?」

「ならば食が細いのも戻りましょうぞ。」

「昔からあの二人は仲が良かった故・・・」

「呉帝とはいえ、まだお若いですからな・・・・。」

「団結こそ最大の兵法ですな。」

「信頼こそ策の成就へと繋がりますのでなぁ。」


 ふと他の官僚達が話す声が聞こえてきた。

みなこの状況を微笑ましく思っているようだ。

最後の言葉は魯粛だった。



 周泰は身綺麗にした後、主の見舞いに行った。

ただ物を必要分食していなかっただけでとくに異常があるわけではないらしい。

今は静かに眠っていた。


 薄い水色の帳がおろされている。

明かりは部屋の隅にある四方のみが灯されていたが、今宵は月夜。

灯はいらなかった。


 「孫権様・・・。」

静かにささやく。

月明かりが水色の薄い帳を通して主を柔らかく照らしだしている。

周泰は側の椅子に腰掛け、主の顔にかかった髪をどかした。





『月の綺麗な夜貴方に会う為に来ました

忍ぶ私の想い

貴方に理解できるのでしょうか?


夢で逢いましょう

月天心で

月下美人の香りに酔いましょう

飽きるまで歌って

永遠に眠りましょう』





 戦乱の世だからだろうか。

周泰が歌う詩はいつも悲恋が多かった。

しかし孫権は子守歌のごとく彼の歌を好む。

性格には彼の声を好んだ。

安定した低音は丁寧に奏でられる。

安心できる声だ。

全てを覆い、守るかのようなのだ。

どこか苦しげに眠っていた孫権はようやっと安堵したのか穏やかな表情で眠ったようだった。



 朝。

周泰は主の声で目を覚ました。

「・・・幼平、幼平。」

周泰はゆっくりと目を開けた。

孫権の寝ていた寝台に突っ伏していたのだ。

あわてて体を起こす。

孫権も起きたばかりだった。

弱々しく頬笑む。

「・・・ずっと側にいたのか?」

「・・・・。」

「旅から戻ったばかりで?疲れているだろうに。」

「・・・はい。」

「ありがとう、幼平。」

周泰は思わず主を抱きしめた。

そして、力を込める。

孫権は大きく広い胸に抱かれ、父親に抱かれたような安堵感を覚えた。

「・・・歌っていただろ?」

「ええ。」

「夢うつつ、聞いた。苦しかったのが、安眠できた。幼平がいたらなって思っていたら、起きて、お前がいたので驚いたのだ。」

「・・・お許しください。」

「寝所にいることか?かまわん。お前ならいい。」

孫権もまた、周泰の背に腕を回す。

「・・・やっぱり、お前がいないとだめだな、私は。」

「・・・・孫権様、」

「ん?」

周泰は身を離し、主と額をくっつけた。

主は、苦笑しつつも頬笑んでいる。

青い目が、朝日に閃いた。

「・・・請容許接吻?」(口づけを許してください

「容許」(許そう)



 「・・・・長い遠回りでしたな。」

「なんの、孫呉の団結がかかっとるんだ、あのくらい手を引いてやらんとな。」

朝、様子を見に来た何人かの男女。

みな見た顔ばかりでしたが一番の功労者は魯粛だ。

「解って、ああいう言葉をかけましたからな。」

「これで権も自分に正直んなんだろーずぇ。」

「まったく、気づいていないのは本人達ばかりだったのね♪」

「男同士だが好きなのだからしょうがないだろう。魯粛、感謝する。」

「もったいないお言葉です、文台様。」


この日を境にまた主と護衛、といういつもの光景がどこでも見られるようになった。

たまに夜通しというのも、名目躍如。

二人はとても幸せだった。





−了−







朝影・・・恋してやせ細くなる様
空悋気・・・根拠のない嫉妬


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