斜陽 −子世代の話・5−








 暗愚と名高い皇帝を目にしたとき夏侯覇は自分の計画が打ち砕かれる音を聞いた。

年の割には幼く見える、常に袖の長い服を好んだこの男に蜀が収められるはずなどない。

傍らに控える丞相と名高い諸葛亮は、おそらく病だろう。

死の影が忍び寄っていた。

もうだめだ。

夏侯覇は思った。

魏ももはや司馬家の物となりつつある。

蜀は役に立たない。

呉へ赴いた方がよかっただろうか?しかし、いまは内乱していると聞く。

ぼんやりと、虚空を見つめたまま口上を述べると皇帝は席を後にした。

返答は、なかった。

代わりに諸葛亮が言った。

「貴方が蜀へ降るとは・・・。よほど、追いつめられているようですね。」

年齢不詳の千里眼は、そういった。

「もう、貴方の知る魏の皇室はなくなりました。あの・・覇気に満ちた将達のあふれていた栄華はありません。」

「・・貴方を見ていると、お父上達を思い出しますよ。敵であったとはいえ、その才はずば抜けたすばらしい将達ばかりでした。」

お互い討ち滅ぼしたい相手であるにもかかわらず、諸葛亮の、心からの賞賛は夏侯覇にもしっかりと伝わった。



 夏侯覇はその日の夜、家族とは別の部屋で一人酒を飲んでいた。

「家族の保証を考えれば、蜀へ来た方がやはり得策だったな・・・。」

魏に居た頃はみなびくびく脅えて暮らさなければならなかった。しかし、蜀に追ってはいない。

配下の兵士達を放っていないわけではない。しかし彼らもまた物騒な報告を持っては来なかった。


キィーっと小さく、乾いた金属音。


部屋の主は素早く、いつも腰に付けている腰弓を構えると矢を放った。

しかし矢は虚空を飛び、窓枠に刺さるだけ。

涼やかな声が聞こえた。

「夏侯淵の名は、貴方を通じて今でもとどろいていますよ・・仲権殿。」

「・・・・影か。」

夏侯覇は弓を収めると振り返り、後ろに置かれた衝立を睨んだ。

現れたのは、漆黒の衣服に身を包んだ馬岱だった。

「顔をさらすのは、初めてですね、仲権殿。」

「戦場では何度か見知った顔だな・・・馬岱とか?」

「はい。」

「なるほど・・あの錦馬超の従弟というわけか・・。」

見事な茶金の髪と、壮年にもかかわらず凛々しい顔立ち。

まさに好漢の偉丈夫だ。

「今宵は、劉陛下より伝言を預かって参りました。」

「・・・皇帝とな?」

「はい。」

あの幼い皇帝が一体自分に何を言うのか。くだらないことをいったら斬り捨ててやる、とも思った。

「もし、そなたが私を助けてくれるのなら、大陸統一した暁には魏の全権を任す。」

「!!!」

夏侯覇は卓に置かれた杯を割った。

「誰が言ったと?」

「陛下です。」

「・・・戯れ言が、慎め!!」

「お待ちください!!」

夏侯覇は剣を抜き、馬岱は間合いを空け何とか男を落ち着かせようとするが、男は殺気にまみれ、酒の勢いも相まって自制心がない。

一度気をいかせた方がいいと判断した馬岱は手刀に力を込める。

と、凛と通る声が二人を留めた。

「双方引くのだ!聞かぬなら私が相手をしよう!」

馬岱は真っ先に膝をついた。

夏侯覇も振り返る。

入り口に立っていたのは、皇帝だった。



 幼いながらに夏侯覇は先主劉玄徳を見知っていた。

しかし、彼以上に英知と強さを持った一国の主が目の前に立っていた。

髪は結い上げ、全て背の高い帽子に収められ横髪が静かに降りているだけ。

父親譲りの大きな耳と、おそらく母親だろう男にしては流麗な目をしていた。

今は、静かに月を背後に、立っている。

「・・・陛下・・・。」

「礼はおよばぬ。岱、顔を上げてくれ。」

馬岱は顔を上げた。

「馬岱に使いを頼んだのはいいがやはりそなたの性格が気になってな・・・来て良かった。」

「来てくれて良かった・・・私だけでは手荒なことになる。」

「そう思った。でも、私一人で来るわけにはいかないから、助かった。」

「陛下・・・。」

夏侯覇は唸るようにいった。

ぼんやりと、この二人に主従を超えた関係であることを悟る。

しゃべり方が、同等なのだ。

「もう一度言おう、仲権殿。私の手足となり、助けて欲しいのだ。」

「・・・・謁見の際の陛下は・・影ですか?」

おそるおそる訪ねる将に、皇帝は面食らった顔を向けた。

「まさか!いや、それだけ私の演技力が勝っているのか?あれも私だ。私は影を持たない。」

強く頬笑む笑みは、どこか伯父の将達を思わせる。

「諸葛亮は察しているが・・まぁあれは好きにさせている。父上の意をくんでいるからな。だが・・・、」

劉禅は手近の椅子に座る。

夏侯覇の、ポツポツと髭の生えた顔を見上げた。

「私の意をくんでくれる者達は・・もう馬岱しか居ないのだ。」

「・・・。」

「昔は関平と星彩という二人が居た。しかし関平はすでに亡く、我が后となった星彩もまたこの世にはない。」

少し前に星彩は劉禅の刺客と争い、そのときの傷が元で亡くなっていた。

劉禅は悲しげに目を伏せる。

「我らは諸葛亮とは別に動いている。今は兵部に私の味方は星彩の創り上げた特別部隊があるだけで今は副将が切り盛りしている。

しかしそれもそろそろ限界だ。その部隊を率いてほしい。」


悲しげな主を捨て置けようか。

夏侯覇の忠義心に灯がついた。

それ以来馬岱と夏侯覇は劉禅の影役となった。



それから行く年か。


 夏侯覇の屋敷へ忍んでやってきた劉禅は懐かしんでいた。

「・・いよいよ、北伐だな。」

「お側にいることが出来ず・・・申し訳ない。」

「かまわん。誰かが行かなければならんことだ。姜維を・・頼む。」

「はい、確かに。」

しばらく無言が続き、酒をゆっくり傾けるだけだったが劉禅がポツッと言った。

「私はね、仲権。一国の主として言ってはならんことと分かって言うのだが・・・・いいか?」

「はい、お構いなく。」

「・・・私は北伐をしても無駄だと思っている。諸葛亮が出した出師の表は確かに胸打つものであった。

しかし、諸葛亮達父上の世代が追い求めてきたものを、我らは追い続けることが出来なくなってきた。」

「と、申されますと・・・・。」

夏侯覇はおそるおそる訪ねた。

劉禅は悲しげに笑んだ。

「もう、時は斜陽。我らの時代は終わったのだ。歴史は決まりつつある。そうなったとき、私は最善の道を選ばなければならない。

最善の道とは、民が健やかに生きるための道だ。それを示すことこそ、帝位ある者の勤めだと思っている。」

「・・・・それでも私はこの身を賭けますよ、北伐で魏を倒すことを。」

「そうか・・それもいいな・・・。武人として、羨ましい。」

「・・・・。」

「無事に帰ってこい。我が望みは、それだけだ、仲権。」

「もったいないお言葉。」



北伐へ赴いた夏侯覇は、二度と生きて劉禅と話すことはなかった。





−終−