〔一秒でも長く〕



 「陸遜、殿の所へこれを届けてくれるか?」
「はい周都督。他はよろしいですか?」
「助かる。では、頼むぞ。」
「では、行ってきます。」

 木簡を3巻、腕に抱えた陸遜は静かな昼下がりを迎えている都督府をでて、渡り廊下を本殿へと歩き始めました。
日差しはやや強いものの、風は涼しくなかなかの日和です。
遠くから聞こえてくる見知った声がかけ声を放てば、「・・私も体を動かしたいですね。」とポツリ思うのでありました。


 本殿は主の部屋までやってくると衛兵に断りを入れ、応対した女官が中継ぎに消えます。
陸遜はかぶっていた帽子を外して彼女が戻るのを待ちました。
「・・・陸軍師、」
彼女はすぐ戻ってきました。
「あ、はい。」
「殿がお呼びで御座います。」
「この先へ?」
「面倒だから構わぬ、と。」
「・・そうですか。でしたら、仕方ないですね。」
今居る執務室より先は完全な私室だからそう易々と入ることはできない畏れ多いところ。
それが「めんどうだから」とあっさり入室を許可するとは、と陸遜は少し驚きます。
しかしまぁ、殿がそう仰るのであれば。
陸遜は心配そうにしている女官に微笑みを向けると、私室への扉を開けました。


 一番最初に陸遜の目へと飛び込んできたものは爽やかな青色でした。

穏やかな、そして空を思わせるような色合いは不思議な空間を作り上げ、庭へと開け放した扉から吹き込む風がふわりふわりとカーテンを揺らしています。
「・・・・・。」
陸遜は何度か瞬きし、あたりをゆっくり見回します。
しかし、部屋には誰もいません。
ここで初めて少年はすべき事を思い出し、腕に抱えた簡を持ち直すと再び外への扉が開け放たれているのを思い出しました。

 黒塗りの木枠からのぞく外はとても明るく、まるで一枚の絵を思わせるように「外」はあります。
 静かで、穏やかな風が吹き込み、ふらふらとそちらへ足を運べば見事な庭が広がるばかり。
 探していた人は出てすぐのところにいました。
 中の椅子を持ち出していて、うたた寝をしているようです。
 
(女官が許可を得たなら眠りは浅いはずです)
陸遜は思いますが、ともあれ気持ちよさそうに目を閉じている主を起こすのはしのびないことです。

 主は軒下に、平服で椅子に座ったまま眠っていました。
結い上げた髪が風に揺れるたび、きっとどんどん眠りが深くなっていくのだろうなと思います。

 少年は膝を折ってその場にしゃがむと、主を見上げました。
ちょっと母親に気づいて欲しくて、気づいてもらえるまで側で待っている子どものような気がします。
「殿・・・・。」
孫権は深く椅子に寄りかかって左を向いていました。
ですから陸遜は左側にいます。


とても静かで、葉が風でさざめく音しか聞こえません。
時折鳥が囀りながら飛んでいきますが、人が作り出す音は一切しない空間です。
太陽の下では橙色にも見える主の髪と、今は伏せられた蒼い瞳を陸遜は思います。
空の青が主の髪の色と似合うのだから、一層碧眼が映えるだろうと。
そして自分は何を思っているのだろう、と。
時折耳にする主・孫権の髪と目の色について揶揄する声と、それらに混じって絶賛する声は天と地ほどの差がある内容ばかり。
中でも一番興味深かったのは「光を閉じこめて宝玉のように光ることがある」と誰かが口にしていたこと。
見てみたいなぁと思っても今は無理。
そんなこんなで考えていると、いつのまにやら瞼はただ重くなるばかり。
少年は主の座る椅子の脚に寄りかかると簡を抱えたまま、眠ってしまいました。




 それから孫権が目覚めたのはすぐのことでした。
陸遜が来ているから起きなくてはと睡魔と格闘していたとき、ぱたりと気配が途絶えて不思議に思ったのです。
おかげで目は覚めましたが、今度は彼が眠る始末。
「・・・日よりは、最高だ。」
孫権は腕を思い切り伸ばしてのびをします。
「さて・・・。」
陸遜が椅子の脚に寄りかかるため、孫権は椅子から退くことができないことを察します。
冗談のようにひっくり返る彼をみても面白いかもしれませんが、そうまで童でもない歳です。
彼は正座をすると、少年をのぞき込みました。




 陸遜が目を閉じていたのはほんの数分間だけのことでした。
手にした木簡の感触が不意によみがえり、彼は慌てて目を開けたのです。


 そこには空とも違う蒼がありました。
白い光を沢山閉じこめて、閃く宝玉です。
それは二つあって、陸遜はただ漠然と「綺麗だな・・」と思いました。

 「気持ちよかったか?」
孫権は穏やかに、でも小声で尋ねました。
「はい・・。でも、御前で失礼を・・・。」
「かまわぬ。私も醜態をさらした。」
「そんな・・・。」
「だから、あいこなのだ。誰も知らぬ。」
「・・・・そうですね。」

年若い君主は微笑みます。
それと同時に、まるで万華鏡のように閃く主の瞳。
陸遜は、じぃっと動かなくなります。
「・・陸遜?」
不思議に思い、少し目を大きく開く主。
同時にまたくるりと光を変える瞳。
キラキラと白に、黄色に、青に閃く瞳はまるで自分を引き込もうとせんばかりにくるくると様相を変えます。

「殿・・・・・、」
「どうした?」

すこし掠れたような、まるで何かを秘めているような声がいいます。

「宝玉も、形無しですね・・・殿には。」
「そうか?」
「この瞳があればどのような人間でも、惑わすことができるでしょう。」
「ふふふ、言うではないか。・・・そうだな、女であれば、もっと使えただろうな。」
「殿であればこそ・・・。」
「殺し文句をそなたのような若い者から聞けるなど・・・・捨てた物ではないか?」

孫権は苦笑します。


二人の顔はすぐ側にあって、



だから、
陸遜は、



思わず唇を寄せてしまったのです。



主であり、
年上であり、
本人の負い目的には髭も生えているという男に、
少年は魅入られてしまったのです。


それは蒼くて、
くるくると、
まるで少年を誘うように閃く瞳に、

囚われた瞬間でもありました。







−了−