「・・・転がり込んだだけの成り上がりが・・・!」

 「まぁまぁ落ち着かれよ、仮にも相手は呉王ですぞ?」

 「ふん、同じ王ならばいっそ魏にでもゆこうか。」

 「この国もどうなるか解りませんし・・何を言っても聞きませんからなぁ。」






 長き道を






 流れてくる会話に陸遜は「これは立ち聞きではありません、断じて!」と心の中で言い聞かせながら柱の影で男達が去るのを待っていました。

 陸遜は呉王に呼ばれていて、先にいる男達は謁見をすませた、それなりの位を持つ男達。

 王の名を冠する者の陰口を叩くなど!と言って出たいと思うものの、自分こそまだ軍師見習いとして都督府を出入りする若輩者。

 腹立たしく思いつつ、すこし悲しく思い、男達が行ってしまった後を急いで執務室へと向かいます。

  陸遜にとって、二度目の来訪。

 この前と同じ女中が中継ぎをして、入れば簡に筆を走らせる王がいました。

 相変わらず、中庭への扉は開け放たれていて風にカーテンが少しだけ揺れています。

 外だけが明るくて、だから異様に暗く感じる室内。

 他がなにも変わらなく穏やかすぎてきっちりと髪を結い上げ、堅苦しい官服に身を包んだ青年だけが時を刻んでいる気さえ、陸遜はします。


 「陸伯言、お召しにより参上いたしました。」

 供手し、両膝をつきます。

 「うむ・・・・・・。」

 それからやや間があって、王は筆を置きました。

 「・・・・来たか、伯言。」

  それから卓を挟んで呉王は陸遜に色々なことを言いました。

 それはとても穏やかで、いつも大広間で張り上げる甲高い声とは違い非常に落ち着いた低い声で。

 声だけではなくしゃべり方も、物腰すら丁寧で、細かい。

 「陸遜、すまぬが、ちと采配を頼みたい。」

 「えっ?しかし・・それは周都督が・・・。」

 「私はお前の采配が見たいのだ。」

 「ですが都督府には他にも軍師達がおります!私のような一番年かさの低い物が・・・」

 「何を言う。」

 孫権は、卓を叩いた。
 
 「お前はその歳で陸家の当主として、都督府付きの軍師としてこの国のために尽くして居るではないか。何を言っておる!」

 「も、申し訳ございませんっ!!」

 陸遜は平身低頭し、怒りを買ってしまったとばかりに身を縮めます。

 「・・・そのように歳を気にするな。私とて、若輩者だ。」

 「・・殿・・。」

 少年は恐る恐る顔を上げます。

 王の声は少し寂しげで、それでも陸遜は頭を完全には上げられずにいます。

 「よいか、伯言。」

 王は髪に、王たる事を表す豪華な冠を手に掛けました。

 「私とて、こんな物を外してしまえば・・・・。」

 それはとても小さい物ですが豪奢な細工と、赤い石が目立つ、どこからみても呉主であることを知らしめることができるものです。

 孫権はそれをそのまま引っ張って、冠を外してしまったのです。

 「殿、いけませんっ!」

 頭を完全に見せることは疎まれるべき事。

 しかしこの国の民とは違う、赤毛がばさっと落ちる様を陸遜は美しいとさえ思ってしまったのです。

 逆光で深い緑色に変わっている瞳は、陸遜を見つめたまま。
 
 孫権は立ち上がると、輪の形をした冠を少年の頭の上へ置きました。

 「ほら、こうすればお前が呉主だ。」

 「わわっ!」

 慌てて冠を頭から取りあげます。

 「し、しかしこれは・・・!」

 「解っておるよ、解っている。」

 孫権は陸遜の手から冠を取ると無造作に卓へ起きました。

 カチャン!と乾いた音が「壊れなかっただろうか」と陸遜を心配させます。

 「・・・よく聞いて欲しい。」

 孫権は、まるで内緒話をするかのように声を潜めました。

 ふわりと陸遜の眼前にしゃがみこみ、膝を立てて座ります。

 「お前は若いと言ったな?そして、私もまた若い。とすれば、他の物は皆年かさだ。我らが相応の歳となったとき、誰もおらぬようでは困るのだ。」

 「・・・・確かに、その、仰る通りでございます。」

 「な?私はお前と共に、育ってゆかねばなるまい。今は若輩者の成り上がりであってもこの呉を納める主だ。

 それは私を揶揄する者達が死んでも変わらない。私は、育って行かねばならぬ。

 しかし、その間に今知っている者達は死んでしまう。其れでは困るのだ。私が絶大の信頼を持つことができる将は、そういない。」

 「・・・・・・私を、おそばに?」

 「さすがに、察しが良いな。」

 孫権は満面の笑みを浮かべます。

 「それにな・・・伯言、」

 「はい。」

 その時、孫権の碧眼がキラリと光を閉じこめました。

 「・・・・お前は、もう囚われているのだろ?」

 そして誘うかのように澄み切った、そしてとても濃密な碧に変わります。

 「殿・・・・。」

 「お前は、私を裏切ることはない。私は、己を揶揄する者達を絶対許さん・・・。許すわけにはいかぬのだ・・・それは信じてくれている者達を裏切ることとなろう。」

 秘められた言葉。

 顔を寄せて話す様は、隠れて睦言を囁くよう。

 ゆっくりと、知らしめるように、染み渡らせるように孫権は怪しく言葉を紡ぎます。

 「なぁ、伯言。お前は違うよな・・・?お前は私を助けてくれる。私のために、これから育たなければならない。

 都督府でありとあらゆる事を学び、盗まなければならない、死ぬまで私を助けるために・・・・。なぁ?」

 肩に掛かる、主の手。

 口角を上げ、笑むそのすがた。

 外は明るいというのに、なんだか暗くて。

 風が心地よいはずなのに空気は濃密で。

 頭の芯がしびれるほど。



 とうの昔に、痺れたままだろうと。

 あのとき、主の瞳に魅せられたまま。

 瘴気に当てられた頭は、もう、まともに動かない。



 「仰るとおりです、殿。」

 このとき、顔は触れ合わんばかりの近さ。

 陸遜は、まるで孫権ではなく、その瞳に何かを誓うように囁きます。

 これは、誰にも知られてはいけない秘め事。

 「この陸伯言は・・・殿の御為に、存在しているのです。私の死活は、貴方様の手の中・・・・。」

 少年は、主の頬に手を掛けました。

 この宝玉を守るのは、自分。

 「まずは、満足。・・・・もっと、私を満たしてみせよ。」

 そのまま始まる、互いを食らいつくさんとするほどの口づけ。

 それでもいつのまにか手を堅く繋いだままの、若き主従。

 離さないで欲しいと、もう誰もいなくなってしまったと嘆かないで欲しいと。

 陸遜は、ただそれだけを思った。