見下ろすのは野営地。

いる場所は林の切れ目から少し歩いた草原。

崖っぷちから見知った顔を何となく目で追う。

飽きればその場に座り、星空を見上げた。



喧騒は届かず静かだ。

馬超は兜を外した。

夜風がとても心地よい。







−別れの詩−







サクッと草を踏みしめる音がする。

「馬岱か・・・。」

「はい。」

「どうした?」

「・・・・・お客人をお連れしました。私は、下がりましょう。」

振り返る間もなく従弟の気配は消える。

同時に大きな存在感を感じで林の方を向けば、一人の男が立っていた。


「いかがお過ごしかな・・・馬超殿。」


鷹のごとき鋭い瞳が閃く。

同じ西涼を故郷とするホウ令明だった。

「・・・・変わることなど何もない。久しぶりだな、令明殿。」

「なに、家の厄介事が片づきましたので・・・・・。」

「・・・・・行くのか?」

馬超はただそれだけを問うた。

令明は少し驚いた顔をし、馬超は困ったように片眉を下げて笑んだ。

「知っている。」

「・・・貴公は、これからいかがされるか?」

「俺か・・・俺は・・・何をするのだろうな・・・・。何がしたいのかもわからん。」

「蜀へ降ったと・・・聞き存じてますが?」

「・・・・そなたこそ、行くのだろう?」

「・・・・。」

馬超は自分の身の上を明瞭にはしなかった。

ただ、どこか晴れた顔をしていたのも事実であり令明は訝しんだ。

「何か、ございましたかな・・・・?」

「いや・・・・・、」

馬超は満天の星空を見上げた。

風がそよぎ、馬超の霞んだ茶金髪を揺らす。

キン−・・・・シャラン・・・・・と、微かに耳飾りの鳴る音がした。

元は誰の物かも知れない、明らかに女物の小さな金の耳飾りを彼はいつも着けていた。

「・・・・俺の首が欲しいだろう、ホウ徳殿。」

「・・・・・。」

とたん馬超の視界が鋭く揺れた。

令明が馬超の首を掴んで自分の方に向けたのだ。

「ぐ・・・っ」

馬超は、思わず苦しさのあまり呻いた。

「貴公の首を持っていけば・・・曹操殿はさぞ喜ばれるでしょうなぁ。」

耳元で、囁くように言う。

殺気まみれの手は、容赦なく馬超の首を絞めた。

苦しさにわななき、耳飾りが揺れ高い音が鳴り響く。

苦悶にゆがむ馴染みの顔は、あまりいいものではなかった。

ふっと手がゆるむ。

馬超はその場に崩れ落ちた。

倒れ込み、精一杯呼吸をする。

影が揺らいだ。

馬超を見下すように立っていたホウ徳の首には、細い剣が宛われている。

「手を離して正解ですよ。後少し遅ければ、俺はお前を殺した。」

馬岱だ。

「馬岱殿・・・・やはり影は貴公か。」

「知ったところで、死に行く者には無用の話。」

令明に冷や汗が一筋。

この若者は間違いなく自分を殺すだろうと腹を決める。

そのとき、細い声が言った。

「よせ・・・岱。もういいんだ・・・・俺が悪い・・・・・。」

「従兄上・・・・。」

「外して・・・くれるか?」

馬岱の刃を持つ手が降りる。

「・・・・・・・・・・いいでしょう。」

馬岱は冷たく言った。

そしてぷっつりと気配は消えた。



 馬超はホウ徳から少し離れると再び空を見上げた。

そしてそのままパタリと倒れた。

令明も少し距離を置いて座る。

「俺の首はヤツにとっていい手見上げとなろう。まして、己を信じて貰うにはちょうど良い。違うか?」

「・・・。」

「無理に答えなくとも良い。家族ある身、安全は大切だ。・・・気持ちはよくわかる。守りきりたいものだ・・・・。」

馬超は小さく息をついた。

「首が欲しいか・・・。やれんな。」

ザワリと、風が起つ。

「家族を失おうと、国を追われようと俺は今生きている。死んだ者達は俺の死を望まないだろう。曹操を倒すまではっ!」

ヒュワッ!と闘気が一瞬沸き立った。

令明は反射的に身構える。

しかしすぐ静かになった。

「・・・色々、助けていただいたな。・・・・ありがたかった。」

馬超は令明の方を向いた。

大きな瞳が悲しげに壮年の男を見ている。

その様子は実年齢より幼く見せた。



 馬超は再び空を見上げた。

しばらく無言の時間が過ぎる。



 令明はかぶっていた兜を外して傍らに置いた。

そして馬超の顔をそっとのぞき込んだ。

馬超の目はうつろだった。

令明の顔を通り越し、空を見上げたままだ。

光のこもらない曇った眼はいったい何を見ているのだろう。

何を考えているのだろう。

これがあの錦馬超か?

このふぬけた青年が?

このまま先ほどの如く手に殺気を込めてもおそらくは抵抗しないだろう。

これほどまでに追い込んだのは、自分か?

令明は思う。

罪の意識は元より無いが、ほんの少し良心が痛んだ。

弱い彼を知っているからだろうか?

彼が日頃何を考え、どれほどまでに家族を、故郷を愛しているか知っているからか?

自分も故郷を愛してはいる。

しかし今は乱世と割り切れるのだから彼ほどではないのかもしれない。



「・・・・西涼へ、帰りたいですか?」

令明はそっと問うた。

「・・・帰れるものならな。」

馬超は囁くような小さい声で答えた。

「あの広い大地をまた仲間と共に駆けてみたい。あの、天山南路を・・・雪解けの河を伝いながら・・・・美しい湖も・・・・

多種多様の国や人々も・・・・。ここにいては、一生あの自由な空の下へは戻れないだろう・・・。」

馬超は目を閉じた。

「父に連れられ、様々なところへ行った。俺もゆくゆくは西へ西へと行きたかった・・・・・。この国は、狭く、寂しい。」

「・・・・。」

令明はもはや何も言わなかった。

ただ目を開けた馬超の額にそっと口づけをした。

「・・・行かれよ。俺は蜀将だ。これ以上居れば、劉備殿の為にそなたを殺そう。」

「できますかな?」

「既知の仲だ。俺の手で殺したい。」

馬超の、男の割には白く、長い指が令明の髭をなぞる。

「だから、俺の首を望むのだろう?戦場で、引きつった顔の首を見たくないから・・・・。」

「・・・・。」

「綺麗に死ぬことなど、武人としてできぬ。」

馬超は手を下ろした。

「馬超殿、」

「なんだ?」

「それがしは、貴公と道を違えて後悔はしておりません。こういう運命だったのでしょう。」

「俺もそう思う。」

「・・・・次に相まみえるのは、戦場ですな。」

「そう望みたいな。・・・あなたには、負けない。」

馬超は細く笑んだ。

「・・・・別れの口づけを望まれますか?」

「それもいいだろう。・・・この国にはない文化だ。」

馬超は半身を起こした。

令明が口づける間、再び消える親しい者のぬくもりを噛み締めた。



 色を帯びた顔が悲しく頬笑む。

声にならない声は、確かに−永別−とそういった。

令明は軽く会釈をし、兜を被ると何も言わずに歩き出した。

しばらく歩いたところで、馬超は去りゆく背中に向かって声を張り上げる。

「魏将だ!ひっ捕らえよぉっ!!!!」

その声は凛とした大音声だった。

ガサリと大きな葉擦れの音と共に兵士が現れる。

令明は少し面食らった顔を馬超に向けた。

彼はいつもと変わらぬ、強気な笑みを浮かべている。

令明は走り出した。

そして、高い口笛を何度か吹き馬を呼ぶ。

そのころには馬超の視界から消えていた。



 「・・・・・岱、」

「はい、従兄上。」

馬超が虚空に向かって従弟を呼ぶと彼は姿を現した。

「令明殿は魏陣営への帰路につかれましたよ。あれでよかったのですか?」

「俺らしいだろ?」

「・・・・情が移りますか。」

「交わしたからな、何度か、お互いに・・・・・。」

馬岱は馬超の隣に座った。

膝に顎を乗せて言う。

「私はね、従兄上。令明殿が、従兄上を助けてくれたらって思っていたんですよ。彼は強いし、信用に足る。

だから、ずっと軍にいてくれたらって、思っていたのです。」

「漢中戦を悔いてはならん。・・・・俺は後悔していない。」

「従兄上・・・・そいうい台詞は、」

馬岱は馬超の頬に触れた。

涙が、伝わる。

「・・・・こういうときに言うものじゃないですよ?」

「・・・岱、」

「なんですかー従兄上。」

馬超は馬岱を思いっきり抱きしめた。

苦しいくらいだ。

「・・・・お前はずっと俺の側にいるよな?」

「当たり前ですよ、令明殿と違って従兄上しかいないんですからね。」

「もう・・親しい者を・・愛する人を失いたくない・・・。」

「大丈夫ですよ、従兄上。それに・・・・・」

「なんだ?」

「私がいなくなったらだれが従兄上の面倒をみるんですか?まったく。」

馬岱は馬超の背を撫でた。

馬超はしばらく馬岱を離さなかった。



令明は一人林の中を魏陣営へ向かって馬を走らせていた。

その表情は、どこかに何かを引っかけたままという苦々しさを抱えたままだった。



−了−