自分の家の庭と思っていた成都、本城の屋根。

軽業を教えてくれたのは、今はなき丞相の密偵、西涼の馬岱。

彼の従兄弟、今でも名高い「錦馬超」と同じ褪せた茶髪に思いの外白い肌と切れ長の目、

蜜のような色の瞳を持った男で、彼は言うなれば表だって動く馬家の影役だったそうだ。

その技を買われ、従兄弟が五虎将に数えられていれば彼は人知れず丞相の密偵となった。

 蜀に降り、真っ先に彼と親しくなった。

お互い同じ長を持つのだ、自然とそうなる。

そして馬岱は初めて私をみてこういったのだ。

「・・技を覚えてみませんか?貴方には、素質がある。」







−幕を
ろす者−








 「・・・伯約殿、」

「鍾士季殿、これはこのようなところへ。」

「軟禁の割には良い暮らしをしてそうだな。」

「敗将の私にどのようなご用件でしょうか。」 「突っかかるな・・。」

鍾士季は将でありながら武装していないで平服姿で前触れもなく現れた。

 彼は魏から蜀へ攻めてきていた将の一人だが、同じく魏将であるケ艾に出し抜かれ、蜀一番乗りを果たせないでいたが、そのかわり蜀将姜伯約を捕らえていた。

彼はかの有名な諸葛孔明の跡継ぎでもあり、十分利用価値はある。

鍾士季は成都の側にある城に身を潜め、機会をうかがっていた。

 「・・・まだ成都は陥落していないぞ?」

舐めるような口調だった。

不快だったが伯約は刺すように答えた。

「何が望みだ。」

「惜しい人材が多い。我ら魏国もこの蜀領を治める上で彼らが必要だ、民にも慕われている。」

「・・・・本心を言っておらぬようだな。」

 年の割には随分若くみえる、と鐘会は元魏将であもる伯約を初めてよくみる。

一切光のない瞳。

ほどけた髪は白髪と黒髪が混じり灰色をしている。

もう老年もいいとこだがこの男は歳を食ってないのかと思わせるほど異様に若くみえる。

そしてかの高名な諸葛孔明の後継者。

どこまでその奇術を受け継いでるかは知れないが、その力を操ることができたら己の野心成就に相当近づくこととなるだろう、この若さを保つ術の事も。

「本心?私は魏より蜀を落としに来た武将にすぎん。ただ、司馬王より言いつかっておるのだ、

蜀の民を纏めるためには蜀の役人共をそのまま登用したほうが治めやすく民も豊かになる、と。戦乱が終わるのだ、平穏は、取り戻さねばなるまい?」

一理あるが、この男の口から民への思いやりがでるとは何処かおぞましい、と伯約は思う。





「・・・成都へ帰りたいか?」



甘い、誘い。



「私と共に。」



もう一度、死ぬ前に。



「“蜀”へ。」



あれは、あそこは丞相達が亡き先帝の為に守り続けたところ。

先帝の悲願を達成するために、生きていたところ。



「・・・・・・った。」

「ん?」

「みんな、死んでしまった。」



姜維伯約はそのまま倒れた。



 妻子を殺したのはまずかったかもしれない。

鍾士季は思った。

彼らが蜀にいればこの男は簡単に己の手足となって動いたかも知れない。

しかし、まぁ殺してしまったのはしょうがない。

それより先に成都入りしたケ艾をどうにかしなければならないし本国への報告も準備しておかなければならない。

「手っ取り早いのは・・・謀反。」

竹巻に筆を滑らすその手は早かった。



 伯約が目を覚ましたとき、開けっ放しの窓からみえる月がまず視界に入った。

むしろ窓辺で倒れていたので月と窓枠以外は視野にない。

彼は敗走し、本陣へ戻る途中で捕らえられ、どこだか解らない城の一室に押し込められていた。

部屋は自由に使っているが外には兵士がうようよしている。

この窓の向こうにも、自力だけではとうてい無理だった、まして武器もない。

いや、綿竹まで逃げられればこっちのものだ。

まだ、配下の将達は生きているだろう。



 「・・私はどうすべきなのでしょうか、丞相・・・・。」

誰にともなく、問いかける。

「もう、誰もいなくなりました。あのころを懐かしむことしかできません・・・。成都の皆はどうしているでしょうか?皇帝は・・耐えているのでしょうか。

もう・・・蜀漢という国も時間の問題です・・・私は、丞相との誓いを守れそうにありません。」



月だけが、答えの変わりに過去を見せた。

 『全ては劉玄徳殿のお志のため・・・漢室を復興させるためなのですよ。・・献帝からの血は途絶えてしまった今、もうあの方が最後の要だったのです。』

『徳の将軍と私は聞き及んでおります、どのようなお方だったのですか?』

『あの方は・・とにかく人と同じ目線で物事を見るお方でした。

位が上がっても他の将と同じ高さの席に座り、同じ物を食し、時には親睦を深めるために同衾もしておられました。

・・・将一人一人に自分というものを解って貰うため、また自分も相手を知るために、ね。寝首をかかれても知りませんよと何度か嗜めた事があります。』

『では丞相も?』

『ええ・・・懐かしいですね。私が亡き殿に召し抱えられてまもなく・・・貴方くらいの歳でしたか。腹を割って話したり酒を飲んだり・・・。

他人と目線を同じにできる人で自分の立場を鼻に掛けず、むしろ遜ったお方で何よりも相手を思い、仁と義に反することのできないお方でした。

ただ・・・、そうですね・・・・。』

『・・・・丞相?』

『あの方は民の平安を取り戻すため、衰退しつつある漢王朝を復興させるために剣を振るっておりましたが逆に民の平安を乱す者、

自分の命を危ぶませる者には容赦のないお方でした。』

『先帝はお強かったのですか?』

『ええ。・・・これは私も実際に見たことはありませんので何ともいえませんが、先帝が若き頃県令を務めていたとき

督郵が自分を狙っていると危険を感じ先に手を出したと聞いています。

・・・実際先帝の害になったかどうか定かではありませんが、縛り付け、鞭で血にまみれるまで叩き続けたそうです。』

『・・・・。』

『またその仁を浮かべた優しい顔を策の成就に使う武器ともするしたたかな一面も持っておいででした。

それにお若かった頃より先帝は大抵前線にいたのです。

将の数が少なかったという理由もありますが、それ以前に先帝の武術は目を見張るものがあったのです。』

『とてもお強かったのですね。』

『ええ。先帝の義弟君、関雲長殿と張翼徳殿は長柄の武器を使われましたが剣の腕となると先帝には及ばなかったそうです。

・・・とても素早い剣技を、私も見たことがあります。』

『丞相・・、』

『はい?』

『なんだか、お顔の色が・・・。』

『ああ、大丈夫ですよ、伯約。あの方は、表の仁君も裏の猛将も、どちらの顔も素であったのですよ。

戦に出れば、全身を真っ赤に染め、場合によっては敵将の首級を持ち帰るほどでした。

なぜそれほどまでの武勇があまり知られていないのかというと、二人の義弟が隠したからです。

先帝の武勇が霞むほどの武勇をたて、義兄の勇士をひた隠す。それほど、先帝は戦神のような戦い方を・・・・していたのですよ。』

『・・・お会いしたかったな・・。』

『伯約・・・。』

『ですが、公子方や将軍方を見ていると何となく思い浮かべることができますね。』

『ええ。彼らは強く父親の血を引いていますからね・・・。』

『・・・・・。』

『伯約、』

『はい、丞相。』

『私亡き後、貴方はどうしますか?』

『・・・・丞相亡き後は、内政に務めます。官職を怠れば全て民へ負担がかかります。それだけは避けなければ成りません。』

『それは漢が再興した場合ですね。・・・では、三国のまま国があった場合、貴方はどうしますか?』

『丞相の御遺志を、亡き先帝方の夢を継ぎます!』

『・・・伯約、』

『はい、丞相。』

『すいません・・・私一人の力では間に合いませんでした。・・・貴方に・・幕引きを頼まなくてはなりません。』

『それはどういう・・・、』

『誰もいなくなった後、一人貴方は残り最期まで行く末を見なくてはなりません、それは黄泉で私と再会したときに報告してください。』

『・・・丞相。』

『私はね、伯約・・・三国に割って、あることを成したかったのですよ。未だ若き頃、月英と結婚した頃のことです。まだどこの国にも属しておらず、

自分が世の天才だと思っていた頃、今でも変わらないですが、ね。』

『・・・・・』

『さぁ、風が冷たくなってきました。・・・行きましょう。』

『丞相、』

『はい?』

『・・・私は幕を引くべきなのでしょうか?』

『・・・・・・・聡い子ですね。さすが、私が見込んだだけの子です。』

『丞相!』

『・・・それは貴方が決めるのです。その時に直面してから。いいですか?』

『・・・・・分かりました。』





 目が覚めた。

月はなかった。

ゆっくりを体を起こし、夢に見た過去を反芻する。

伯約はほどけた灰色の髪を結った。

鏡を見て、若い自分と重なる。

「・・・あまり年を取っているようにはみえんな。」

肌に多少疲れとしわが見えるものの、60を数えるようにはとても見えない。

髪も、昔の半分だがまだ長かった。

 彼は鏡台の裏、鏡を固定する板を外した。

そこには一本の短刀が隠されていた。

来たばかりの時、兵士から咄嗟に抜き取り、隠したのだ。

「丞相、私はもう一度やります。それでだめなら・・貴方の望みを叶えましょう。」

目を閉じ、少し自分の腕を切りつけ流れる血に誓う。

「・・・三国を、共倒れにさせます。・・・いいのですね?丞相・・・。」

鏡に映った自分の隣に、丞相がいるように思える。

伯約は鐘士季を呼び、策を献じた。

それはケ艾を追いつめ成都へ共に行こうということ。

鍾士季は彼の能力と将、伯約は彼を利用した蜀漢の復興と、もしくは三国を共倒れにさせるために策を興じたのだ。



 「・・・帰ってきました、丞相・・。」

成都城の屋根に漆黒の影が一つ。

よくこの屋根で馬岱殿と鍛錬をしたり、話すでもなく話したりしたものだと思い出す。

城下は賑やかで、城内ですら、時折楽しげな声が聞こえてきたものだ。

武官も文官もみなうち解けていて、丞相は誰からも慕われていた。

「さぁ、まずは将を集めないと!」

綿竹の隠し幕舎ならそう簡単に見つかるまい。

ここにいない者は、おそらくそこへ避難しているはずだ。

「・・・丞相、私は・・・・最期の番人だったのですね・・・。」

か細い呟きは、ただ風に乗って夜空に舞い上がった。

彼自身も、屋根から姿を消した。



『貴方しか私の後継者には・・なれないのですよ。』



風が、伯約の呟きに答えた。





 それから蜀漢はまもなく滅びた。

皇帝・劉禅の降伏によって。

蜀漢最期の将達はみな幾たびかの対魏戦で戦死した。

最期まで蜀漢の復興を願っていたが魏の圧倒的な国力とあっけない君主の降伏でそれは敵わなかった。

 姜維伯約はどうして死んだのかよく分かっていない。

殺されたとも、自刃したとも伝えられている。

そして残された遺体は住んでいた土地のものによって静かに埋葬された。

敵方に裂かれた死体の腹には普通の何倍もある肝があり、まさに全身肝だったのだ。



 しばらく経って内乱が起き、魏も滅びた。

内乱の火種は生前、伯約が魏国へ不和の種を蒔いていたものが発芽したためだった。

すでにかの国は曹族のものではなく、司馬一族のものに乗っ取られつつありその先を見定めることなど彼には簡単なこと。

やがてかの不和は的確に発芽し、司馬家を絡め取ってゆく。

乗っ取った司馬の長、司馬仲達は乱世を征してはいた。

しかし美しく花開いた不和の種はやがて絡めた司馬をゆっくりと飲み込んでいったのだ。

すなわち、滅んだ。

大陸は後の隋を経て唐となるまでは、数百年に渡り栄華を期した漢王朝のように安定した世を取り戻すことはできなかった。



戦乱の世は、続く。











−終−