− 月華 −
夜半。
月が出ていた。
その人は身軽な格好で、けども鎧を脱ぐことはない姿で歩いていた。
間道は一本道であってもこの寂しい道を、閉鎖口の駐屯場所まで歩くのが日課だった。
いつ何時誰ぞ敵方と出会うかはわからないが、相棒である蜻蛉切りを手に警邏をしなければ落ち着かない。
まだにらみ合っているだけだ。
このままでいけばにらみ合いで終わるか、遅かれ早かれ影が大将の首を狩るか。
明るい夜で、道の両側は田が広がる。
高いものは何もなく、真ん中にぽっかりと月が浮かぶだけ。
酷く明るい。
雲もない空であった。
もうすぐ中間地点だ。
そのあたりから右手には林が広がり始める。
ここが一番の難所で、敵方が隠れるとしたらここ一カ所だ。
少しあたりの気配を探る。
今日も今日とてただ木々のざわめく音と梟の鳴く声がするだけ。
左手は延々広がる田園地帯だから警戒するのは右手側のみ。
少し歩いて、林の中で何かが動いた気がした。
「・・・・・・あやつ!」
小さく、厳しい声がうなる。
小走りで林の中へ入れば木立の影がハッキリと見え、若い白樺はぼんやりと白く見える。
木々は密集していないが乾いた葉を踏む足音だけは消すことができない。
敢えて荒々しい足音で近づいてやる。
敵方なら先に向かってくるはずだ。
一撃目を避ければ倒すことは容易。
しかし相手は敵の人間ではないだろう。
奥まった場所、少し開けたブナの木の下にその人はいた。
「正成、」
「平八郎か。」
振り返れば、酷い返り血にまみれていた。
鬱陶しそうに血を吸った頭巾と額当てを外して、服部半蔵は髪を解いた。
髪も血がこびりついて、見ているだけでバリバリ音がしそうなほどだ。
「・・・明日には、帰路に付けよう。」
通る声が、夜の林に響く。
響くが、大きいというわけではない、その前に立つ忠勝にだけよく聞こえていた。
表向きにはにらみ合いで終わるか、と忠勝は蜻蛉切りをその場に突き刺した。
「正成、」
「なんだ。」
「脱げ。」
「・・・・ここでか?」
不審そうに眉をひっつめる半蔵に、懐から忠勝は色々と取り出した。
清潔な布や軟膏の入った薬壷、腰に下げていた竹筒は二本。
水と、酒だ。
半蔵は「はー」と、脱力したようなため息をつく。
「怪我などしておらぬ。」
「ほう?笑いを狙っておるのか?・・・笑えぬわ。」
忠勝は地面を強く、重く蹴った。
意外な反応に半蔵が一歩遅れるがそこは伊賀忍びの頭領、半歩だけ横へずれた。
「ぬるい!」
忠勝は最初から半蔵の足を薙ぐつもりでかなり低く腰を構えていた。
そのまま半蔵の足を引っかけ倒す。
「まずいっ!」
半蔵は背中から落ちる我が身をどう受けようか一瞬のうちに計算する。
しかし木の根があって、手を突いては最悪の場合捻挫してしまう。
いつもであれば背で受けてそのまま木の上へと飛び去るが・・・・・。
考えている間に自分の体は止まっていた。
穏やかな声が降ってきた。
「・・・こんな背で受けたら暫く床に伏せるようになるぞ!まったく・・・・。」
上目遣いに見上げれば、忠勝の顔があった。
幼い稲姫をしかるときにみた、父親の顔だった。
「・・なぜ拙者が怒られねばならぬ・・・。」
むう、と半蔵がうなる。
「お主は稲と同じかっ?まったく・・・。あれも怪我をしてしてない、と意地を張る娘であったわ。」
「・・・滅。」
忠勝は半蔵をその場に座らせた。
「ほら、脱がぬか。」
後ろにいるのだから半蔵がどんな顔をしているかは知れない。
しかしどこをどうやったのか。
半蔵の鎧はバラッと落ちた。
その下には、黒い袖のない襦袢の上に鎖帷子を着た姿がある。
ただ左の肩胛骨あたりは無惨に斬られていた。
「・・・いい刀で切られたな。」
忠勝は言う。
半蔵は長い髪を手で前へ持っていき、肩に引っかけた。
「業物であったゆえ、折ってきたわ。」
「それは惜しい。」
「・・・。」
帷子を止める紐を解き、襦袢を脱がせる。
この肌着も血を吸って相当重かった。
両方とも、使い物にはなるまいと忠勝は思う。
半蔵の背には肩胛骨の下あたりを中心にした大きな十文字の傷ができていた。
血は、まだ完全には止まっていない。
月明かりだけで青白い肌に、赤と言うよりは黒に近い色に見える血が滴る様は、人にあらずや?と思うほど。
その背に影を落とす、無数の傷跡。
引き連れたもの、綺麗な太刀傷、穿った目を覆いたくなるような痕。
常人よりもよほど大柄な忠勝から見たら半蔵はこの小柄な体に全てを受け止めている様がなんだか、複雑な自分を突きつけてる気がした。
「・・・・滲みるぞ。」
声を掛け、酒で背を流す。
声こそ出ないが、背には力がこもる。
それから水をしみこませた布で周囲を清潔にし、それから残りの酒を掛けまた水で拭う。
薬を付けた布をあて、包帯を巻いてやる頃にはようやっと半蔵の体から力が抜けていた。
忍びであれ、痛くないわけがない。
耐えられるかどうかが重要なだけなのだから。
「手強かったのか?」
「いや・・・その腹心がくせ者だった。」
「何者だ。」
「影だ、拙者と同じ。」
「何処のものだ?」
「何処かに所属しているわけではないようだった。」
「・・・・主一人だけに使える者か。」
「さよう。」
少し間があく。
包帯が巻き終わって、半蔵は口を開いた。
「なんだか・・・・自分を見ている気がした。」
「・・・・ほう。」
「先にその主を滅した。あの影は偶々側におらなんだ。駆けつけ、倒れてる主を見て、真っ直ぐ挑んできた。」
「祖奴に付けられた傷か?」
「ああ。刀は主の物だったが・・・。」
「・・・・。」
「拙者は、間に合うのだろうかとふと思ってな。隙があった。」
半蔵がうなだれるなど珍しい、と忠勝は思う。
しかし、無感情に徹する半蔵が。
「・・・間に合わなくとも、大事はない。拙者がおるではないか。先の軍に拙者がおったか?そこが決定的な違いであろう。」
半蔵は、斜め下から忠勝を見上げる。
「弱気なことを言うでない、らしくないぞ。」
「百も承知だ。」
ふん、と半蔵はそっぽを向く。
「ともあれ、戻るぞ。もうこの地ともおさらばだ。」
忠勝は外した物を半蔵に手渡す。
渡されるがままに受け取った半蔵は我に返る。
つまり、
「忠勝・・!」
しかしとがめた瞬間、体が浮いた。
軽々と片腕に半蔵を乗せ、忠勝は立ち上がった。
「さぁて、戻るかな。」
「おろせっ!」
「歩いたら振動がもろ背中に行くぞ?」
「・・・・殺!」
「その背で拙者に挑むか?さすが鬼半蔵、拙者はいつでも受けて立とうぞ?」
楽しそうに忠勝は言う。
「どうせ誰も歩いてなどおらぬ。さぁ、戻ろう。」
刺したままの蜻蛉切りを空いた手に握り、忠勝は歩き出した。
遠目から見たら親子みたいだったが、誰が徳川にその人ありと詠われた本多忠勝と、影として恐れられている服部半蔵だと思うだろうか。
月が隠れる。
半蔵が顔を上げ、雲に隠れる月を恋しそうな目で見届けていた。
気づいた忠勝は歩みを止める。
あたりが一気に暗くなった。
半蔵が、忠勝の肩に頭を乗せる。
「・・・・案ずるな。案じたところで、きりがない。」
「解っておる。解っておるが・・・・。」
次の瞬間、半蔵が掻き消える。
二撃、右と左から打撃の音がした。
忠勝は動きもせず、蜻蛉切りの柄で後ろを突いた。
重量と早さを乗せた其れは、刃のほうでなくとも十分に人を殺めることが可能だ。
忠勝の腕が、誰かを乗せているような形を取ればまた半蔵がそこへもどった。
そして何事もなかったかのように歩き始める。
「全部か?正成。」
「おそらく。」
「・・・・何人倒した。」
「これで、六人か。」
「まったく・・・。」
半蔵が相手を攻撃した姿は見ていない。
己の前から音はしたが、姿はなかった。
ただ後ろから向かってくる気配だけはしたので、そこへ槍の柄をたたき込んでやったまで。
半蔵が再び忠勝によりかかった。
あまり顔色も良くない。
「ほれみたことか。」
出血した後、いきなり動けば貧血を起こす。
「蒼白の顔と黒い髪がまるで幽霊のようだ。」
「其れはいい手だ・・・。次にどこぞへ紛れるときには使ってみよう。」
「ふざけるでないわ。」
「くっくっく・・・・。」
笑う半蔵など誰が知っていよう。
笑う鬼を抱え、最強のもののふは本陣へと歩く。
「平八郎、」
「なんだ。」
「・・・・恩に着る。」
「もういい。」
「・・・・・・・・平八郎、」
「なんだ。」
・・・・・・・・・返事がない。
歩みを止め、顔を下へ向ければ半蔵が見上げていた。
眉尻が下がっていて、つり上がって目つきの悪い三白眼が申し訳なさそうにしている。
両手のふさがった忠勝へ伸び上がると、半蔵はそっと唇を吸った。
「正成、」
「なんだ。」
「・・・・・・・・・・当てにしてくれ。」
「そうだな。」
陣が見えてくる頃には、月が再び顔を覗かせた。
ふわっと、あたりが明るくなる。
「平八郎、」
「ん?」
「謝す。」
「・・・うむ。」
忠勝の腕から重さが消える。
月が、完全に姿を現していた。
予定としては、半蔵の帰還はまだ先だった。
残党狩りのため、返り血と己の血で堅くなった装束に再び身を包んで影を伝うのだろう。
黙って本陣近くまで連れられてきたのは、状況が状況なだけに忠勝であろうとも夜道を一人で歩かせたくなかっただけ。
戦が終わった嬉しい伝令で溢れている本陣へと、忠勝は早足で向かった。