ふと半蔵は空を見上げた。

それは暖かく晴れた夜。

とても明るい。

「・・・よい月夜。」

けれども目を細めて風雅を気取っても手にしている鎌には今し方付いた血がしたたり落ちているし、周りもゴロゴロと死体が無造作に転がっていて。

腕のもげかけたもの、首が落ちた物、刀を抜こうと手を掛けたまま絶命してる者、若い者、老いた者。


けれども桜の花びらは平等に彼らを彩っていました。

紺色の夜、黄色い月、澄んだ空、頭巾を揺らす風。

血に染まった鎌、そこに張り付く桜色。

そこへ一つの影が降り立ちました。

青黒い装束を着ています。

「すべて終わりました。」

「・・・そのまま繋げ。」

「御意。」

忍はそのまま姿をかき消します。

半蔵はもう一度月を見上げると鎌を腰に差し、足音もなく歩き始めました。





−幻





 山間部にあるとある寺。

徳川と縁のあるここには賊が入り続け、住職に泣きつかれた家康が忍の対策を打ち今は仏も驚くほどの死体だらけ、死の寺となっていました。

もっとも事ついでと言うこともありましたが賊は用心深く、刀を帯びた者がいれば姿を現さないのだときりのないことを伝えてきたためもあり、

そこで家康は忍を派遣することにしたのです。

ちょうどわずかな供を連れて山向こうにいた半蔵に帰り寄ってもらい今に至っていました。


 半蔵がぐるりと敷地内を回ってくるとすでに死体は片づけられ、静かな伽藍があるだけになっていました。

古く、とても歴史ある建物なので半蔵はその建物をじっと見上げます。

そして一瞬その姿がぶれたかと思うと、そこには夜色の着物に銀糸の入った水色の重ねを来た姿に変わったのです。

長い黒髪を下の方で結い、武器を帯びていないので彼が忍と誰が思うでしょうか。

袖から扇を取り出すとパチリ、パチリ、閉じたり開いたりと弄りながら彼は伽藍の庭にあった、桜の巨木へと向かいます。


 桜の木は数本庭に立っていて、そのなかの一番立派な桜の木の下では一人の男が幹に体を預け、目を閉じていました。

傍らには土瓶が置いてあります。

「・・・風雅なるか・・・。」

半蔵は眉間を緩め、その青年を見下ろします。

夜桜も乙ですが、満開の木の下、月も満月で雲もない。

ああ、いいではないか。

ほんの少し前まで他者の首を狩っていたというのに、血の臭いすら抜けていないと言うのに。


 一体誰から聞いたのか、恐らくはくのいちあたりだろうと察しを付けた半蔵はくるりと当たりを見回しました。

一カ所だけ、誰か居るようです。

半蔵は飛び上がると一度だけ幹を踏みきり、その桜のてっぺんまでやってくるとくのいちの後ろ姿がありました。


 「・・・いい桜ねん、半蔵の旦那〜。」

「・・・・。」

「あたしは帰るから、あとお頼み申しますよん。」

彼女は一度も振り向くことなく、姿を消してしまいました。

気まぐれ猫はいつも気まぐれ。

たまに構って貰いたいのかやって来てはちょっかいだすのに、こちらから手を出されることは望まないなど。

伽藍の屋根を伝いくのいちが去るのを見届けると半蔵は桜の木を降り始めました。



 顔に何かが触る。

幸村は頬を掻きながら目を開けました。

くのいちに言われたとおりの刻限に酒を持ってやってきたというのに何故かは解らず。

ただ伽藍には人の気配が無かったので気に掛けていたけれども結局は気温もいいのでウトウトしてしまって。

「・・・くのいち、どのくらい眠っていた?」

いつも通り声を掛けても、返事はありませんでした。

気配を探っても彼女は居ないようです。

けれども桜の花びらは後から後からヒラヒラと落ちてきます。

あちらの木も後ろの木も皆満開で、薄闇に浮かぶ淡い色はとても幻想的で、思わず寄りかかっている木を見上げてみました。

「ん・・・誰か、居る?」

幸村は立ち上がってよく見ようと目をこらします。

薄い色の中にひときわ濃い、それも青い色がチラリと見えました。

やはり誰がいるのは間違いなさそうです。

「・・誰ぞ、そのようなところで何をしているのですか?」



 太い木の枝に腰を据えていた半蔵はこちらを見上げている幸村に気づくとそのまま彼の前に飛び降りました。


 
 ザザザザー・・・と擦る音が降りてきます。

幸村はその人が飛び降りるのが見えたので、腕を差し出すと殆ど衝撃もなくストン、とその腕に落ちてきました。

「あ・・・あの・・・。」

「・・・。」

しどろもどろに幸村は声を掛けますが、真っ赤な顔をして口をパクパクさせるだけ。

片や半蔵は顔を扇で隠していて、片目だけで幸村の方を見ていました。

「・・・・半蔵?」

幸村はやっと声を出しました。

半蔵はにんまりと目を細めます。

けれども幸村は微かに香る血の臭いをかぎ取ってしまいました。

顔に影が浮かびます。

「そなた、」

「心配無用、全て、返り血故。」

「そうか。」

先手を打つように答えを言ってしまえば若者は心配そうな、泣きそうな顔から一転、とても柔らかく微笑みます。

会いたかったと言えばこの若者はどんな顔をするだろう。

己のことを棚に上げるわけではないが、この真っ直ぐな青年はすり込みのように己に惚れ込できた。

邪険にするも受け入れるも、それは己の手次第。

いくさ場であっても、この桜の木の下であっても己の手に彼の全てが納められているなんて、なんて甘美な事だろう。

誰もが後を振り返るこの若者の未来を、羨ましげに、妬ましげに見守っているというのに。

この若者が主以外に心血を注ぐのが自分であるなんて。

悪い気はしない、むしろ心地よい。

己しか見えていないのだから、誰が望もうとも。

最大の討つべき相手であり、その側で共にありたいと思う相手であろうとも。


酔っているのか?正成。

桜にも、さっきまでまみれていた血の香りにも。

そうでなければこの反らされることのない真っ直ぐな目を受けて、己から接吻を望むことなどあろうや?

「幸村、」

袖からわずかに覗いた手指は幸村と比べると細くて小さい。

女のような仕草で自分の頬に伸ばされた手を、今すぐ握り替えしたい。

幸村は木の幹に体を預けるように座ると情人を膝の上にあげ、ようやっとその手をつかみました。

「幾日ぶりであろうな・・・。」

幸村は親指で半蔵の手の甲を撫でます。

「さぁて・・・長くもあり、短くもあろうか。」

扇で口元を隠した半蔵は幸村の胸に寄りかかり、少し遠くを見るように目を細めました。

「・・・暖かくなってきたゆえ、もう我らの世界は騒がしくていけない。」

「そうであろうな。光の子らは、白い闇に覆われる冬に弱い。逆手に取る我らは表舞台から再び闇へと戻り行こう。」

「暖かくなれば、また会うのは戦場か。」

「もう何度問答してもキリがない。」

半蔵は飽きたかのように目をそらすと扇を閉じてしまいます。

パチン、と存外大きな音がしましたが、そのまま閉じた扇を幸村の顎に当てるとクイッと上向きにして、彼は体を起こして幸村を上から見下ろしました。

今は眉尻も目尻も垂れ下がったこの男がいくさ場であれば目も眉もつり上げ、赤い鎧を纏い走り来るのだ、手には槍を持って。

自分だけにじっと向けられる敵視線は、好いて注目されているのと似ているかも知れない。

殺気にまみれた視線で射抜かれると胸の底が歓喜に振るえる。

面布の下で舌なめずりをしてしまいそうなほど興奮するなんて。

たとえ表だっては冷静沈着を絵に描いたような己であろうとも。

半蔵はかぶりつくように幸村に口づけを仕掛けました。

返してくれる幸村のその大きな手が己の頬を撫でてくれる感触が心地よい。

こちらから仕掛けてもやがて受け身になってしまってもそれがしっくりくる。

二人は一度口を離して額をくっつけ合いました。

けれども彼らが浮かべる笑みはとても穏やかで。

桜の下、この夜だけ彼らは二人だけの世界というのを堪能したのです。


 新たな季節が始まる。

それは戦の始まり。

ひとたび始まれば、会うことはできない。

死んでいるのかもしれないし、完全に戦場から離れるからなのか。

約束事を一切しない彼らは、ただこの夜だけは誰もいない桜の木の下で、確かに恋人同士でありました。







−おわり−