縁の露
汲みとったその代価は重い
たったひと雫の代価は
そなたの命だ
「・・・鏡花水月とは、よく言ったもんじゃなぁ、半蔵よ。」
「・・・然り。」
「よくやってくれた。」
「・・・。」
「防腐処理を施し、陣営へ丁重に送り返すがよい。草の者が引き取りに来よう。」
「承知。」
「・・・・まこと、日の本一の武士(もののふ)よ・・・真田幸村。」
−縁の露−
闇を己の姿として戦場を駆け抜けるのが生業であり、「主が為」というそれ以外に興味関心もなかった。
「それ」は「それ」と割り切って考える、というよりそう言うものなのだと納得していたからだ。
ただ、主の命であれば光の中でも影を伝い、走った。
光のあるところには必ず影があるものだ。
『城門前には真田幸村が番に当たっております。我らだけでは、やっかいかと。』
「本隊到着までは?」
『悪天候のため、あと3・4日・・・・いえ・・・・・・今来た報告では五日ほど必要になるかと思われます。』
「門以外は?」
『完了して、待機中。』
「そのまま待機を続けよ。門は、いい。」
『はっ!』
上田城というのは少し変わっていて、本城が見えているというのに無数の裏道や洞窟によって攻略が難航していた。
ある程度の見取り図は完成しているものの、隠された裏道を全て把握することは不可能でありまして本隊は武装した歩兵と騎馬。
人数が多ければ動きに難渋している隙をつかれてしまう。
(・・・ここは一つ、真田の志気を削いでおくが得策か)
一人であれば難なくこなせよう、例え武田にその人ありと詠われた若き武士であっても。
門の前に陣取っている深紅の若武者を殺そう。
闇色ではなく夜色をまとった忍はその場からかき消えた。
−夜。
木々を伝い、城門までは難なく来られた。
門の前にはかがり火が焚かれ、煌々としていてそこへ浮かび上がるかの如く赤い甲冑をまとった男が立っている。
十文字槍を手にした精悍な青年・・・いや場合によっては少年とも見えるかも知れない。
額に巻いた家紋の鉢金があまり顔も知らない忍びに「真田幸村」と示していた。
あとは闇と化し、狙うのみ。
徳川に刃を向ける者は狩る。
しかしここまで戦意をもつ武将に真っ向から向かっていってはこちらもただではすまない。
影は一旦、影の中へと消えていった。
機会は月の隠れた夜半だった。
かがり火の薪を取りに兵士達がいなくなり真田一人になったのだ。
これを側近くの木から見ていた半蔵が逃す手はない。
寄りかかっていた門から離れ、歩き始めた幸村の背後へとあらゆる視界の盲点をたどって影は忍び寄った。
何回手を合わせてもけりが付かなかった。
確かにすばらしい槍の使い手ではあったが、短距離武器である鎌を操る半蔵が槍の行く先を読み切って懐を狙うのだ。
お互い、すんでの所で決定打が打てない状態だ。
「・・・槍の手を読むか・・・影・・。」
軽く肩で息をする赤い武士は苦々しく言った。
息を乱すことのない影は静かに答えた。
「忍びとて槍も使う。」、と。
間合いを開け、一旦腰に鎌を納めた影は居合いをはかるべくジリジリと身構えた。
対して幸村は槍を回しながら様子をうかがうように歩く。
まだ二人しかいない上田の城門だったがまるで龍が暴れたかのような突風で事態は一転。
風が来るのを予測し、場を離れようとした半蔵は同時に勝負を仕掛けた幸村に少なからず驚いて一歩反応が遅れ、
気が付いたときには風にあおられたかがり火の薪を頭にもろ食らっていた。
竜巻かと思うほどの突風に思わず顔を覆って身を伏せた幸村が顔を上げて見たのは、静かに倒れている忍びだった。
「・・・・・死んだのか?」
ポツリと呟き、それでも槍を片手に警戒しながら側に寄ってみるが頭巾の色が見る見る濃く染まっていくため、槍をそっちのけて慌てて矧がした。
「頭に薪を食らったか・・・・。」
手で触れれば赤く染まる。
静かに目を閉じたまま、死んだような姿の忍びを幸村は複雑な気持ちで見下ろしていた。
ここで首級を挙げれば戦を進めるのに楽であり、なによりも影を恐れなくてよくなる。
しかし、武士としてそれでもいいのか?と心の中の何かが必死で声を挙げているのも事実。
「・・・戦うことになったら、その時はその時だ。」
あまり人に知られない方が良い。
青年は忍びの体を、担ぎ上げようとして思いの外軽かったので驚く。
「担がず、抱くか。」
子どもにするように抱き上げ、頭を自分の肩に乗せて寄りかからせる。
それから槍を手に取ると入り組んだ洞窟への道へと入っていった。
幸村は道すがら、城の者達に湯や清潔な布、替えの小袖を用意させた。
それでも本城の裏にある一室へは一人で来て誰も寄せ付けようとはしなかった。
ただ、唯一の道である洞窟への門には本城側へ門番を立たせている。
最初にすべき事は頭巾を外すこと。
傷に障らないようゆっくりと外し、顔を隠す布も取り去った。
そこにあったのは、いつも顔を覆うせいで日に焼けず白い肌が血の気を失って一層蒼白になったかんばせだった。
目と鼻に走る傷跡は歴戦の忍びであり将でもある証拠。
しかし造形は武人のように無骨で荒々しい者ではなく、変装しやすそうなあっさりした顔だったが丁寧だった。
それに細めで、男であるはずが目を閉じているせいか女にもみえる不思議な感じがする雰囲気を持っている。
ずっと年かさの男であるはずが・・・・。
「・・・これが、忍びなのだろうか・・・。」
幸村はポツリと呟いた。
ともかく血で固まり絡まないよう幸村は湯で丁寧に髪を濯いで、それから傷を洗った。
幸い血は固まりつつあって青年は安堵した。
それでも己の両手は真っ赤に染まっているので居たたまれなくなって肩を落とした。
薬をすり込んだあて布の上から真っ白い包帯を巻いてようやっと忍び装束を脱がせた。
「まったく・・・味方の連中はどうやってこの複雑な鎧を解くのだ・・・!」
びらりと火にかざしてみれば何の変哲もない黒い一揃えだが、ことある事に武器が顔を覗かせるため幸村の手は自分の血で再び紅く染め直す羽目となる。
「・・・この傷では目が覚めてもすぐ動けまい。」
失血のため青ざめた顔をのぞき込みながら幸村は一旦部屋を出て行った。
半蔵は目が覚めても急に動いたりせず、しばらくは動かなかった。
頭をやられているので大事を取ったことが一番大きかったが、ただ自然に介抱されていたのでそのまま様子を見ようと思ったのだ。
「・・・あれから何日経ったのか知る術もなし・・・。」
ただ気になるのは主のこと。
沈んでいる間に終わってしまっているのか、それとも実は数時間しか経っていないのか。
頭は、まだ痛む。
「・・さもありなん。」
取りあえずゆっくりと体を起こし、開け放たれた板張りの縁へ出てもそこから覗くのは庭ではなく、鍾乳石の連なりだけがあった。
ヒンヤリとした冷気だけが漂うそこは、おそらくちゃんとした客室のように作られていなければすぐ気が狂ってしまっただろう。
「・・・牢であれば、ひとたまりもない。」
さて、これからどうしたものかと半蔵が振り返ったとき静かに襖が開けられた。
「あ・・。」
赤揃えの上下を着た若者が手に盆を持っていて、今は少し驚いたような顔をしている。
大して半蔵は腕を小袖の中に隠して組んでいた。
存外長い黒髪は白い布から静かに下ろされていて、顔の傷がなければ「服部半蔵」とは解らないだろう。
「・・・き、気分は、悪くないか?」
少し裏返ったような声が言った。
「ああ。」
耳に流れ込むような不思議な声が答える。
「・・食事と・・・替えの布を持ってきた・・・。」
「・・・・。」
青年はすこし戸惑っているようだった。
これがあの、影と恐れられた忍びの姿なのかと、己が繰り出す重い槍撃を簡単に受け流せる腕力を持つ男なのかと色んな疑問が浮かんでは消えていった。
「・・・謝す。」
半蔵は足音もなく寝床の側で座ると青年を見上げた。
引き寄せられるように青年は傍らに座り盆を置く。
「・・・・粥だ。冷めると旨くない。」
食べ終わる頃にまたくる。
青年はそう言い残して部屋を出て行った。
「幸村様、忍びの様子はどうでした?」
出てくると立哨の兵が訪ねた。
「ああ・・・起きていたよ・・・。」
「このまま、我らだけでもいいのですか?」
「逃げたら、それはそれだ。」
しかし、あの覆面の下にあんな顔が隠れているとは思いもしなかった。
髪の長さもそうだが、なによりも白い肌と傷跡二つ。
切れ長の目つき、独特の、染みいるような声。
「・・・何とも言えぬ、雰囲気。」
色香とは違うがそれが忍び特有なのだろうか。
鬼の半蔵と名高い忍びの頭領は、小柄で、中性的で・・・。
「・・・・・・・。」
顔が赤くなるのが解る。
だからといってどうすることもできない。
青年はひとまず本城へと歩き出した。
「傷自体は深くなかった、出血は多かったが案外早く止まった。ただ、打っているから養生した方が良い。」
後ろを向いている半蔵は、布を替えて貰うとようやく口を開いた。
「あれから幾日経った?」
「・・・・・・・・・・。」
答えはすぐ返ってくるものだろうと思ったが一向に回答の気配がない。
半蔵は少し眉をひそめ、振り返った。
「・・・・・もののふよ、」
「・・・。」
「何故答えない。」
「・・・・知れば、あなたは行ってしまう。」
「・・・。」
「半蔵殿。」
青年はそっと半蔵の肩に手を当てた。
半蔵はゆっくりと青年をみやれば彼はただの小袖に袴姿だった。
「今、私は武士ではない。」
「・・・・・答えになっておらん。」
「一個人として、後数日は安静にしておくことをすすめたい。」
「忍びたるもの、管理などできる。」
半蔵は自分の肩に添えられた大きく、暖かい手をとった。
「・・・よく拙者の装束を脱がせたな。」
先ほど合ったときに目に入った白い指の理由。
それは装束を脱がすときに仕込み武器で怪我をして布を巻いていたから。。
「毒薬をクナイに塗っていれば殺せたものを・・・・惜しいことだ。」
半蔵はうっすらと笑う。
「なっ!!」
しかし幸村がぎょっとした瞬間には背中から押さえ込まれていた。
手を後ろで固定され、あの軽い体のどこにこんな力が隠されているのか解らないほどで思わずもがく。
「・・・言え、何日経った。」
同時に頭を上から圧迫する。
みしみしと音がしそうなほどの圧力に幸村はようやく答えた。
「・・・三日、三日目の夜だ・・・。」
すると途端に体は軽くなり、体を起こせば己の向かいに半蔵が立っていた。
(ならば明日の夜以降の到着となろうな・・・。先方は、明日くらいか。)
急がねば。
「行ってはならない。打ち所が悪ければ・・・例え少し動いただけでも死んでしまうぞ?」
「だったら拙者はそこまでだったというのみ。」
「ほんの少しじっとしていれば生き続けられるのにか?」
「拙者がここに留まろうが戦は戦だ。それに朗報ではないのか?拙者が死んだと報告できれば・・・。」
「・・・・。」
「武田の勇士であるなら、理解できようぞ。」
半蔵が指を鳴らす。
すると頭に巻いていた布がほどけ、黒髪が舞った。
「・・・ちょうどいい、貴様の首、もらい受けよう。」
地を這うような声が幸村の耳に入る。
防御姿勢を取ったと同時に半蔵は目の前まで間合いを詰めていた。
ぎらりと、半蔵の瞳がカミソリのように閃く。
忍びの右手にはクナイが握られており、幸村も胸元に隠しておいた小刀を構えた時だった。
殺気は嘘のようにかき消された。
それでも幸村のこめかみ寸前にはクナイの先端があり、半蔵の喉寸前には逆手にもたれた小刀の刃があった。
「もののふとは、そのような顔で仇敵を殺すのか・・・?」
「・・・・。」
幸村は答えなかった。
半蔵は顔をあげ、乱れた髪の間からいぶかしんだ顔を覗かせる。
「今にも、泣きそうで苦しそうな顔をするのだな・・・もののふとは。いつもそんな顔で戦場を駆け回るのか?」
「そなたを殺すことなどできない!」
幸村はそのまま小刀を投げ捨てると小柄な忍びを抱きしめた。
「無理だ・・・できない・・・。」
「寝言を言うな。」
「目の前から居なくなるなど・・・。」
「いつかはどちらかが消える運命。」
「それでも!」
「・・・・・それでも、だ。」
忍びは大きくため息をついて身をよじる。
幸村は腕をゆるめはしたが、離そうとはしない。
「今我らがやりあわなかったとしても、次に相まみえればどちらかが地に落ちる。・・・必然だ。」
半蔵の声は忍び独特の、染みいるような声だったが酷く穏やかだった。
彼は手を青年の肩に掛け、落ち着かせるように撫でる。
「・・・・・・・・ずっと、こうしていたい。」
「奇特なことだ。拙者は男で、忍び。」
「関係ない。」
小柄な半蔵をすっぽりと、まるで何かから全てを遮断するかのように抱きしめた幸村と、抵抗することなくされるがままの忍び。
小袖から伝わる幸村は、流石日の下にいる武士でもあり暖かかった。
影が、光に取り込まれそうになる。
半蔵は頭の片隅でそう思った。
しかし、この心地よい光は、己の対である光ではない。
若い魂を、宥めれば取り込まれる。
しかし苦しげに、泣いているのか嗚咽が聞こえるのを半蔵は無視しなかった。
「戦の世故、詮無きこと。」
半蔵は腕を幸村の背せに回し、宥める。
「・・・・離れたくない・・・。」
くぐもった悲痛な声が言う。
「甘いとか、なんでも罵ってくれ。出会ってすぐの、それも男に言われるなどと・・卑下してくれ!」
「それであきらめがつくなら幾らでも卑下しようぞ。」
「・・・・・」
「できぬであろう。」
幸村の背にあった半蔵の手は、彼の頭をなで始めた。
幼子を宥めるような仕草に、幸村の嗚咽は一層悲壮さを増す。
「・・・精々戸惑え。そして一時の迷いであったのか、これが本当の物であるのかを見定めよ。」
肩を押し、お互いの顔が見える位置まで己に寄りかかった幸村を起こす。
泣き濡れた少年が、捨てて行かれるのを恐れるように、眉を顰めた。
「次に相まみえるときは、自ずと答えが出よう・・・。お前も、拙者も。」
半蔵が少し口を開けて、そのまま幸村の口を覆った。
それは、幸村に取っては今まで生きてきた中で一番甘い物であったが同時に激痛を伴う物でもあった。
それでも、痛みを堪えて半蔵を存分に感じようと口内を犯した。
半蔵も、されるがままではなかった。
そこで、意識は途切れる。
それから己が寝かされていた布団に幸村を寝かせ、ようやっと口の端を伝っていた血を拭おうとして、手を止めた。
「・・・・・もののふの、味・・とな。」
口の中を犯すように漂う血の味は幸村の物。
口の端に付いた物を舌で舐め取り、顎は拳で拭った。
「次が楽しみだな、もののふよ・・。」
ニヤリと笑い、己の服と共に掻き消えた半蔵の口からは、鋭い牙が覗いていた。
戦乱の世も終わりに差し掛かった頃。
浜松城下にある譜代・服部家の屋敷にようやっと主が戻った。
「長く、あけたものだ。」
三方が原以来、落ち着いて戻ってきたこともなかったが、よく留守を守ってくれたものだ。
といっても、ここに住まう者達はみな伊賀者なのだが。
「頭領、お帰りなさい。」
「・・・戻った。」
「お待ちですよ?」
留守の屋敷を切り盛りする“長老”と呼ばれた初老の男は穏和なほほえみを浮かべていった。
「どうだ?」
「幻術がよく効いておりましたので暫くは寝たり起きたりの繰り返しでしたが、最近は時折縁側に出ておりますよ。」
「・・正気か?」
「ええ。」
「・・・。」
半蔵は旅装束を解き、長老と共に離れへと向かう。
離れの前で長老は控えに回った。
半蔵は一人、引き戸を開ける。
そこには縁側の柱に寄りかかり、板の間に座った男がいた。
「・・・・寝ているのか。」
そっと近づき、手のひらを相手の眼前へ持っていけば微かに感じる、息づかい。
頬骨もしっかりしていて眉も太く決して女顔ではないはずが、目を閉じている姿は純粋な子どものようだった。
半蔵は傍らに座り、そっと肩に触れる。
「・・・幸村、」
そっと呼べば、それが解術の合図と思わせるようにゆっくりと幸村は目を開いた。
焦点の合わない瞳で、少し高いところにある半蔵を見上げた。
「あ・・・・はんぞう・・・?」
「・・息災か?」
「・・・・・・・・・・うん。」
まだぼやっとした生返事か帰ってこない。
強く術をかけすぎたのかと半蔵は心の中で首をかしげた。
しかし、術は完全に解けていた。
幸村の両腕はゆっくりと半蔵を絡め取り、しっかりと抱き寄せたのだ。
半蔵はされるがままで、幸村は肩口に顔を埋めた。
「・・・・答えは出たか?」
「・・・うん。」
「・・・・主が、憎いか?」
「もう・・・・・・済んだのだな?」
「うむ。」
「・・・・私が槍を振るうことは・・・・もうないのだな・・・?」
「・・・・・・・・まだ持ちたいか?」
「いや・・・いい・・・。」
会話の途中から、幸村はすすり泣いていた。
半蔵の服を握りしめ、半蔵はただ震える背を撫でていた。
「一時の、気の迷いではなかった・・・・。だから、もう・・・いい。」
「そうか。」
もう終わったのだから。
もう泣くこともない。
半蔵はしっかりとその腕に力を込めて、日の本一のもののふと称された勇将を抱きしめていた。
やっと、戦国の世が終わる。