ある放課後のこと。
雨が降った後でコートが使えず、体育館は勿論満員で粋なりテニス部が使えるわけもなく。
部室にあるマシンでトレーニングしてもよかったけど希望者のみになったから、僕たちは久々に自由な放課後を満喫しようと家へ帰ることにした。
一旦帰ってでかけるもよし。
ストリートテニス場で一汗かいてもいい。
跡部新部長は室内コートが嫌いだけどあの人はテニスさえできればいいし、それは俺も同じ事。
だから帰りにそのままストテニ場へ流れて一汗流すことにした。
ただ、こういうときに限って委員会がある。
「鳳君、今日クラス委員会だよ?」
相方の子に言われて初めて思い出した、そういえばそんな役職に就いていたっけ。
ただし利点がある。
毎学期変わるこの委員会役員の中で唯一、一度やれば免除となるのがこのクラス委員だ。
さっさと短い一学期のクラス委員をやってしまって悠々と残りの学園生活を送りたいじゃないか。
だいたい中学生だからって何か一つ必ず役員(クラス委員や風紀委員以外にも数学係とかなんか色々やらされる)をやれだなんて横暴だ。
特に運動部の連中にとっては枷と同じにしかならない!
ともあれこれで免除なんだから。
俺は宍戸さんにメールを入れた。
休憩時間だからすぐ返事は来た。
『じゃあ教室で待ってるからよ、呼びに来いな?』
返事は簡潔で、それ以外のそれ以下の何者でもなかった。
委員会の後、肩にラケットバックをかけて教室を出た。
右手に向かって歩いて、階段を下りる。
それから左へ折れて、宍戸さんの教室へ。
遠く、吹奏楽部の楽器を鳴らす音やグランドが使えず特別棟の階段と廊下を使って走り込むサッカー部のかけ声が聞こえる。
けどいま廊下には俺だけしかいない。
足音が嫌に響くな、って思う。
廊下の窓からはすっかり晴れ渡った青空があって、もうすぐ夕方だからかほんのちょっぴりオレンジが混じっていた。
後ろのドアは開きっぱなしだった。
宍戸さんは窓側の真ん中の席に窓の方を向いて肘を突いていた。
うなじの上で結った髪が、右に流れている。
窓は開いていて、宍戸さんの前髪を揺らしているのが解った。
「・・・・。」
教室には宍戸さん以外誰もいなかった。
差し込む西日が、俺の識別する色彩を単調化させる。
その中で、くっきりと浮かび上がる黒。
淡い、銅のように金属味を帯びた宍戸さんの黒髪。
パラッとページをめくる音がして、俺はやっと声をかけることができた。
「宍戸さん、」
宍戸さんは、付いていた肘を倒して俺の方を向いた。
「おう、長太郎。・・・済んだのか。」
「はい。」
「・・・どーしたんだ?ぼけっと突っ立って。いつもなら“しっしどさぁーん!!”って強烈なタックルかましてくるってのによぉっ!」
にやりと、格好いい笑みを浮かべて宍戸さんは読んでいた雑誌をバッグに押し込んだ。
俺は引き寄せられるように宍戸さんの方へ歩いた。
「よし、じゃあ行こう・・・・・ぜ?」
顔を上げ、宍戸さんが何か言ってたけど俺は宍戸さんの髪に触れたくてしょうがなかった。
結ってる根本から髪を掬い上げ、向かいに立つ自分の方へ引き寄せる。
男の髪なのに、さらりとしていた。
黒くて堅そうなのに、つややかで手触りが良い。
西日を受けて銅色に輝く髪を、俺は、宍戸さんに見えるようにさらりと風に乗せるように手から零す。
宍戸さんはちょっと驚いたような顔をしていたけど、俺から目を離さなかった。
俺はどんな顔をしているかなんて想像も付かないけど、低い位置にある宍戸さんの目をじっと見つめた。
日が、宍戸さんの瞳を銅色に変える。
ブロンズに輝く宍戸さんの瞳、俺が映っていた。
誰もいない、気配すらない。
今、世界は俺たちだけだ。
小説なんかでよくあるチープな言葉だって思ってたけど本当にその通りだった。
俺と、宍戸さんだけ。
「・・・長太郎?」
宍戸さんが、俺を呼ぶ。
やっとのことで喉からひねり出したような、そんな声だった。
「はい・・・宍戸さん。」
返事をしながら、指の背と親指の腹で宍戸さんの頬を撫でる。
あれだけ運動するのに、思春期特有のニキビなんて一つもない滑らかな肌があった。
もしかしたら、“まだ子ども肌なだけ”かもしれない。
もっともこれは姉からよく言われることなのだけれども。
そのまま耳と首の境に手を滑らせて、ちょっとこっちを向かせる。
「どうしたん・・・・・。」
“どうしたんだ”
その言葉は、俺の口の中へと消えていった。
淡いオレンジ色の世界で俺たちは静かに口づけを交わす。
後ろのドアは開いていたけどきっと俺の影になって宍戸さんは見えない。
窓に映った前のドアは閉まっていたから大丈夫だろう。
“何故?”なんてない。
“どうして?”もない。
宍戸さんは抵抗をしなかった。
最初はよく分かっていなかったみたいだけど、答えてくれた。
好奇心かもしれない、健全な学生だから。
それでも、拒絶されなかった。
何回か軽いキスを交わす。
二人で上目遣いに見つめ合えば、口に笑みを浮かべる。
半眼になった宍戸さんはとても綺麗だった。
無性別のような存在。
女のように長い髪と大きな瞳。
男のように強い意志を宿した眼光と眉。
惹かれ合うように何度も口づけあって、最後の方は貪り尽くさんばかりの勢いだった。
飽きるまで口づけ合って宍戸さんは腫れぼったくなった赤い唇で言葉を紡いだ。
「・・・俺とじゃ、味気なくねぇ?」
そして、座っていた椅子に腰掛けた。
“なんで?”という問いかけではなかった。
「その・・・すべきなんだって思ったんです。」
「好奇心じゃねぇの?」
「好奇心だとしても同じ同性に好奇心なんて涌きますか?」
「・・・・気持ち悪いだけだろ?」
「でも、俺は、好奇心じゃなくて、しようと思ってしたんです。」
「・・・。」
「今しかないと・・・。ごめんなさい、宍戸さん。」
「・・・・。」
「だって、宍戸さんの意思を無視して仕掛けたんですから・・。やっぱり女の子の柔らかいほうがいいですよね・・・。」
そうだよ。
なんであそこで“すべきだ”って思ってしまったんだろう。
でも、あの笑む宍戸さんと、そのあまりにもサラサラで手触りの良い髪の毛と、無性別の表情とが・・・・。
「ただ、あなたがあまりにも倒錯的だから・・・。」
「ああ?」
声に出してしまった。
「ふーん・・・。なるほどねぇ・・。」
宍戸さんは何か合点がいったんだろうか、顔を伏せたままゆっくり立ち上がった。
そして結っているゴムをほどいた。
バサッと、黒髪が広がる。
結い後は全く付いていなかった。
「確かに、今しかねーよなぁ・・。」
いつもと違う宍戸さんの声。
威勢の良さではなく、クールというか、静かというか、無表情というか、そんな声色だった。
「なぁ、長太郎ー。」
斜め下から見上げてくる乱れ髪の宍戸さんは、俺の首に腕を回して、引き寄せた。
ニヤリと笑む宍戸さんは、宍戸さんじゃないみたいだった。
そのくらい、大人びていて、クールで、かっこよくって、綺麗だった。
「長太郎ー、」
「し、宍戸さん・・・・?」
体重をかけるように俺を自分に引き寄せてくると言うことは、腰を支えないと宍戸さんも俺も不安定な体制になる。
俺は思わず宍戸さんの腰に腕を回した。
・・・・細い。
「いんじゃねーの?俺、お前なら嫌とか気持ち悪いとかそんなのおもわねー。なんか、あーそっかー、いんじゃねーの?ってかんじ。」
「・・・。」
「あ゛ー?おめぇ、俺じゃ不服なのかよー。」
何も言えずにいると俺の首にぶら下がった宍戸さんは睨みをきかせてくる。
もちろん、目つきの怖い先輩、で名の知られてる宍戸さんだから迫力は半端じゃない。
けど、口が笑っているのでなんだかものすごく、かっこよくて、綺麗だ。
ああ、俺は相当宍戸さんしか見えていないみたいだ。
きっと、この教室のせいかもしれない。
廊下は当然のように誰も通らないし、遠くに聞こえるはずのブラスバンドの楽器の音色も聞こえてこない。
切り取られたような“教室”という空間だけだった。
「・・・・・・嬉しい、です・・・とっても。」
「よく言えました。」
示し合ったかのように唇を重ねた。
俺が攻めれば、宍戸さんはまるで負けまいとするように答えてくれる。
しばらくして、顔を離した。
けど、宍戸さんを抱きしめたままだった。
教室は相変わらずの西日に染まっていて、夕暮れ時まっただ中。
外の音は何も聞こえない、切り取ったような空間には俺と宍戸さんだけ。
宍戸さんは俺の背をゆっくり撫でてくれている。
ものすっごく落ち着くし、柔らかくて心地良い。
気の迷い、とか場の雰囲気、じゃない。
これが、きっと本当なんだろう。
「好きです、宍戸さん・・・・。」
「よく言えました・・・・長太郎。」