彼女が入ってきた途端に、芳しい香りが部屋中に広がった。
「はい、ガイ、お疲れ様」
「サンキュ、ミコト」
ねぎらいの言葉と共に差し出されたカップを受取り、琥珀色の液体が醸し出す芳醇な香りをしばし
楽しんだ後、ひとくち口に含む。
「うん、旨い。やっぱミコトの煎れてくれるコーヒーは最高だな」
笑顔と共にお褒めの言葉を頂戴すれば、今日の出来具合は如何なものかしらと、ガイの顔色を
窺っていたミコトの表情もパッと明るくなる。
「一仕事終えて疲れた身体に、この一杯。生き返る気分だぜ」
大袈裟なガイの言い草に、ミコトは思わずクスクス笑いを漏らす。
「おだてたって、これ以上何も出ないわよ…と言いたいところだけど」
そうしてミコトはジャ〜ンと自分で効果音を演出しながら、隠し持っていた可愛らしい包みをガイの
目前に差し出した。
「今日はこんなものもあるんだ♪」
おや、と、自分でも思ってもみなかった展開に軽い驚きの表情を浮かべながら、ガイが受け取った包
みを開いてみれば、そこには可愛らしいお菓子が詰められていた。
「どーしたんだ、これ?」
「昨日、久し振りに連休もらったんで作ってみたんだ」
ガイもいなくて暇だったし、と付け加えられたひとことに、ガイはちょっぴり表情を曇らせる。
ホントなら一緒に休めるはずだったのだ。ちょっとばかり遠出しようとふたりで相談して、わざわざ休みを
合わせたのに、ガイの方がどうしても抜けられない仕事が入ったため、結局、予定はすべてキャンセル。
ミコトは久々の連休をひとり淋しくすごす羽目になったのだった。きっと暇を持て余して、お菓子作りに精
を出したのだろう。包みの中味は、結構手の込んだものばかりだった。
「…久し振りに作ってみたから、味の保証はできないけどね」
くすっと悪戯っぽい笑みを浮かべる――それはきっと申し訳なさで一杯になってしまったガイに気を使って
のことだろう――ミコトに、
「そんなことはないだろう?」
と、彼女の気遣いに甘えて、内心の動揺など無かったような振りをして、早速、手頃なお菓子をひとつ
つまんで頬張ったガイは、途端に満面に笑みを浮かべた。
「うん、美味い」
「良かった。気に入ってもらって ♪」
そう言って、嬉しそうにするミコトに向かって、
「ミコトがわざわざ俺のために作ってきてくれたのに、気に入らないはずはないだろう」
ペロリとほぼ一口で平らげてしまったガイはウィンクなどしてみせた。その様子にミコトは益々嬉しくなって、
なんだか背中がくすぐったいような気持ちになったのだが、
「ホント、ミコトってば、昔からお菓子作りだけは上手かったもんなぁ」
早くも二つめを平らげようとしているガイの台詞に、聞き捨てならないものを認めて、ミコトは思わずムッ
としてしまう。
「その、だけ、ってわざわざ強調するのは何なのよぉ」
「だって事実だろ?」
だけど、それに対するガイの反応は素っ気なく、容赦もない。
「お菓子作りはこんなに上手いくせに、こと料理となるとからっきしダメだったじゃないか」
苦笑混じりの言葉の後、あれやこれやと挙げられた過去の実例に、しっかりと身に憶えがあるが故に反
論も出来ず、ミコトはがっくりとへたり込む。
「うう… 完全に否定できないところが辛いわ…」
その横で「勝った!」とばかりにVサインなんぞして見せたガイは、三つ目のお菓子を口に運びながら、何
気に呟く。
「―――けど不思議だよなぁ」
それを聞きとめて、何が?と見上げてくるミコトに視線を返しながら、ガイは常日頃から疑問に思っていた
ことを口にする。
「なんでお菓子が良くて、料理がダメなんだ?」
そうなのだ。普通はお菓子作りの方が難しいだろうにと、ガイは思う。
実際、料理の腕はそこそこで、見かけはやや豪快ながらも味の方は結構イケる料理を作れるガイも、デ
ザート系は苦手で、こればっかりはミコトに敵わない。
第一、お菓子作りというものは、キチンと分量を量ることから始まって、随所に繊細な技が求められるもの
である。どちらかというと大雑把に片付けてしまうガイには、逆立ちしたって出来はしないだろう。
「まったくもって不思議だ」
「そんなこと、あたしに判るわけないじゃない」
心の底からそう思っているらしいガイに、ムスっとしたまま応えたミコトだったけれども、すぐさま何かに思い当
たったらしく、ポンと手を叩いた。
「もしかしたら、うちの家系なのかもね」
ミコトの突拍子の無い結論に、4個目、5個目と景気良く平らげていたガイがピタリと動きを止め、怪訝そう
な視線を向けるのに対して、ミコトはあっさりと言い返す。
「だってうちのお母さんもそーだったもの」
彼女の話によれば、代々、卯都木家の男性はみんな料理が得意だったらしい。そして代々の嫁はどうやっ
ても料理の腕で旦那に敵わず、それならば、とお菓子作りの腕を磨いてきたというのだ。
「あたしもお母さんからお菓子作りを習ったんだ」
ミコトの母も料理は下手ではなかったが、どうしても父には敵わなかったのだと言う。
でも、お菓子作りだけはあの人には負けないわ。
いつもそう笑って、美味しいおやつを作ってくれたのだった。そして、いつしかミコトも一緒になってお菓子を作
り始め、母から娘へと、その伝統は受け継がれていったのである。
「楽しかったなぁ」
それは遠い日の思い出。今は失われてしまった日々。
懐かしむように、愛惜しむように、過去に思いを馳せたミコトは、けれど振り切るように顔をあげてにっこりと微
笑んだ。
「あたしもね。お母さんに教えてもらったように、いつか自分の子供たちにこの味を伝えて行けたら良いなって思
ってるんだ」
その言葉を聞いた途端、それまでお菓子をつまむ手を止めてミコトの話に耳を傾けていたガイの胸に、つきん
と微かな痛みが走る。
「…ゴメンな」
「え? 何で---?」
ガイの口から飛び出した唐突な謝罪の台詞に、ミコトはキョトンと首を傾げた。ガイに謝ってもらうようなことな
ど、何も思い当たらない。
そんなミコトに、僅かに表情を曇らせながら、ガイは重ねて言う。
「だって、俺、ミコトの夢を何一つ叶えてやることができない…」
その台詞に、ますますミコトは困惑する。
「あたしの夢…?」
何が何だか判らないぞとばかりに、大きな眼を更に大きく丸めるミコトに、
「ミコト、昔、こう言ってたじゃないか」
そうしてガイはミコト自身ですら忘れていた思い出を語り始める。
「丘の上に白い小さな家を建てて、愛する人と可愛い子供たち、それから犬と猫を一匹ずつ。ティータイムには
自家製のアップルパイでお茶を楽しむ。そんな家庭を築くのが夢だって」
ガイの言葉を聞きながら、ミコトはあぁと頷いた。
そう言えば、そんなことを話したこともあった。
たしか1970年代の歌謡曲の中に、そんな唄があったのだ。
ミコトの父が70年代の音楽が好きで、そのころのアナログ盤を収集するのが趣味だったため、彼女も幼い頃
から70年代の音に触れて育ってきた。年代物のレコードプレーヤーで再生されたいくつかの音たちの中に、件
の唄も含まれていたのだった。
丘の上の白い小さな家。そんな絵に描いたようにありふれて少女趣味な歌詞が、幼いミコトはたいそう気に入
って、何度も何度も繰り返し聞かせてくれと強請り、その度に父は苦笑いしながらもミコトのお願いを叶えてくれ
たものだった。
そんな思い出も、思い出の品ごと現在は失われてしまっているのだけれども。
「---だけど今の俺は、ミコトのそんなささやかな夢さえ叶えてやる事はできない」
苦味を含んだガイの声に、思い出に浸っていたミコトはハッと現実に立ち返った。
「こんな身体になっちまったからな」
ぎゅっと握り締めた左手に視線を落としながら、ガイが淋しそうに呟く。
エヴォリュダーとなってしまったこと、その事自体は、ガイは肯定的に受け止めていた。
皆の幸せを守る新たな力を得たのだ。それはそれで素晴らしいことだと。
ただ、それはとりもなおさず『普通の生活』というものから、どんどん程遠いものになっていくことを意味するのだ。
自分自身はそれでも構わないが、付いて来てくれるミコトには済まないと思う気持ちが強い。
他にもっと楽な生き方があったはずなのに、辛い思いをたくさんさせるような道に引き込んでしまった。
そのうえ、エヴォリュダーとして、人類とは異なる種へと変化してしまったガイには、子孫を残す事は限りなく不
可能に近いと言われているのだ。
ミコトの望むほんのささやかな夢さえ、現在のガイにはなんと遠いものなのだろう。
俯き、黙り込んでしまったガイを、しばらくミコトは呆然と見詰めていた。
ずっと昔に語ったことのある、無邪気で幼い夢。
ミコトですら忘れていた夢をガイが憶えていてくれたことが嬉しくて、けれど、その事が彼を苦しめているのだと
気付いて、哀しくもあった。
だから、ミコトはひとつ大きく息を吐くと、もう一度にっこりと笑みを浮かべた。
「そうね。そんなことも言ったよね」
そしてガイの頬を両手で包んで、そっと上をむかせると、
「だけど、ガイがあたしの夢を何一つ叶えられない、なんてことはないよ」
見上げてくるガイの視線に、この上なく優しい笑顔を返しながら、ミコトは言葉を紡ぐ。
「だってガイがそばに居てくれるもの」
愛するひとがそばに居てくれる。それだけでいいの。
心の底からのその笑みに、ガイの胸が熱くなる。
「ミコト…」
名を呼ぶ以外に上手い言葉が見つからなくて、ガイはそっと手を伸ばして華奢な身体を抱き寄せた。そのま
ま、何の抵抗も無く委ねられた身体を腕の中へ深く包み込んでいく。
「それに、ね」
ガイの腕の中、気持ち良さそうに暖かな胸に頬を摺り寄せたミコトは、くすくすと笑いながら、更に言葉を継ぎ
足した。
「今のこの人生も悪くないな、って思ってるんだよ」
意外な言葉に「おや」と、も一度眼を丸くしたガイの顔を見上げながら、ミコトは益々笑顔を深くしながらこう
言った。
「だって、宇宙の平和を守って戦うだなんて、滅多矢鱈にできる経験じゃないものね」
感謝してるくらいだよ。
そう聞いて、ガイの胸にはますます愛しさが溢れてくる。
ミコトが居てくれて本当に良かった。
これまで何度もそう思ったけれども、今更ながらに強くそう思う。
愛した女性がミコトで良かった。そして、彼女が自分と同じように、いや、それ以上に自分を想ってくれている
ことが、こんなにも嬉しくて堪らない。
「ミコト…」
感激の余り適当な言葉が見つからなくて、ガイはぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた。
それでも溢れる愛しさは止まらなくて、彼女の耳元でそっと囁く。
「キス、してもいいか?」
ホントはすぐにでも押し倒したい気分だが、さすがにそれはマズかろうと思い留まる。
そんなガイに返ってきた返事は、くすくすという笑い声。
「そんなこと言っていいの? F級待機とはいえ、まだ勤務中だよ?」
けれど咎めるような台詞とは裏腹に、伸ばされた細い腕がガイの首に絡みつく。そんなミコトの反応にガイもま
たくすりと笑みを浮かべると、無防備な紅いくちびるにそっと触れた。
「愛してる」
この世の何よりも甘いデザートをうっとりと味わいながら、ガイは思う。
ふたりでならきっと、どんなことも『幸せ』に変えていけるだろう、と。
ごくごく平凡な人生とはすっかり縁遠くなってしまったけど、昔々に夢見ていた未来とはまるっきし違う人生にな
ってしまったけれど、どんな未来が待ち受けていようとも、ふたりでならきっと、乗り越えていけるだろう。
何も悲観する事はないのだ。
これからもずっと、ふたり手を取り合って歩いて行こう。
ふたりで紡ぐ『薔薇色の人生』を。
--- FIN ---
2002.7.24脱稿