備後 安国寺・阿弥陀三尊立像 他


1月の比較的暖かい日を選び、(いにしえ)より、潮待ち、風待ちの港で知られている鞆の町の古刹を巡った。今までに数度訪れているが、けばけばしたところが無くこじんまりと落ち着いた風情のある町である。平日の所為もあってゆっくりと拝観できた。


                                 
安国寺 瑞雲山安国寺(臨済宗)は無本覚心(むほんかくしん)(法燈国師)によって文永10年(1273)に安国寺の前身である金宝寺が創建され、釈迦堂(仏殿)が建立された。翌年阿弥陀三尊像を造立。
 
 釈迦堂(正面)重要文化財
室町時代に入り、足利尊氏により寺号を「安国寺」と改称。その後寺勢は衰退するが、毛利輝元、安国寺恵瓊により再興。江戸時代初期(寛文年間)に京都妙心寺の末寺となる。大正9年(1920)法堂が焼失。昭和に入り釈迦堂を大修理し現在に至る。
(参考:フリ-百科事典「Wikipedia」)


          (写真をマウスポインタ-で指すと説明が出ます)



善光寺式阿弥陀三尊立像(一光三尊)阿弥陀三尊立像(国重文) 一光三尊形式で、三尊が一枚の大きな光背を背負う形になっている,通常「善光寺式阿弥陀三尊像」と呼ばれている形式である。
 鎌倉中期の作(中尊の胎内に文永十一年(1274)に大仏師覚尊が造立の墨書銘があるとのこと)で寄木造。光背を含めた総高313㎝。

 
阿弥陀如来立像(中尊) 像高170㎝玉眼、納衣を通肩に着け右手は施無畏印を結び、下げられた左手は中指と人差し指の2指を伸ばし、他の指を曲げる形の特殊な印(刀印)を結んでいる。
 
 
聖観音立像(左脇侍…向かって右)、勢至菩薩立像(右脇侍…向かって左)いずれも像高130㎝。両脇侍ともに頭上に多角形の宝冠をかぶり、両手は胸前で掌を水平に重ね合わせる(右脇侍は右手を上に、左脇侍は左手を上に)独特の印(梵篋印(ぼんきょういん)を結んでいる。

 三尊全体が背負う蓮弁形光背(舟形光背)は7体の化仏を配し、雲形模様を彫り出したもので高さ約3mの大きい光背である。

 尚、鎌倉時代から室町時代にかけて全国で多く造られた(一説には200体とも云われている)善光寺式阿弥陀三尊のなかで当寺の像ほど大きいものは無く最大の像とされている。また、刀印、梵篋印は善光寺式阿弥陀三尊に共通する特徴とされている。


三尊が一枚の光背を背負う形


阿弥陀如来立像:納衣を通肩に着け右手は施無畏印を結ぶ。

下げられた左手は中指と人差し指を伸ばし他指は曲げる刀印を結ぶ。

勢至菩薩立像(右脇侍…向かって左)多角形の宝冠をかぶり、梵篋印を結ぶ

聖観音立像(左脇侍…向かって右)多角形の宝冠をかぶり、梵篋印を結ぶ。
                        (写真をクリックすると拡大します)



法燈国師坐像法燈国師坐像(国重文) 鎌倉時代の作で、像高84㎝、寄木造、玉眼。法燈国師(無本覚心)(1207~1298)臨済宗の僧で長野出身。1235年東大寺で受戒、のち高野山で密教を学び、禅定院で禅を学ぶ。姓は恒氏、無本と号した。亀山法王より「法燈国師」、後醍醐天皇より「法燈圓明国師」の勅諡された。
(参考:フリ-百科事典「Wikipedia」)

 胎内墨書銘に建治元年(1275)覚心とありとのことで69歳の時の寿像であることがわかる。曲彔(きょくろく)に坐り、身につけた衣の裾を長く垂らし襞は写実的である。



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 尚、同寺には石造地蔵菩薩坐像 鎌倉時代の作で像高120㎝。また、境内には水野多門(福山藩2代藩主水野勝俊の早世した三男)の大きな五輪塔、及び鞆地方独特の石塔「鞆の津塔」がある。


石造地蔵菩薩坐像鎌倉時代の作、像高120㎝地蔵堂に安置

水野多門の五輪塔寛永9年(1654)の銘あり、総高略3m境内墓地にあり。

鞆の津塔
総高略3m、境内墓地にあり。

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       (後日、電話で仏像写真の掲載許可をお願いしたところ快く了承いただき深謝)


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