滝蔵山医光禅寺

 

 過日、山陰の古刹、国道191号線沿いにある雪舟庭で著名な
医光寺を拝観した。伽藍の規模は大きくないが整った趣のある寺容である。

                               
医光寺医光寺(益田市染羽町)は瀧蔵山医光禅寺(本尊・薬師如来坐像)と称し、臨済宗東福寺派の古刹である。
 開山は龍門士源(りゅうもんしげん)貞治2年(1363)の創建で崇観寺と称したのが始まりで、益田兼弘(九代)の保護と援助で栄えた。南北朝時代、益田兼見(十一代)は当寺に対し尊崇の念深く、崇観寺、万福寺など領内の小庵に至るまで退転のないようにと命じている。
 
 その後、文明十一年(1479)には画僧雪舟(諱は等楊)の来山などにより一層の繁栄をみたが、益田宗兼(十七代)が現在地に医光寺を建立し保護を加えたことにより崇観寺は衰退の一途をたどり、加えて諸堂宇の焼失で医光寺と合併するに至り、寺容は整備された。
(参考:医光寺パンフレット)
 
 尚、現在の諸堂は享保14年(1729)の大火後建てられたもので、総門、中門、鐘楼、本堂、開山堂、庫裏などを備え、小規模ながら寺容は整っている。
 
 また、境内庭園は雪舟の築庭と伝えられており、国の史跡・名勝に指定されている。

総門
 
 
医光寺総門(写真右) 島根県指定有形文化財。
高麗門形式、屋根は切妻造、本瓦葺き、中央を高くして、両側を一段低くした造りとなっている。
 
 この門は慶長5年(1600)の関が原の戦いの後、益田元祥(ますだもとよし)(20代)の長門国須佐への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門を移築したもの。
 七尾城の大手は医光寺の南に見える七尾城山中央の谷間と考えられている。南北朝時代に当時の大手口「北尾崎木戸」で三隅方と合戦があったことが益田家文書に残っている。17世紀後半に屋根を改修したといわれている。
 本柱、冠木共に太く戦国時代末期の豪壮な城門の姿を好く残している貴重な建造物です。(説明版より)







雪舟庭園 
雪舟庭園
 広さ666坪(2,198m2)裏山を利用した池泉鑑賞半回遊式の庭園で、文明十一年(1479)頃雪舟が来山し造園。
 
 武家様式で、鶴を模った池に亀島を配している。亀島には中心石と三尊石を置いている。

 本堂の縁に静かに座して眺めると、禅の解らない小生でも、そこに配された自然石、木々が語りかけて来るような感覚を覚える。禅の心は”以心伝心”だそうです。



本堂と開山堂(左)益田宗兼の墓
 本堂と開山堂(写真左)本尊の
薬師如来坐像は日光・月光菩薩と共に三尊形式である。像高100cm、頭部は肉髻を殆ど表していない。納衣を通肩に着け、蓮華坐に座している。脇侍の日光・月光の両菩薩も一具のものとして造られておりバランスのとれた立像である。
 
 
益田宗兼(益田家17代)の墓(右)
宗兼は、医光寺の前身崇観寺のすぐ南に医光寺を建立した。


このたびの医光寺拝観は、同市内のグラントワ・石見美術館の企画展「千年の祈り・石見の仏像」を鑑賞した帰路に訪れたものである。
 
 
最近、仏像関係の企画展を立て続けに鑑賞する機会に恵まれた。即ち、九州国立博物館の「阿修羅展」、三次市(広島)奥田元宗・小由女美術館の「円空・木喰展」であり、そして石見美術館の「千年の祈り・石見の仏像展」である。
 「阿修羅展」では、天平時代の脱活乾漆造による八部衆の表情の妙に感動。 「円空・木喰展」では、独自性の少ない形式化された江戸時代の仏像彫刻の中、円空や木喰の特色豊かで素朴な仏像に庶民との信仰の結びつきを感じ、また、「石見の仏像展」では仏像を通して石見地区の歴史と文化を垣間見ることが出来た次第である。

 何れの企画展も、寺院で拝観するのとは異なり、比較的自由な角度で鑑賞することが出来て、一仏像ファンには大変ありがたいことで、良い勉強になった。


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