湖東三山
厳しかった残暑も収まった9月晦日、同好の仲間と湖東三山を巡った。三山の参道は、折からの小雨で木々の緑がいっそう鮮やかであった。
湖東三山とは、琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西側山麓に位置する天台宗三ヶ寺の総称で北から順に西明寺、金剛輪寺、百済寺のことを指す。
西明寺 滋賀県犬上郡甲良町池寺にある天台宗の寺院。山号を龍応山(りょうおうざん)と称し、開創は承和元年(834)と伝わる古刹である。
戦国時代、織田信長配下による焼き討ちに遭ったが、幸い本堂、三重塔、二天門は焼失を免れたという。(参考:西明寺発行パンフレット)
二天門(重文):3間1戸八脚門、入母屋造、杮葺き。室町初期の建立。左右には持国天、増長天の二天王が寺を守っている。
本堂(国宝):桁行7間・梁間7間、一重、入母屋造、向拝3間、檜皮葺、鎌倉時代前期の和様建築。堂内には中央厨子の両側に薬師如来の脇侍である日光・月光の両菩薩(鎌倉時代)と眷属の十二神将(鎌倉時代)のほか清涼寺式釈迦如来立像(鎌倉時代)、阿弥陀三尊(鎌倉時代)、二天王(広目天・多聞天)立像(貞観時代)、不動明王立像と矜羯羅・制吒迦の二童子など多くの重要文化財の仏像が安置されている。
三重塔(国宝):檜皮葺の和様建築、本堂に向かって右に建っている。鎌倉時代の建立。
持国天立像・増長天立像:四天王の内、持国・増長の二天が守るので二天門と呼ばれる。説明立札によれば、西明寺二天門の像は像高約200cmで寄木造の像で、正長2年(1429)仏師院尋(室町時代の院派の仏師と思われる)によって造られたとある。
金剛輪寺 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺にある天台宗の寺院で山号を松峯山と称す。天平13年(741)僧・行基による開創と伝えられる。本尊は聖観世音菩薩で僧・行基の作と伝えられている。嘉祥年間(848~850)には延暦寺の慈覚大師円仁が來山、天台の寺となる。天正元年(1573)織田信長の兵火で金剛輪寺も被害を被ったが本堂、三重塔、二天門等は焼失を免れた。(参考:金剛輪寺発行パンフレット)
総門(黒門):を入り参道を進む、左手にある本坊明寿院の門(白門)を入る。池泉回遊式庭園と茶室水雲閣を見て、両側に千体地蔵の並ぶ参道を更に進むと二天門、本堂とその左側に三重塔がある。
明寿院:金剛輪寺の本坊。桃山時代~江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園がある。昭和52年(1977)の火災で焼失したが翌53年(1978)再建された。(参考:パンフレット)
水雲閣:江戸時代末期に建立された茶室。(参考:パンフレット)
参道の両側には千体地蔵が並び、赤い風車がある供えてある。また、付けられている涎かけは信徒の寄進によるもので、年3回かけ換えられるとのこと。(参考:金剛輪寺発行パンフレット)
二天門(国重文):桁行3間・梁間2間、一重、入母屋造、檜皮葺で室町時代の建立。大きなわらじが掛けてある。左右には持国天、増長天(仁王ではありません)が寺を守っている。
本堂(国宝):桁行7間・梁間7間、一重、入母屋造、檜皮葺の和様建築、須弥壇の金具に弘安11年(1288)の銘があるとのことで鎌倉時代の建立と思われる(参考:Wikipedia)本尊の聖観音は秘仏。
堂内には阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)、不動明王立像(鎌倉時代)、毘沙門天立像(鎌倉時代)、持国天・増長天・広目天立像・多聞天立像の四天王(いずれも鎌倉時代)を始め数々の重要文化財が安置されている。(本堂の写真は同行者U氏の撮影)
総門(内側):2本の本柱の上に切妻屋根を載せ、本柱の内側にそれぞれ控柱を立て本柱と控柱の間に小型の切妻屋根を被せた高麗門 形式になっている。
百済寺 滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院で山号を釈迦山と称す。近江国最古の古刹と云われており、推古天皇の御代に聖徳太子の願いにより百済人のために創建されたと伝えられる古刹である。平安時代に入り比叡山延暦寺の勢力下に入り天台宗の寺院となる。当時は本堂に楼門廻廊を配し五重塔を始め多くの堂宇があり壮大な大寺院であったようだが、明応7年(1498)の火災、文亀3年(1503)の兵火で古建築物の多くを焼失した。更に天正元年(1573)の織田信長の焼き討ちで寺勢著しく衰退。慶安3年(1650)に現在の本堂、仁王門、山門等が竣工した。(パンフレットの要約)
受付を済ませ、仁王門へと続く長い石段を歩く。途中、左手には、坊の跡と思われる広場に石造弥勒菩薩半跏像が造立されている。更に進むと仁王門がある。(三山の中で一番長い参道か)
仁王門:入母屋造、檜皮葺の袖付八脚門。江戸時代の建立で井伊氏の寄進によるものだそうです。先に拝観した湖東三山の内の2ヶ寺は二天門であったが、当寺は仁王門である、したがって両サイドには阿吽の金剛力士が寺を守っている。
本堂(国重文):桁行5間・梁間5間、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺。江戸前期の建立。
本堂の脇には、樹齢千年と云われる「千年菩提樹」がある。太い根元は苔むしているが、枝を大きく四方に広げ、織田信長の焼き討ちにも耐えて、、百済寺の波乱に波乱に満ちた長い歴史を見守ってきたのであろう。
百済寺の梵鐘は、その余韻の長さと音色の美しさで「昭和の名鐘」と呼ばれている(立札より)とのこと。誰が撞いたか ”ゴ-ン オンオンオン・・・” の余韻を脊で聞きながら、帰路は石段を避けて、なだら坂(脇参道)をたどった。
「史跡と古寺巡歴」のトップペ-ジへ