秋 篠 寺

9月中旬,台風を心配しながら2日間に亘り、いにしえの都・奈良の古寺を廻った。平城京の北西に位置する秋篠寺は、静かな住宅街の奥にあり、技芸天のおわします寺、或は秋篠宮家の名の由来となった寺として有名である南門
 秋篠寺は弘仁天皇の勅願で宝亀11年(780)法相六祖の一人である善珠僧正による開基とされているが、天平時代葬送儀礼を司る地元の豪族秋篠氏の氏寺が光仁天皇の勅願寺に変えられたとの説もあり、具体的な創建の時期や事情については明確ではないと言われている。奈良朝最後の官寺で当初は金堂をはじめ東西両塔など主要伽藍を備え、広大な寺領をもって栄えたが平安後期の保延元年(1135)兵火にかかり、講堂以外の伽藍の多くを焼失し、また文永年間(1264〜1274)以後寺領について西大寺としばしば争い、いご次第に衰えた。宗派は当初の法相宗から真言宗、浄土宗と変わり現在は単立宗教法人となっている。(この項参考:ジャポニカ、フリ−百科「ウィキペディア」


東塔の礎石東門前でタクシ−を降り、門を入るとそこは森閑とした雰囲気の森で、正面に本堂を見ながら左に曲がる、路の両側にグリ−ンの絨毯を敷き詰めたような苔庭を眺めながら南門(本来は南門が正門ですが、タクシ−など車を利用の場合は東門を利用される方が多いようです)に向かって進むと南門の手前直ぐ左手に往時の寺勢を偲ばす東塔の礎石を間近に見ることが出来る。会津八一の歌碑
 


そして小路を挟んで向かいには会津八一(※)が詠んだ
  
「あきしのの みてらをいでてかへりみる いこまがたけにひはおちむとす」
                        

の歌碑がある
 (※)会津八一……(1881〜1956)新潟生まれ、歌人、美術史家、書家、8月1日生まれで八一と名付ける。
              雅号は秋艸道人、渾斎、八朔、 文学博士、早稲田大学名誉教授




しっとりとした落ち着きの本堂受付を済ませて本堂に向かう、しっとりとした落ち着きを見せる本堂は、天平時代の創建当初は講堂として建立されたが、金堂が保延元年(1135)の兵火で焼失したため、鎌倉時代に講堂の大修理を行い以後本堂と呼ばれたいる。鎌倉時代の建築であるが、創建当初の様式を伝える純和様建築である。桁行5間・梁間4間・瓦葺・寄棟づくり。(この項参考;秋篠寺沿革略記)

 中に入ると、堀辰雄(※1)が「東洋のミュ−ズ(※2)」と呼んだと云う技芸天のやわらかい微笑に迎えられた。正面に薬師如来坐像、左右に脇侍の日光・月光の両菩薩立像、並びに眷属の十二神将そして、地蔵菩薩立像不動明王立像愛染明王帝釈天立像などが天平〜藤原〜鎌倉時代の雰囲気を醸し出して安置されている。
 
帝釈天と技芸天はいずれも災禍による破損のため、天平時代の頭部(脱乾漆)と、鎌倉時代の体部(寄木造)という造像法の異なる組合せになっているが違和感はまったく感じられない。もっともこの技芸天にはその像容から違う尊名の像ではないかとの見方もある。
 
何年ぶりかでここの諸尊にお会いしたが、特に技芸天の柔らかな微笑とその肢体の妖艶さは、やはり諸仏の中で随一の美人である。

 かみなり石
 天平の美女に余韻を残しながら外に出て、ふと白塀を見るとその間際に「かみなり石」と標石の付いた自然石が眼に留まった、特に何の説明も付いていなかったが、妙に気になり頭の中で寺の小僧さんが和尚にかみなりを落とされて(叱られて)恐怖のあまり固まって石になったのかと勝手なことを想像しながら秋篠寺を後にした。(このこと今も気にかかりいろいろ調べたがよく判らない、やはり寺で聞いておくべきであった)


(※1)堀辰雄…(1904〜1953)小説家、詩人。東京生まれ。「聖家族」が出世作となる
          独特な知性と叙情の融合で人間の愛と死を描いて昭和文学の中で
          特異な世界を築いた。(参考;ジャポニカより)
(※2)ミュ−ズ…ギリシャ神話で文学、学術、音楽、舞踏などを司る女神ム−サの英語名。(国語辞書)


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