新しい出逢い
診察台の前の椅子に座ると、その先生は、
「おはようございます。○○です」とご自分の名前を告げられた。
正直驚いた。名札の見えない私にとっては、それは、このうえもなく有り難く、何よりもこれから診察していただく
ドクターが誰であるのかが知らされることでの安心感は計り知れない。しかし、多くの眼科の先生が、ご自分の
名前を自ら名乗られることは、ほとんどないのではないだろうか。
一通り丁寧に診察をしてくださった先生は、その後、丁寧に説明もしてくださった。そして、
「右眼の痛みも大変でしょうが、残っている左眼も大事にしましょう」そう優しく行ってくださった。
ここ数ヶ月の不安、やりきれなさ、悔しさ、淋しさ、哀しみ、迷いなど様々な心の中の陰りが、一瞬にして晴れた
ような気がした。
まるで、自分の残された左眼や光を失った右眼の存在を否定されているような気がしていたここ数ヶ月、正直
自分でもどう心の中で整理をつけて、これから先自分が選択するべき道がどこにあるのか、まるで、迷子のよう
な気持ちになっていたのだが、この先生のおかげで、私は、救われたのかもしれない。
ほんの僅かでも、私の眼が、この世に存在する価値をきちんと認めてくれた医師が居てくださったことに、心か
ら感謝せずにはいられなかった。
この日、私は、ここ数ヶ月の診察日とは全く違ったあたたかい心で、安堵と感謝の気持ちで家路につくことが
できた。
私は、また新しい出逢いという小さな幸せを感じずにはいられなかった。
病院とは、この残された左眼が光を失うその時まで縁がきれることはないだろう。そして、これから先、幾人の
先生に診ていただくことになるかはわからない。でも、この旅の新しい先生との出逢いは、私に、
「まだまだ諦めなくてもいいんだよ。僅かな視力であっても貴女の左眼は大切なものなんだよ」
そう導いてくださったような気がした。
私は、今更、今以上の回復を望むわけでもなく、積極的な治療を望むわけでもない。
ただ、私の眼にもきちんと命が宿っていること、そして、それは、他の人と同じように大切なものに代わりがない
ことを判ってほしいだけなのである。
大切なのは、視力という数値や治るか治らないか、積極的な治療法があるかないかだけではないことを多くの
眼科の先生に市ってほしい。