追  憶

 平成元年3月28日、その日が、私の右眼の命日であり、そして、私の新しい人生のはじまり
の日でもある。
 忘れもしない、あの日、窓の外は春の雨だった。
 夕方の診察室で、母と二人、先生から告げられた、「もう、これ以上はどうにもならない」
と…。高校2年の3学期だった。
 昭和62年9月4日、右眼のはじめの網膜剥離の手術から3度目の手術を受けた後のことだ
った。最初の手術の段階で、すでに手の施しようのないほど右眼の網膜剥離は進行していた
ことを後に母から知らされることになるのだが、右眼の再剥離を告げられたとき、私は、迷わず
再手術を希望した。今思えば、若さゆえの選択だったのかもしれない。
 ただ、可能性が、ゼロでない限り、私は、その可能性に賭けてみたかった。

 大切なのは、いかに長く見えたかではなく、見える間にいかに何をしたか。右眼のために、
 どれだけのことをしたかだ

などと生意気なことを言い、可能性がゼロになるまで手術をしてほしいと懇願した。

 周囲の誰もが反対した。なぜならば、手術をしてもしなくても「見えなくなる」という結果は、同
じだったかもしれないが、手術をしなければ、もしかするとその当時の視機能が少しは長く継続
したかもしれないからだ。確かに、再剥離を告げられてから1年以上経過していたが、物の輪郭
程度は見えていた。それでも、当時の私は、いつ見えなくなるかという漠然とした不安と残りの
可能性に拘った。

 平成元年1月に入院、3ヶ月の入院中に2度の右眼の手術を受けた。そして、私の右眼は、光
を失った。


 「もう、これ以上はどうにもならない」そう告げた先生が、どこかとても辛そうだったのは、私の
気のせいだったのだろうか。
 
 その日を境として、私は、右眼への拘りを捨てた。右眼が、見えていたという現実との決別、
そして新たな生き方の模索をはじめた。「もしも、残された左眼が視力を失ったときに、後悔しな
いですむ生き方をしよう」、「この右眼に最後まで全力を尽くしてくれた多くの人たちに恥ずかし
くない生き方をしよう」、「この右眼の分まで左目を大事にして、いざという時にも自分を見失うこと
だけはやめよう」と…

 平成9年3月28日、奇しくもその日は、左眼の網膜剥離の手術の日となった。単なる偶然だろう
が、右眼の命日に左目の網膜剥離の手術とは…。

 そして、今、左眼は、失明することなく、私に、この世の中の光を、そして季節の移ろいを見せ続
けてくれている。

 もしかしたら、右眼の命日に、網膜剥離という同じ病気で手術を受けた左眼を、右眼の想いが
救ってくれたのかもしれない。