思いつくままに
昔の思い出とか
日常生活で心に強く感じたことなど
思いつくまま書いてみたい。
(06年2月18日記)
私は昭和4年浅口郡西阿知町片島(現在の倉敷市片島町)で生まれた。
西阿知国民学校を卒業し、金光中学校へ入学すると同時に、
倉敷市日ノ出町へ転居した。
倉敷から金光まで列車通学をしていた。
といっても、第三学年の夏から乙島の軍需工場へ動員され、
全員寮生活をしていた。
私たちの学年は、大東亜戦争が始まって最初に中学校へ入り、
終戦になって最初に卒業した。
いわゆる中学校の授業を一番受けていない学年の一つだったろうと思っている。
勿論、小学校、中学校の卒業旅行もやっていない。
(06年2月20日記)
乙島の工場へは、学徒としては私らのほかに、
金光中学の五年生、玉島高女の五年生、三年生、
さらに、成羽高女の三年生が動員されていて、
全員寮生活をしていた。
私たちの寮は、一番海寄りで風当たりはきつかったが、
瀬戸内が一望できるすばらしい眺望だった。
結局、この寮で一冬を過ごしたが、
寒くても寮には火の気は全然なく、
便所も別棟になっており、一度用を足してくると、
体が冷え切ってしまうような状況だった。
しかし、そこはよく出来たもので、
当時は一度寝付いたら朝までぐっすり寝ていられたものだ。
食堂や風呂もはるか離れたところにあり、
真冬など風呂から帰りに、タオルが凍りついて固くなったような事もあった。
今から考えると、ずいぶん不便な生活をしていたものだと思うが、
戦時下という事を割り引いても、
当時、これが家を離れた学生たちの普通の生活だったのだと思われる。
(06年2月22日記)
今でもたびたび目に浮かんでくるのが、
冬の朝、眼前に広がる瀬戸内の島々が海面より浮き上がって見えたことである。
当時奇異に思って眺めていたが、
これは後になって蜃気楼の一種で「浮島現象」であることがわかった。
休日は毎月二日と二十二日の二日だったと記憶しているが、
それ以外は土曜も日曜もなく、毎朝寮の前で整列し、
工場まで学徒動員の歌を斉唱しながら四列縦隊で行進したものである。
花も蕾も 若桜
五尺の命 ひっさげて
国の大事に 殉ずるは
我ら学徒の 面目ぞ
あゝ紅の 血は燃ゆる
後につづけと 兄の声
今こそ筆を 擲ちて
勝利揺るがぬ 生産に
勇み起ちたる つわものぞ
あヽ紅の 血は燃ゆる
君は鍬とれ 我は槌
戦う道に 二つなし
国の使命を とぐるこそ
我ら学徒の 本分ぞ
あゝ紅の 血は燃ゆる
何をすさぶか 小夜嵐
神州男児 ここにあり
決意ひとたび 火となりて
護る国土は 鉄壁ぞ
あヽ紅の 血は燃ゆる
(06年2月24日記)
動員時代一番つらかったと言うか、
身にこたえたことは「空腹」だった。
当時の食事は麦飯が小さな茶碗に一杯位の量で、
副食としては塩で味付けした汁の中に
大根の葉の干したのが浮かんでいるというのが主体で、
終わりごろには飯の中に大豆やとうもろこしが入ったり、
さいころ状に切った大根が入っていることもあった。
食べ盛りの年頃だけにとても満足できるものではなかった。
食堂では食券と引き換えに食事にありつけた。
時たま急用で帰宅した友人の食券で「二杯飯」を食べた事もあったが、
空腹感は消えず、
不思議なもので食べても食べても
満腹感にならなかったような気がしている。
当時の楽しみといえば、
なんといっても休日に帰宅して、
食事する事だった。
食料不足の時代とはいえ、
母の配慮もあってだと思うが、
我が家の食事は大ご馳走に感じたし、
腹いっぱい食べる事ができた。
(06年2月26日記)
当時、乙島の工場では、水島の飛行機(一式陸上攻撃機と称していた)の部品を作っており、
私は工員の指導のもと、級友と3名で「起動用燃料タンク」なるものを作っていた。
これは飛行機のエンジンを始動させるための良質の燃料を入れるタンクで、
製作に当たっては一連番号がついていた。
工場へ入った当初、詳しい数字は忘れたが、その数字が非常に小さく、
ということは、これだけしか飛行機が出来ていないということであろうから、
こんなことで戦争が出来るのだろうか、
「これは何かおかしいぞ」と思ったことを今でも覚えている。
しかし、ただただひたすらに、
とうもろこしや大根などの混ざった食事を食べながらも、
皇国の勝利を信じて邁進したものだった。
(06年2月28日記)
明けて昭和20年になると、
日本各地への空襲が激しくなり、
タンクを作る部品の供給が滞るようになり、
終日待機ということも珍しくなくなった。
ついに工場を出て、玉島の七島地内で陸軍の兵士の指揮のもと、
小山の山腹に軍馬の薬品貯蔵用の横穴を掘る作業に従事した。
同時に工場の寮からも出て、我が家から通うことになった。
結局、横穴を15mほど掘り進んだところで終戦になってしまった。
8月15日の終戦の日には、
正午にあったとされる玉音放送は
私たちのところへは全然届かず、
その日の作業を終えて帰宅の途中、
学校の上級生から、
戦争の終わったことを聞かされた。
これまで信じてきただけに、
あまりのことに呆然としたことを憶えている。
当日は真夏の太陽がぎらぎらと照りつけ、
焼け付くような暑い日だったが、
今でも真夏の暑い日には「終戦の日はこんな日だったな!」
と感慨に耽ることがある。
それだけあの日のショックは大きかったのだと思う。
(06年3月4日記)
当時、幼かったし、また、教育も徹底していたので、
私たちの命は国へ捧げたものであり、
いくら永らえても25歳を超えることはあるまいと信じていた。
それならば少しでも早く軍へ入り活躍したいものだと考え、
昭和20年の初夏であったと思うが、
航空予科士官学校なるものを受験した。
この試験は京都の平安神宮で実施された。
岡山県からは30名前後の受験者だったと思うが、
前日に各地から岡山駅に集合し、
下士官の引率のもと京都へ向けて出発した。
ところが、加古川駅の一つ向こうの土山駅まで行ったところ、
空襲警報が出て列車を降りて退避をしたりした。
結局、大阪が空襲を受けているとかで、
加古川駅まで引き返し、加古川線、福知山線を通って福知山へ出て、
福知山から山陰線で迂回して京都入りをしたことを思い出した。
特異な経験をしたので忘れずにいるのだろう。
平安神宮での適正試験の結果「操縦適」の判定をいただき、
正式発表を待つだけになっていた。
ところがその発表時期が終戦と重なってしまい、
私の軍学校は幻に終わった。
数年後のことになるが、
満25歳の誕生日を迎えた時には戦時中のことを思い出して
感無量であったことを鮮明に憶えている。
(06年3月7日記)
終戦の翌年、中学校を4年で卒業し、
岡山農業専門学校の1期生として入学した。
開校直後の学校とて、備中高松にある高松農業高校の
敷地内に急設されたバラック校舎での授業だった。
卒業間近の短期間のみ、現在の岡山大学のある場所で勉強した。
勿論、教室は旧軍隊の兵舎であった。
終戦直後の物不足の激しい時代で、
岡山から備中高松までの通学は貨物列車で牛や馬なみであった。
(それでも、無蓋車でなく有蓋車であったのが救いだったが)
しかし、物はなくても若さは一杯で、運動に、勉学に、
そして級友との話しに熱中したものである。
(06年3月9日記)
農専時代には軟式テニスに明け暮れた。
勉強に行っているのかテニスに行っているのかわからないほど熱中したものである。
入学後、運動部が次々と創られていったが、
なにぶん学生数が少ないうえに、
物資のないことからいろいろの苦労があった。
バスケ部などは部員4〜5名で、
施設も運動場の庭木に取り付けた片方だけのバックボードで練習していたものである。
私たちのテニス部は部員こそ10名前後で、
コートも農学校の借り物ながら一応整っており、
その点では恵まれた部であったが、
部員のほとんどが戦時中学徒動員などで学窓を離れており、
初めてラケットを握るといった素人ばかりだった。
また、指導者もおらないといった状況だったが、
練習だけは閑を見つけてというより、積極的に時間を作り出して熱心にやったものだ。
上達はあまりしなかったが、
3年生の時には中四国大学高専のテニス大会が岡山であり賞を貰った事を憶えている。
(06年3月11日記)
ここでテニス以外の思い出を一つ書いてみたい。
それは3年生の時の大学誘致運動のことである。
全国的に学制改革の話が起こり、
当時の大学、専門学校を統合して綜合大学を創るということで、
しかも、一時、中国地方で一校のみという話が流れた。
私たちは医大、六高、師範などとともに
総合大学は是非岡山へということで激しい運動を行った。
署名活動とか岡山駅前でのマイクならぬメガフォンでの呼びかけなど、
各校の先頭に立って情熱を燃やしたものである。
今でこそ街頭での呼びかけは日常茶飯事であるが、
終戦直後の当時では非常に珍しいことだったこともあって、
山陽新聞に我輩のメガフォン姿の写真が載ったりした。
(06年3月13日記)
農専では農科と園芸科があって、
私は農科へ入学した。
また、3年生になると専攻科目で分かれることになっており、
私は農業土木を専攻した。
農業土木の先生は椙原先生であったが、
3年生になって1回か2回の授業の後、
急に家事に従事されるとかで、退職されてしまった。
卒業間近に澤田先生が着任されるまで、
専攻の時間はいつも空白で、
テニスばかりしていたような気がする。
それでも曲がりなりにも卒業さしてもらい、
卒業と同時に農業土木教室の助手として
学校へ残れるよう配慮していただいた。
したがって、幸いなことに二期生の専攻授業を一緒に勉強させてもらうことが出来た。
1年後、澤田先生のご努力で岡山県庁の耕地課へ入ることが出来たのである。
ちなみに、この時お世話になった先生が、
後に京都大学の学長になられ、
平成17年に文化勲章を受章された澤田敏男先生である。
(06年3月15日記)
県庁では、土地改良関係の技術者として
37年余の長きにわたってお世話になった。
一口に土地改良といっても、
30有余年の間には内容的に大きな変化があったように思う。
県庁へ入った当初では、終戦直後のこととて開墾とか干拓、
あるいは水不足解消のための灌漑など、
いわゆる食糧増産対策が主流であった。
世の中がやや落ち着いてくると、
農道とか圃場整備などの生産性の向上というか、
営農労力の節減対策となり、
さらには農村対策とか農村環境まで含めた内容にと、
大きく変化してきている。
技術者の思いは同じかと思うが、
物を作る仕事に従事してきたので、
苦労の結晶が目に見える形として存在していることが多いことであろう。
40年ほど前に担当したある溜池の現地へ行ったところ、
記念碑が建っており、
しかも、傍らに私の名前まで載っており、
一緒に行った家内に昔話をしてやることが出来、
非常に懐かしく思ったり、
うれしく思ったりもしたものである。
(06年3月17日記)
昭和62年3月末日をもって県庁を退職し、
4月1日から株式会社大本組にお世話になることになった。
3月31日まで県庁へ勤め、翌日の4月1日から新職場へということで、
定年退職をしたという感じがなくて、
県庁時代の勤務が継続しているかのような感じであった。
ただ、気持ちの上では、県庁時代の経歴を極力忘れて、
新入社員という気持ちで頑張ってきたつもりである。
私の場合も一種の天下りと言われるのかもしれないが、
最近、世間で騒がれたように、
旧組織から自動的に仕事が流れてくるようなことは全然ないし、
給料も半減した。
新人の一営業マンとして一生懸命頑張った。
営業範囲も町村などに広げて動き回ったものである。
第二の職場にもかかわらず13年間の永きにわたってお世話になった。
その間苦しいことも時にはあったが、
通じて楽しく勤めさせていただいたと思っている。
(06年3月19日記)
70歳の誕生月の末日をもって椛蝟{組を退職し、
50年余続いたサラリーマン生活に終止符を打った。
この時、県庁を退職した時にはあまり感じなかった退職者の感慨を
人並みに味わったような気がしている。
しかしながら、大本組での最後の1年間は週3日の勤務形態で、
いわゆるソフトランディングさしていただいたので、
その後の年金生活にスムースに入ることが出来たように思っている。
(06年3月21日記)
毎日が日曜になって考えたことは70歳も越えたことだし、
なんといっても健康とボケ防止だろうと思った。
健康面ではウォーキングをはじめ色々のことに気をつけだしたが、
ボケ防止で始めたのがパソコンであった。
私たちの年代はそれまでパソコンには全然縁が無かったが、
早速パソコンを購入し、マニュアルを眺めながら自習を始めた。
しかし、1箇所つまずくとそれから先に進めず、
職場と違って隣の人にちょっと聞くというわけにもいかず、
さっぱり理解できなかった。
そこで民間の教習所へワードとエクセルを習いに行ったが
「70の手習い」でたいした進化はなかった。
ただ、どうにかパソコンをいじれるようになった。
喜寿にはその記念としてホームページの作成にも挑戦し、
四苦八苦の末、曲がりなりにも小品を作ることが出来た。
これらがボケ防止に効果があるかどうかわからないが、
自分なりに納得しているだけでも、
プラスになっているのだろうと思っている。
最近はウォーキング、パソコン、読書、鉢いじりなどとともに、
家内の医者通いや買物などの運転手をつとめながら、
のんびりと過ごしている毎日である。
(06年7月10日記)
(姉との別れ)
私は、男3人女1人の4人兄姉の三男として生まれた。
長兄は終戦直後に亡くなっていたが、
姉とも、ついに永久の別れを迎えることになった。
長兄、次兄とは齢が離れていた関係もあって、
小さいころの記憶もあまりないが、
姉は直ぐ上だけに小さい時、
特に、幼稚園、小学生時代に非常に可愛がってもらった。
私は末っ子で、甘ったれであった関係もあって、
ものすごく世話をやかしたものだ。
幼稚園へは小学生であった姉に連れて行ってもらっていたが、
園に着いても姉を離さず、
姉は学校に遅れそうになり、泣きたい気持ちに度々なったと、
大きくなってよく聞かされたものだった。
私も70歳代後半になったが、今でも小学校の同窓会に出ると、
「お姉さんはどうされていますか」とよく聞かれたものだ。
それだけ同級生諸君にも、姉の私への面倒見のよさがやきついていたのだと思われる。
姉は、老いてもゲートボールなどで元気に活躍していたが、
2年ほど前に転倒骨折して寝付いてしまい、
終わりには植物人間のようになって、
この7月2日午後9時に静かに息を引き取った。
今にして思えば、小さいころの恩返しもろくにしないうちに
姉は逝ってしまったという気もしているが、
寝付いてから2年もの間、
息子夫婦の懸命の介護の様子を見ていただけに、
ここであの世へ旅立つ事もやむをえない事かなと思ったりもした。
しかし、7月5日に行われた葬儀では、
なかばあきらめの気持ちのうちにも、
いよいよ最後に棺の中に眠っている姉の周りに花を飾り、
棺の蓋を置くときには、
小さい時のことが走馬灯のように思い出され、
これで姉もほんとうに逝ってしまうのかと、
おさえても、おさえても思わず涙が出てしようがなかった。
(06年9月5日記)
(腰痛)
ここ2ヶ月ほど腰痛に悩まされている。
去る7月5日姉の葬儀から帰宅し、
10分ほど畳で横になり起き上がったところ、
腰に痛みを覚えた。
腰痛といっても普通に寝ていたり、まっすぐ立っていたり、
歩いている時はなんともないが、
ズボンをはいたり、顔を洗ったり、要するに前かがみになると、
腰骨のやや上の部分が引きつるような痛みであった。
早速、鍼や按摩にいってみたがよくならず、
次はカイロプラクチィックへいった。
そこでは色々調べた結果、
仙骨(脊髄の最下端)と腸骨(腰骨)の接点が離れて、
いわゆる捻挫を起こしているとのことで、
それを直したからだんだんよくなるが、
全治には6週間はかかるだろうとのことだった。
しかし、6週間を経過してもよくならず、
ついに2ヶ月が過ぎてしまった。
これまでも腰が痛くなっても1〜2週間で大体よくなっていたので、
今回も軽く考えていたが、
2ヶ月を過ぎるといささか心配になってきて、
倉敷中央病院の整形外科を受診した。
整形外科では1診の川口先生だったが、
腰が痛いと聞くや否や、
それでは「レントゲンを撮ってもらいます」とレントゲン撮影にまわされた。
レントゲンでは前への屈曲位と後ろへ反り返った姿を横から撮る写真と、
ベッドに横たわった姿で正面からと右を下にした格好の写真、
都合4枚を撮られた。
余談になるが、写真の結果が出て、
先生の診断を受けるまでには時間がかかると覚悟をしていたが、
1診まで帰ってみると部屋の前で補助員の女性が私の名を呼びながら待っていた。
中央病院ではすべて時間がかかるものと思い込んでいたので、
意外のスピーディーさにびっくりしてちょっと書いてみた。
さて、先生の診断だが、
私の体を触るでもなく、すべてレントゲン写真を見ながらの説明であった。
そこで先生の説明内容だが、
「脊髄の椎間板が狭くなっており、通常の2/3程度になっておるところがある。
これは年齢によるもので、長年かかってなったもので、元に戻す事は難しい。
したがって、これからはこの腰痛と上手に付き合っていってください。」
とつれないご託宣だった。
ただ、これからは屈曲位とか、反り返りとか、
前かがみになって重たいものを持たないようにとか、
患部をあまり温めないようになどの注意はあったが、
なんだか突き放されたような感じで、
私もつくづく齢をとったものだなと思ったしだいです。
帰宅後、家内と話をしながら、
最後には姉の葬儀の日から痛くなったので、
これは姉の私への置き土産だったのだろうと笑いあったものでした。
(06年12月17日記)
(腰痛2)
前回、腰痛について亡くなった姉の置き土産などと
不謹慎なことも書いたりしましたが、
4ヶ月ほど過ぎたころテレビで腰痛対策体操なるものの放送を見て、
直らなくても元々とその体操を試みたところ、
これまで続いていた痛みが軽くなり、
今では日常生活にあまり支障を感じなくなりました。
この体操がよかったのか、直る時期が来ていたのかよくわかりませんが、
まずは一安心しているところです。この体操とは
手と膝をついて、四つんばいになり
右手を前に上げると同時に左足を後ろへ上げる
約10秒したら元の四つんばいの姿勢に戻る
次に左手を前に上げると同時に右足を後ろへ上げる
これも約10秒行う
この体操を夜寝るときと、
朝起きたとき布団の上で毎日繰り返し行っている。
この体操で本当によくなったのかどうかわからないが、
素人なりに腰には良い結果があると思い、
さらに、継続は力なりで、以後ずっと続けている。
(06年12月19日記)
(パソコンの故障)
パソコンも機械ですから当然故障もありうるとの意識はありましたが、
快調に動いている間は、
その意識を無理やり頭の隅に追いやってしまっていました。
しかし、故障という悪魔は思わぬときに忽然とやってきます。
私の場合は先月下旬のことでした。・・・
毎日の記録をメモ代わりに使っていたので、
何年間の記録や、自分なりに組み込んでいたソフトも
きれいさっぱりと消え失せてしまいました。
ただ、ホームページだけはプロバイダーに残っていましたので、
それを取り戻すことができました。
今回の故障に懲りて早速1GBのUSBメモリーを購入し、
時々バックアップを試みております。
また、お店に頼みついでに、ハードディスクの容量も256BMから
512MB増量し、768MBにしてもらいました。
若干スピードが速くなったような気がしています。
とにかく、今回の故障で得た教訓は
「面倒でも日頃のバックアップを怠ってはいけない」ということでした。
(07年2月12日記)
(指輪)
もうかれこれ10年以上昔の話になるか!
会社で営業に励んでいるころのことだった。
ある日社長秘書から呼び出され、
お伺いすると、社長から、ある工事の受注について感謝の言葉があり、
その褒美だと思われる指輪をいただいた。
金色の地に小さなダイヤのような輝くものが散りばめてある綺麗な指輪であった。
それにしても指のサイズも聞かずにくださるとは、
一瞬、おかしいな?とは思ったが、
もともと期待していたものではなかったので、
そのまま有難く頂戴した。
社長がじきじきに渡してくださったことでもあり、
満更のものでもないと思い、
家内へ勿体をつけて大切にするようにと、その指輪を手渡した。
しかし、案の定、家内の太い指には嵌りそめもしなかった。
それにしても社長さんが直接にくだされたものでもあるし、
嵌らなくても、せめて会社での記念品にしたらと思い、
箪笥の中へしまいこんだ。
指輪のことも忘れたころ、
天満屋倉敷店で指輪のサイズを調節してくれるイベントの広告が入っていた。
そこで、忘れていた指輪を思い出し、
早速、家内と二人で天満屋へ持ち込んだ。
家内は、「これは大きな会社の社長さんからいただいたもので、
立派なものだと思うのでよろしく頼みます。」と
言わずもがなのことを言って手渡した。
店員は大事そうに受け取って、
技術者のところでひそひそ話しをしていたが、
家内のところへ持ってきて、「僅かなサイズの調節なら、この指輪でもできますが、
こう大きな差があると加熱しなければならず、
変色する恐れがあるので、すみませんがお断りします。」と
言いにくそうに話した。
私たちは不思議に思い、
思い切って「この品物のグレードは?」と尋ねたところ、
「キラキラ光っているのは、とにかくダイヤではありません。
地金も金ではなくメッキのようでございます。」と
申し訳なそうな返事だった。
店員が恐縮されればされるほど、こちらは恥ずかしく、
穴があったら入りたいような気持ちがし、
ほうぼうの体で引きあげてきた。
帰り道、家内と「恥ずかしかったが、
会社の名前を出さなかったのがせめての救いだったな!
もし出していれば会社が恥をかくところだった。」と
話し合ったものである。
それから、また指輪は箪笥の中で眠りについていたが、
最近、家内が体調を崩し、痩せてきたので、
指輪を取り出し嵌めてみると、すっぽりと嵌った。
しかし、家内も指輪を嵌めて街中へ出かけることもできなくなっているので、
今もまた指輪は箪笥の中で眠っている。
(07年2月26日記)
(亭主、元気で留守がいい)
私は、50年余のサラリーマン生活を70歳で終止符を打った。
表題のような言葉は聞いたことはあったが、
我が家には関係ないことだと思っていた。
家内は、私のサラリーマン生活中は毎朝早く起きて朝食を調えたり、
私を送り出した後は子供の世話、
老いては孫の世話と忙しいときを過ごし、
夜は夜で不規則な私の帰宅時間に付き合うということの連続だったと思っている。
したがって、私がサラリーマン生活を卒業した時点で、
私がのんびりしたと同様に、
家内も朝起きの時間や帰宅時間を気にする必要もなく、
のんびりした状態になってくれたものと思っていた。
ところが、先日家内が親類の奥方と話をしているのを、
別室で聞くともなしに聞いておると、
意外な話にびっくりした。
私が毎日家におるようになったら、
一日中、
うろつく私の一挙手一投足が気になり、
また、お昼はお昼で一人のときのように簡単には済ませにくくなり、
当分の間はストレスが高まり、
イライラが続いたということだった。
こんなことがあったとは、家内は一言も言わなかったし、
その話を聞いたときちょっとしたショックを感じた。
なるほどそんなこともあったのかと思い、
我が家でも「亭主、元気で留守がいい」が存在したのだなと、
あらためて感じたものである。
(07年3月27日記)
(亭主在宅症候群)
前回「亭主、元気で留守がいい」で、
定年後の我が家でのことを書いたが、
先日、テレビで「団塊の世代の退職問題」の番組を見ていたところ、
「亭主在宅症候群」なる言葉が出てきた。
早速、パソコンを開いて見ると、
これに関する記述が沢山載っており、
やはりこの問題は世間に広く存在するのだなと、
思いを新たにしたしだいです。
ただ、そのなかで主人を亡くされた方からの投稿で、
それはしょせん「ぜいたく病」というもので、
「たとえ寝たきりでもいい、ずっと一緒にいたかった」とか
「亭主在宅症候群なんてうらやましい。
居ないのは本当に寂しいものですよ、
ご主人を大事にしてあげてください」などの投稿がありましたが、
これを読んで少し救われたような、
ほっとしたような感じがしました。
私の場合、定年に相当するのが70歳と遅く、
また、最後の1年間は週3日の勤務形態だったのでソフトランディングができ、
比較的軽くてすんだのではと勝手に思っているところである。
(07年10月8日記)
(胃がん検診)
6月29日、友達の葬儀で熊山まで行き、
暑い中を1時間あまり立ちんぼして帰り、
夕方は夕方で、岡大まで同窓会の役員会に出かけた。
これが老骨に応えたのか、
それ以降今年の暑さともあいまって夏ばてとなり、
特に胃がやられ、食欲がなく、
少し食べても胃にもたれるような状況で、
体重も2〜3キロも痩せてきた。
ただ、私の身長からすると、これぐらい軽くなったほうが、
BMI方式の計算で標準体重に近づくのだが、
ただ、急に痩せていくのは気持ち悪いものである。
たまたま、市役所から「健康診査無料受診表」なるものが来ていたので、
これを利用して6年間受けていなかった胃がん検診
(バリュームを飲んでのレントゲン撮影)を7月24日に倉敷第一病院で受けた。
すると、8月になって倉敷保険所から精密検診の必要があるとの通知があり、
体調を崩していたときでもあり、
早速、倉敷中央病院で内視鏡の検査を受け、
2箇所から生検用の標本を採取していただいた。
内視鏡検査は前にも3回ほど受けたことがあるが、
何回やってもモニター画面に映っている自分の胃の中を
眺めながらの検査は気持ちのよいものではなかった。
終わって、担当者から「正確なことは言えませんが、
たぶん良性のもだと思います。」
との言葉があり一応安心して帰った。
検診結果の最終のお話は、10月4日にあった。
内容としては、
@がんの心配はない。
A胃炎である。
B加齢により噴門がややゆるくなっている。
の3点であった。
検査当日、担当者の話で安心はしていたものの、
検診から結果発表まで35日間もかかり、
なんとなく不安な毎日だった。
特に、家内をはじめ家族に心配をかけたようだった。
しかし、「終わりよければ、すべてよし」ではないが、
体調もよくなってきたようだ。
(これは、たぶん、涼しくなってきたせいが大きいと思うが。)
(07年11月6日記)
(中耳炎)
朝のウォーキングで戎通り商店街を歩いていたところ、
建築工事用の幕が張り巡らされているところに出くわした。
さて、ここには何があったかなと思ったが、
なかなか思い出せない。
最近もこの通りを歩いている筈なのに。
ところが、はるか昔のことを思い出した。
そうだ、ここには昔「中出耳鼻科医院」があったと。
あれは中学2年か3年のときだったと思う。
耳が疼き学校も休み、
この中出医院へ駆けつけた。
すると中耳炎とかで、早速手術をすることになった。
看護婦さんが麻酔を耳に注してくださり、
先生の順番を待っていた。
ところが、そのとき運悪く空襲警報と退避命令が発令され、
気がついてみると先生も看護婦も患者も誰もいなくなっており、
私も止む無く自宅へ帰ってしまった。
しばらくして、警報も解除になったので、
改めて麻酔をしてもらおうと医院へ行ってみた。
着いてみると看護婦が待ち受けており、
引っ張るようにして先生のところへ連れて行き、
直ぐに手術が始められた。
先生が「痛いぞ」言うと同時にメスを入れたらしく、
「うっ」と思わず声が出た。
麻酔が切れていたのか、
うめき声が出るほどの痛さだった。
しかし、瞬間的な痛さで助かったと思っている。
この思い出も、もうかれこれ60数年も前のことになるが、
痛さがひどかったので忘れずにいるのだろう。
(09年4月30日記)
(80歳の誕生日)
4月29日は私の誕生日でした。
遂に80歳の大台を迎えました。
私の誕生日は、
子供の頃は「天長節」、
終戦後は「天皇誕生日」、
さらには「みどりの日」、
そして、現在では「昭和の日」となって、
生まれてこの方、私の誕生日は祝日でお休みでした。
ただ、このお休みもall Sundayの年金生活の今となっては、
どうでもよいことかもしれませんが・・・・
いろいろの面で衰えを感ずるようになりました。
体力の減退は勿論ですが、
脳の働きもずいぶん衰えたような感じです。
人の名前が出てこないことなど日常茶飯事で、
もうあきらめの境地です。
ただ、必要がなくなった頃に、ころっと思い出すのは不思議です。
最近、つくづくと年齢を感じさせることがまだあります。
その一つは、何か思いついたときに直ぐに行動に移せばOKですが、
他のことを何かしようとして、先延ばしたら、
まず、最初に思ったことは99.9% 忘れています。
忘れないようにしようと思えば、
日頃の行動の中で絶対に目に触れるところへ、
思い出すものを置いておけば、
今のところ大丈夫のようです。
ただ、何でこれが置いてあるのか思い出せないようになったら、
いよいよ・・・・
もう一つ書いて見ますと、家内が体調をくずしてから、
夕方の玄関の鍵掛けは私の仕事になっていますが、
ただ、漠然と鍵を掛けたりすると、
後で不安になって、もう一度確かめにいくのはしょっちゅうです。
近頃は、鍵を掛けるとき、鍵を指差して
「よし、掛けた」と声を出すことにしています。
こうすれば、今のところ効果があるような感じです。
ただ、これも何時まで続くか・・・・
不安なことはいろいろありますが、
なんといっても病気もせず、まずまず元気で、
体調をくずした家内の相手をしてやれる毎日を
神様に感謝しなければと思っているこの頃です。
(09年10月29日記)
(妻との別れ)
絶対にあってほしくないものだが、必ず、いつかは起こる。
それは「死別」です。
平成21年9月21日、妻は療養の甲斐なく、遂に帰らぬ人となった。
私と一緒になって50数年、享年76歳でした。
今思い出しても妻は、控えめで、
おとなしく、あまり前面に出たがらなく、
一時代前の日本人女性だったような気がしている。
二人の子供を育てながら、家庭をしっかりと護ってくれたわけで、
私の今日あるのは妻のお陰が大きかったと思っている。
妻は若いときに帝王切開など3回もお腹を切開し、
輸血をしてもらっている。
その輸血によるものだろうと思うが、
30数年前に体がだるくなり、肝臓が弱ってきて、
丁度我が家の対面が医院でもあったので、
日課のように通い、治療を続けていたものだった。
しかし、徐々に肝硬変から、脾臓の肥大、遂には肝臓癌になり、
平成13年8月、倉敷中央病院で肝動脈塞栓手術を受けた。
その後、治療を続けながらも小康状態を保っていたが、
手術から5年ほど経過した平成18年3月3日に
貧血で倉敷中央病院へ入院したのが最初で、
それ以来肝性脳症、むくみ、食道静脈瘤、
胃壁内面出血、腹水などで12回も入退院を繰り返していた。
そのほかにも救急センターへ連れ込んだことが10回ほど、
時には足が立たなくて止む無く救急車を利用したこともあった。
13回目の平成20年の入院の際、
症状も良くなってお正月には一時帰宅もできるかと、
12月30日に看護師さんに洗髪をしてもらった。
ところが洗髪中に転倒して体のあちこちに痣をつけて部屋へ帰ってきた。
そのときは骨折が無くてよかったと言っていたが、
頭を強く打っていたらしく、
翌日の大晦日の午後、強いひきつけ、痙攣を起こし、
正月3ヶ日は昏睡状態で、
私たち家族もお正月がどのように過ぎたのか全然記憶にないようなことでした。
その後、少し良くなり自宅へ帰ったり、入院したりしていたが、
結局、ひきつけ・痙攣の予防薬として
「エクセグラン」という薬を服用することになり、
この薬は、幻覚・眠気などの、副作用が非常に強力だった。
食事中でも眠り始めることが多く、
誤嚥を起こすようになって、
15回目の入院をしたときには、
既に誤嚥性肺炎を起こしていた。
それでも治療の結果、良くなりかけたり、
また、誤嚥から肺炎を起こしたりと、
3回ほど繰り返していたが、
終わりには菌が血液の中に入り、
いわゆる敗血症を起こし、
遂に平成21年9月21日午前10時15分に帰らぬ人となった。
終わりごろには本人も死を悟ったのか、
私に対しては「生まれ変わってもおじいさんと一緒になりたい」とか
「お世話になった、おじいさんは元気で長生きしてよ」とか、
嫁に対しては「おじいさんを大事にしてあげて」など、
しきりに言っていた。
その頃、私たちはまだ死期は先のことだと思っていたので、
「何を言っているのだ、早くよくなって、好きなお寿司を食べに行こう」などと励ましていた。
実際、いろんな症状に悩まされてきたが、
肺炎のときまでは、まだ良くなるのではと一縷の望みを持っていた。
それが敗血症だと言われた時点で、
「ああ、もう引き返せないな」と心に言い聞かせたものでした。
それは亡くなる約1週間前のことでした。
妻の死を境に、
会う人毎に「寂しくなったでしょう」とか
「元気を出して」など、
しきりに挨拶されたが、
通夜、葬儀、会葬者名簿、市役所、社会保険事務所、仏壇、位牌、保険金、
満中陰の法要等の手続きとか段取りなどで多忙な日が続いた。
人の死とは大変なことだなと改めて感じたものでした。
忙しい毎日が続いたのが、かえってよかったのかもしれない。
満中陰の法要も済んで漸く落ち着きを取り戻したこの頃では、
ぼんやりとして、過去を思い出すことも多くなったが、
せめてもの慰めは「出来るだけのことはしてやった」という思いです。
また、何時までも落ち込んでいては故人もかえって浮かばれないだろうと思い直し、
家内の分までも頑張っていかなければと思っているこの頃です。
(10年3月22日記)
(寿大学など)
4月29日は私の誕生日です。
81歳になります。
この齢になりますと誕生日が来ても嬉しさ半分、
寂しさ半分といった感じです。
それは、この齢を無事に迎えられたという喜びと、
月日が早く過ぎ去るような寂しさが
入り混じっているような感じがするからです。
家内が亡くなって、はや半年も過ぎ、
少し落ち着いてきましたが、
気がついて見ると終日人と話をしない日が多いのに気がつきました。
引きこもりになってしまうのではと気になっているところです。
本を読んだり、
パソコンに向かったり、
鉢いじりをしたりで、
ほんとに会話が無いような感じがしております。
たまに外出したり、人が尋ねてきたときに話をするぐらいで、
もともと言葉数の少なかった私が、
一段と無口人間になっていくような気がしています。
しかも、少ない会話の内容も過去のことが
主体になっていることに気がついて、
寂しい気持ちになったりすることもあります。
また、最近は死亡記事や報道を見るたびに、
その人の年齢が気になって、
私より齢が上か下かを気にしている自分にふと気がついて
一人で苦笑したりしているこの頃です。
ところで、「私はこの4月から大学へ入学しました。」
と言ったら皆さんびっくりされることだろうと思います。
実は倉敷市の公民館活動に「寿大学」というのがあって、
それに参加することにしたわけです。
寿大学というのは4月から12月までに8回、
毎月第2水曜日に2時間開かれ、定員70人、
内容は「健康で生きがいのある学習を目ざし、
仲間とのふれあいを楽しみましょう。」ということになっています。
この他にももう一つ「ふるさと再発見」なるものもあって、
それにも参加することにしています。
内容は「昔むかしを記憶している地名を正しく読み解いて、
歴史の真実に迫りたい。」ということになっています。
こんなことで少しでも人と話をする機会が
増えればと思っているところです。
(10年3月30日記)
(筋力アップ)
NHKの「ためしてガッテン」を見ていたら、
足の筋力について放送していた。
足の筋力が弱くなると、躓いて、転んだり、
寝たきりになるケースが多いとか。
そして、足の筋力アップの方法としては、
正しい姿勢で、大きく手を振って、
大股で、
早歩きと普通歩きを3分間隔で交互に歩き、
トータルで15分も
歩けば良いとのことだったと思う。
私は、以前から早朝ウォーキングを30分ほど行っておるが、
ただの普通歩きだけでした。
ただ、大股で大きく手を振ることを
たまに心がけるぐらいが関の山でした。
普通歩きだけでは「筋力維持」はできても「筋力アップ」はできないと
いうことなので、せっかく歩くのであるからと思い、
お勧めのインターバル・
ウォーキングを取り入れることにしました。
ただ、私の歩き方は、姿勢や手の振りも適当であるし、
3分間隔も厳格なものではありません。
路面の良いところは早歩き、
悪いところは普通歩きにしているし、
人目の多いところでは
これまた普通歩きになってしまいます。
したがって、インターバルも適当になってしまいますが、
それでも少しは効果があるような気がしています。
いずれにせよ継続することに意義があると思い毎日歩いています。
(10年4月3日記)
(音読)
先日、テレビをつけたら、たまたま「認知症の予防」番組が出ました。
何気なく見ていると、
ウォーキングのように既に実行しているものもありましたが、
オヤッと思ったものに「音読」がありました。
私も新聞や小説はよく読みますが、
声を出して読むことはないなと
思いながら聞いていると、
新聞をすべて音読する人もいるらしい。
私にはそんな真似はとてもできないし、
たとえできても長続きしないと思い、
そこで、せめて山陽新聞の「滴一滴」だけでもと、
音読を始めました。
今は一人ぼっちなので誰に気兼ねすることも無く
大声を上げて読んでいます。
小学生の頃、国語の本を大きな声を出して
読んでいたことを思い出しますが、
今はつかえたり、どもったりしながらどうにか続けている毎日です。
(10年5月5日記)
(筋力アップのその後)
先日から始めた早歩きの件ですが、
確かに脚の筋力アップには効果があるように感じました。
しかし、急激にやったせいか、
腹筋が痛み始め、ついには腰が痛くなり、
鍼のお世話になったり、
シップを貼ったりとてんやわんやで、
先日から元の普通歩きに戻しています。
老人が急激に物事をやってはいけないな、
とつくづく感じました。
(11年2月25日記)
(外来語)
最近テレビや新聞で外来語によく出会いますが、
私のような年寄りには分かりにくい言葉の氾濫で
いささか辟易としています。
私たちの年代は、大東亜戦争が始まって最初に中学校に入り、
終戦になって最初に卒業したクラスで、まともな中学校の授業は
3年生の一学期までしか受けていない。
一番授業を受けていない年代だろうと思います。
3年生の夏から4年生の夏まで、学徒動員で工場や土木工事の現場で働き、
終戦後学校へ帰っても敗戦の混乱期のなかで、
学業に集中できないうちに卒業となってしまいました。
特に、英語は戦時中のこととて敵性語とされ、
子供たちの間では「もう、私たちが英語を習わなくても、
現地の人々に日本語を習わせれば・・・・」と、
今から思えばとんでもない思い上がったことを、
当たり前のように話し合っていたものでした。
余談になりますが、当時、外来語は全て漢字名に変えられており、
今でも頭に残っている球技名を書いてみますと、
籠球、排球、蹴球、闘球、庭球、送球などが浮かんできます。
現在では理解されにくいものもあるかもしれません。
近頃、政治家や知識人などがしきりにカタカナ語を話しますが、
私のようにもともと英語力が無く、齢のせいで頭の退化した者には
「何で日本人なのに日本語を使ってくれないのだろう」
と思うことがしょっちゅうです。
ああ、何とかならないものか・・・・
(11年3月23日記)
(外来語2)
先日、カタカナ語が氾濫して困っていると
メル友に一斉メールしたところ、
年配の方々からはまったく同感で、
ほんとに困っているとの返事がありました。
さすがに若い人達は困らないのか、反応はありませんでした。
最近では公用語を英語とする会社もあると聞きますから、
英語を話すことが大切な時代であることはよく分かりますが、
英語を話せることと、日本語を英語化することは別物だと思います。
「日本人は日本人らしく、日本語を護れ・・・・」
と言いたいところです。
しかし、押し寄せる時代の大波には勝てないのかも知れません。
といっても、私たち老人には、次々に出現するカタカナ語に
頭が追いつかなくて困っているのが現状です。
前回以後、全然分からないカタカナ語や、
前後の文章からおぼろげに分かったような気になっているカタカナ語も含めて、
逐次調べて、あらたに一覧表にしたところ、
直ぐに130ほど集まりました。
この集めた言葉も調べている時点では、
なるほどと分かったような気になっていましたが、
老人の悲しさ直ぐに忘れてしまい、
現在でもカタカナ語に遭遇するたびに困っているというのが実態です。
ああ、何とかならないものかと、改めて感じています。
(12年7月11日記)
(誤嚥)
先日のテレビで喉の老化が誤嚥につながるような話をしていました。
喉が老化して声帯がきちんと閉まらなくなると、
隙間から気管に異物が入り易くなり、
いわゆる誤嚥を引き起こすというような事でした。
声帯の筋肉を鍛えるには、
日頃から声を出すことが肝要だとのことでしたが、
私は一日中一人ぼっちのことが多く、
人と話をすることが非常に少なくなっています。
前から新聞の「滴一滴」の音読を始めていますが、さらに
朝晩の体操時に大声で自分に号令をかける事にしました。
なにぶん一人ぼっちなので、
いくら大声を出しても迷惑をかけることが無いので安心です。
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