遠き思い出





人は幼児の記憶をいつの頃まで遡ることが出来るのだろうか。

ある本によれば2〜3歳の頃の出来事を覚えている人もいるらしいが、

私などは5歳の時の記憶も怪しいものだ。

かすかに5歳当時の記憶を思い出すこともあるが、

それは、後で写真を見たり、話を聞いたりして、

インプットを繰り返した結果ではないかと思われるふしもある。

さすがに、幼稚園時代以降については、

断片的ではあるがまだ記憶に残っている事柄もあるようだ。

しかし、喜寿を迎えた最近では、

記憶も加速度的に失われていくようである。

そこで、頭に浮かんできた遠き思い出を

その都度、都度に記してみたい。


(05年5月14日記)


 私は、昭和4年4月29日、

当時の浅口郡西阿知町大字片島において、

兄二人、姉一人の末っ子として出生した。

余談ではあるが、私の誕生日は、当時、

天長節であり、

終戦後は天皇誕生日、

さらに昭和天皇がなくなられた後は、

みどりの日となり、

物心ついてこの方ずっと祝日で休日だった。


 末っ子であり、祖母やすぐ上の姉に可愛がられて大きくなった関係かどうか、

今思い出してみても、

内気で人の前に出たがらない子供だったような気がしている。

そして、その性格は今日に至っても強く残っているような感じである。

(平成7年から「みどりの日」が5月4日になり、

4月29日は「昭和の日」となった。

依然として祝日で休日であることには変わりはない・・・・07年5月記)



(05年5月15日記)


 生まれた家は麦藁葺きの2階建てで、

片島辺の小規模農家の典型的な造りであった。

 間取りは8畳の座敷、8畳の居間、6畳の納戸

(私はこの納戸で生まれたとのこと)、

畳と板の間合わせて6畳ほどの台所、

居間に続いた6畳ほどの土間(玄関を入ってすぐの土間でもある)、

台所に続いた6畳ほどの土間、

これらが母屋のすべてであった。

後にポンプ井戸、風呂、竈(くどと言っていた)、

餅つきの臼などがある建物が母屋の裏側へ建て増しされた。

(時期ははっきりとは思い出せない)



片島の生家

(05年5月19日記)


 母屋の東側に、これも藁葺きの1階建ての納屋があり、

おおまかに分けて、農作業用の道具置場と、

6畳程度の居間らしきものと、

風呂便所などに分かれていた。

戦争が激しくなった頃、

都会の親子が疎開してきて住んでいたこともあった。

その後、風呂は母屋の裏に建て増しされた建物へ移った。

 聞いてみたことはないが、母屋が建つ前には、

先祖はこの納屋で生活していたのではないかと、

今頃思ったりしている。



(05年5月25日記)


 家の南側の正面には30〜40坪程度の庭があり、

子供たちの遊び場であったり、

脱穀とか籾干しなどの農作業の場所でもあった。

敷地の周辺にはいろいろの木が植えられていた。

今でも覚えているものでは、

家の東北に大きな榎、

東南の角に2〜3坪程度の竹薮

(筍が生えていたのを覚えている)、

その他生垣にしていた木とか松など沢山あったが、

今では名前がわからなくなってしまった。



(05年5月30日記)


 実のなる木も色々植わっていた。

当時は今のようにおやつのない時代だったので、

子供たちは生っている果物を採って食べるのが大きな楽しみだった。

その関係か、柿の木5本、

みかんの木1本、

無花果の木3本、

枇杷の木1本、

ゆすらうめ1株、

木苺1株などが

家の周りに植わっていたのを覚えている。



(05年6月5日記)


 家の宗派は日蓮宗で、

お寺さんは妙任寺といって、

片島の小高い山の上にあり、

先祖の墓も本堂の東側に隣接した墓地にあった。

法事などでは遠足気分でお参りしたものである。

 長兄と次兄は支那事変、大東亜戦争に出征していたが、

父は夜中に二人の無事を祈って、

片島の氏神様と先祖の墓へお参りしていたと聞いたことがあり、

暗い中、墓地の中をよく歩けたものだ、

怖くなかったのかと子供心に思ったものである。



(05年6月11日記)


 片島では、田圃7〜8枚で、全体でも1町程度の

米麦中心の小作農家であったらしく、

あまり裕福ではなかったようである。

家の近くに1〜2畝程度の畑があった。

その畑に家庭用の野菜を作っていた。

特に、西瓜とか、さとうきび(さとうぎと呼んでいた)が作ってあり、

それらを採りに行くのが楽しみだった。



(05年6月17日記)


 家のすぐ東側を連島の鶴新田へ導水している西部用水路が流れており、

私はその用水路へたびたび落ちて溺れたようである。

自転車もろとも落ちたところを近所のおじさんに

助け上げられたことを記憶しておるし、

記憶はしていないがそのほかにも何回も落ちたことがあるらしい。

ひどい時は百メートル近くも流されて危なかったこともあったと、

母から聞いたことがある。



(05年6月23日記)


 家の隣の用水路ではおぼれた苦い記憶もあるが、

初夏には蛍が飛び交い、

夏には子供たちの水遊び場でもあり、

私が泳ぎを覚えたのもこの用水路であった。

家の周囲は田圃がずらりであり、

少し西のほうへ走れば高梁川の河原もあり、

自然の中を我が物顔で遊びまわったものである。

 反面、夏には蚊が多く、

日が暮れると団扇を手放すことはできないし、

蚊帳なしで寝ることは絶対だめで、

毎晩、寝る前に蚊帳の中へ忍び込んでいる蚊を

退治してから就寝するといった状況だった。

特に、藺草刈の後などはひどく、

夕方一歩家の外へ出るとワーンという音とともに

顔に蚊が無数に当たるという状況だった。

 ただ、当時は寝る時も戸を閉めることなく、

田圃の上を渡ってくる涼しい風に吹かれながらやすんだものである。



ほっ ほっ ほーたるこい!
あっちのみーずは にーげぇーぞー
こっちのみーずは あーめぇーぞ・・・・・



(05年6月26日記)


 飲み水は、現在のように水道があるわけではなく、

すべてを井戸に頼っていた。

記憶に残っている一番古い井戸は、

家から庭を横切った先にあり、

釣瓶で水をくみ上げる方式だった。

朝の洗顔とか風呂の水など、

どのようにしていたのかぜんぜん覚えていないが。

(後に、手押しポンプが付いたような気がしている)

 今でも頭に残っているのは、

家の中にある打ち込み式の手押しポンプ井戸である。

この井戸については、

専門の井戸掘り職人が来て、

綱を使い重しを落下させてパイプを打ち込んでいたのを覚えている。

この井戸は深かったのか、

水みちが良かったのか、

旱魃の時でも涸れることなく、

近所から貰い水に来ていたこともあった。



(05年6月30日記)


 食事のことで忘れかけているものに「はこぜん」がある。

30センチ角程で、高さが15センチ程度の

木の箱を各自が持っており、

その中へ各自の茶碗と箸を入れていた。

食事になると各自が箱を自分の前に置き、

茶碗と箸を取り出して,蓋を箱の上にひっくり返して置けば、

それが各自の膳になった。

食事の終わりごろになると、

茶碗にお茶を注ぎ、

茶碗と箸を綺麗にしながらお茶を飲み、

飲み終わったら箱の中へ茶碗と箸を仕舞い込んでいた。

今から考えるとなんと不潔なことをしていたのかと思うが、

当時はそうするものと思い込んでいたので、

なんとも思っていなかった。

ただ、この「はこぜん」もいつごろから我が家で無くなったのか、

思い出そうとしても思い出せない。

「はこぜん」は「箱膳」と書くのだろうか。



(05年7月2日記)


 屋外に在ったといえば、風呂や便所もそうであった。

どちらも納屋の端にあり、

利用するにはいったん母屋を出てからでなければならなかった。

風呂は当然鉄の釜であり、

木や藁を燃やして沸かし、

木製の「さな」を踏み込んで入る方式だった。

入る前には必ず湯加減を見ておかないと、

入ってぬるかったりすると大声で家人を呼んで、

焚いてもらわなければならなかった。

逆に、熱い時は水を汲んで来てもらわなければならなかった。

少しの水は汲み置きの水があったような気もするが。



 この風呂も、井戸が屋内の手押しポンプに

変わったと同じ時期に屋内に移った。

しかし、方式はあまり変化がなく、

ただ、風呂焚きが屋内で出来たし、

水を手押しポンプから直接パイプで

浴槽に入れることが出来るようになっていた。

また、いざと言う時には家人が

近くに居てくれるということも便利であった。



(05年7月5日記)


 便所も母屋の外にあったので、

冬の夜などは大変だったと思うが、

小さい頃は移動式の厠を使っていたのか、

あるいは庭へ飛ばしていたのか、

その不便さについては不思議と記憶に残っていない。

当時の便所は当然和式であり、

古色蒼然たるものだった。

洋式のものがあることすら知らなかったし、

水洗式についても話には聞いていたと思うが、

片島辺では勿論見ることはできなかった。

水洗式を最初に見たのは、

海軍予科生徒の受験で江田島の兵学校に宿泊した時だった。

さすが海軍士官を養成するところだけに清潔なものだと感心したものである。



 さて、片島の便所は中へ入ると不安定で、

板がぎしぎし鳴るし、

下を見ると「ふとーじ」と言っていたが蛆が蠢いており、

夏などはそれが一杯になり「ぎしぎし」というか「びしびし」というか、

なんとも言えない音が聞こえたものである。

蛆がいることは当時としては当たり前のことで、

学校の便所でも近所の便所でも

大なり小なりそのようであったように思っている。



(05年7月8日記)


 納屋の中では牛を飼っていた。

黒毛の和牛で役務と肥育の両用途だったと思う。

たしか「うしんが」という道具を使って田圃を耕していたように思うし、

また、直径40〜50センチの鉄鍋で麦を煮て、

稲藁を切ったものを混ぜて食べさしていたし、

夏には日中高梁川の河川敷で放牧もしていた。



(05年7月11日記)


 さらに、納屋の中には足ふみ式の臼があり、

お米は自宅で搗いていた。

自分の家で収穫したお米は年貢米として納めた残りの中から

食べ量を母屋の土間にある直径1メートル前後、

高さ1.8メートル前後の円筒形のとたんで出来た

缶の中で玄米のまま貯蔵し、

必要に応じて自宅の臼で精米し食用にしていたようである。

 また、臼の隣には、これも足ふみ式の茣蓙織り用の織機があって、

農閑期には茣蓙を織っていたようであるが、

私は触ったことはなかった。

 このほかにも納屋の中には足ふみ式の脱穀機とか唐箕とか

農業用のいろいろの道具が入っていたようであるが、

記憶が曖昧である。



(05年7月14日記)


 当時の道路は自然のままで、

雨でも降ろうものなら直ぐにぬかるみになったものだ。

幹線道路でも砂利が撒いてあればあれば良いほうだった。

道路がすべて舗装された現在では全然見られなくなったが、

道路面の荒れを補修するための道路夫が沢山活躍していたものだ。



 自動車にしても片島辺を通ることは日に何台といった状況だった。

たまに自動車が通るのに出会うと、

通過したあと直ぐに道路の中央に飛び出して、

車が残したガスの臭いを嗅いで、

いい匂いがすると喜んだものである。

現在のように排気ガスが問題になっている時代には、

とても考えられないことである。

それだけ車も少なく長閑な時代だったということであろう。



幼稚園の頃、祖母と共に

(05年7月17日記)


 幼稚園の時に祖父が、

小学2年の時に祖母が亡くなっているが、

その時の状況はともに記憶が曖昧である。

ただ、祖母のとき、学校を早退して帰宅したことをうっすらと覚えている。

祖父の記憶としては晩年の時と思うが、

庭の日当たりの良いところへ筵など敷いて

日向ぼっこをしていた光景が浮かんでくるぐらいのものである。

(これも写真の影響かもしれない。)



 祖母は几帳面な、厳しい人であったらしく

母も苦労したと聞いているが、

末っ子の私は可愛がってもらい、

身寄りのところへ遊びに行く時は

よく連れて行ってもらったようである。

総社とか岡田へ行ったことをうっすらと覚えている。



(05年7月21日記)


 何年生の頃かはっきり覚えていないが、

父が自転車でリヤカーに米俵(だったと思う)を

積んで倉敷の街まで運ぶことがあり、

私はリヤカーの後を押したり、

下りの坂道では乗せてもらったりして、

付いて行った事があった。

倉敷の街で父の知り合いの店に寄ったところ、

店の主人が暑かったろうと扇風機を回してくれた。

それが扇風機を見た最初であり、

なんと涼しい風が来る便利なものがあるんだろうと思ったものである。

 父について倉敷の街まで走っていったり、

街ではアイスキャンデー(?)を買ってもらったと思っているが、

父にそのようなことをしてもらった記憶がほかに無いので、

おそらく最初で最後のような気がしている。

それだけにこのことが強く記憶に残っているのかもしれない。



(05年7月23日記)


 娯楽の少ない当時では、

お正月、

七夕様、

お盆、

お祭り

などの行事が楽しみの中心で、

今でも記憶に残っていることが多いようだ。

お正月は丁度学校も休み中であり、

餅つきがあったり、お年玉が貰えたり、

日頃相手にしてくれない大人たちがちょっと遊んでくれたり、

ほんとにお正月が待ち遠しかったものである。

また、元日の雑煮では歳の数だけお餅を食べるんだと

腹いっぱいになるまで頑張ったものである。

(当時は、誕生日でなく正月に歳を取っていた。)



(05年7月26日記)


 元日は現在と違って休日ではなかった。

登校して講堂で祝賀の式があった。

式典には町長さんとかお巡りさんなどの来賓も見え、

教頭先生がうやうやしく差し出す教育勅語を

校長先生が白手袋をはめた手で受け取り、

これまたうやうやしく朗読されていたのが一番印象に残っている。

(終戦まで式典には必ずこの教育勅語が朗読されていたと思う。)

そのあと「君が代」とか

「年の初めのためしとて・・・・・」といった歌を歌ってから、

みかんなどをいただいたりして帰宅したような気がしている。



(05年7月29日記)


 松の内が終わった昼下がり、

隣近所がお飾りを持ち寄って燃やすいわゆる「とんど」があった。

この「とんど」の火でお供えの餅を焼いて、

その餅を小豆粥の中へ入れて食べたような気がしている?

子供たちは、正月休みに書いた習字を燃やして、

それが高く上がれば上がるほど上手になると、

一喜一憂して騒いだものである。



(05年8月2日記)


 七夕様の朝には早く起きて、

蓮の葉にたまっている露を採り、

その露で墨をすり、

短冊に「七夕様」とか

「織り姫様」とか

「勉強が出来ますように」とか

色々のことを書いて、

竹の枝に結わえ付け庭先へ立てかけたものである。



(05年8月4日記)


 自然の中で遊ぶものの一つに魚とりがあった。

ふな、はえ、あかもつ、どんこつ、どじょう、すなぼり、きんこつ、など

正式の名前とは違うものもあると思うが!

そのほかいろんな魚がいた。

今でも形が目の前に浮かんでくるものもあるが、

残念ながら名前を思い出せない。

 その頃は水路の中も非常に綺麗で「すがあみ」といって、

透き通った糸で出来たあみを持って、

暑い日なか夢中になって遊びまわったもので、

夏休み中の遊びの中で大きなウェイトを占めていたような気がする。

 もう一つ魚とりで思い出すのは、

田圃の稲が大きくなった頃、

田干しといって田圃の水を落とすことがある。

その水の落とし口へ網を置いておくと、

水が少なくなるにつれて田圃の中にいた田鮒がうじゃうじゃと

集まってきて網の中へ入ったものである。

それを唐辛子を少し入れて醤油で煮詰めて

おかずとして食べたものである。



(05年8月7日記)


 次兄はうなぎつりが上手だった。

田圃の畦畔の穴の中にいるうなぎを良く釣っていて、

蒲焼にして食べたものである。

料理も次兄がやっていたが、

錐で頭をまな板に固定して、

無花果の葉でうなぎを押さえつけ、

出刃包丁で開いていた。

焼いている途中でもおいしそうな匂いがして、

私が早く早くと、やかましくねだるものだから、

最初に骨を焼いてくれて、

それを食べながら料理するのを眺めていたことを覚えている。



(05年8月10日記)


 お盆には仏壇の位牌を床に飾り皆で拝んだり、

夜は庭先で薪を燃やしたりした。

これは亡くなった先祖様が家へ帰ってくるための

明かりだと聞かされたのを覚えている。

また、お盆の最後の晩には麦わらで作った船に

仏様の食べ物を積んで蝋燭をともし、

水路へ流して先祖をお送りした。

各家が一斉に流したので

沢山の蝋燭の灯がゆらゆらと揺れて、

その光景が今でも目に浮かぶようである。

 このようにお盆の船も、

七夕の笹もみな用水へ流していたが、

今では環境問題で到底考えられないことで、

のどかな時代だったと思う。

また、夜、西瓜をくりぬいて、

中へ蝋燭を立てたり、

茄子やとうもろこしの穂で牛を作ったりしたのも覚えているが、

七夕の夜であったか、

お盆の夜であったかわからなくなった。



(05年8月13日記)


 秋祭りには寿司とか甘酒などのご馳走が造られ、

親類から人も来て、

日頃あまりかまってくれない大人も相手をしてくれたり、

小遣いをくれたり、

非常に楽しかったものである。

逆に親類の祭りの時はこちらから出かけていき、

ご馳走になり、

帰りには寿司などの土産を貰って帰ってきた。

 また、祭りは二日にわたっていて、

初日の宵には氏神様へお参りに行くのが楽しみだった。

沢山の露店が並んでおり、

それがお目当てだった。

私はたいてい少年倶楽部のような本を

買って帰るのが通例だった。

当時は本といっても新しいものではなく、

セロファンで表紙を包んである古本だった。

当時は物が少なく、

そして、みな貧しかったので、

古本でも貴重なもので、

胸を躍らせてむさぼり読んだものである。



(05年8月16日記)


 祭りほどではないが、

子供の頃楽しかったものに「ほうじ」があった。

我が家の時は勿論であるが、

近所の「ほうじ」でも子供たちはこざっぱりした服装で出かけ、

遠足のような気分でお墓参りをしたり、

そろって楽しく食事をいただいたりしたものである。



(05年8月19日記)


 また、子供が駆けつけるのに「よめどり」があった。

近所に結婚式があると大人も子供も駆けつけたものである。

大人は花嫁の品定めと祝福が目的だったかもしれないが、

子供たちは「嫁菓子」が一番の狙いだった。



(05年8月21日記)


 同じようなものに「むねあげ」があった。

家の新築工事の棟上げの日には餅撒きがあって、

それを拾いに出かけたような気もしているが、

あまり記憶に残っていない。

それだけ当時は家を新築するということは

大変なことだったのであろう。

 ただ、片島の氏神様である荒神様の餅撒きのときは、

大勢の人が集まり、

隣家の庭まで餅拾いの人があふれていたのを覚えている。

当時は娯楽も少なく、

物もあまり無かったので、

何か行事があれば遠くからでも

大勢の人々が集まってきたのであろう。



(05年8月23日記)


 期日は、はっきりとはしないが、

晩秋か初冬に「いのこ」があった。

稲藁を縄で束ねて「打ち棒」を作ってもらい、

日が暮れてから子供たちが近所の家を順番に回り、

庭に「打ち棒」を叩きつけながら、

「いのこのばんに、いわわんものは、おにうめじゃうめ・・・・」と

意味も分からず叫んで、

家の人から蜜柑などなどいただくと、

次の家へ移ったものである。

(最近、インターネットで調べてみると、

旧暦10月の亥の日で、収穫を祝う「亥の子」とあった。

また、叫んでいた唄のようなものは

「亥の子の晩に、祝わん者は、

鬼産め、蛇産め、角のはえた子産め」であり、

祝いものをもらえなかったときの悪態唄とあった。

今にして思えば、

悪態唄を唄って祝いものの催促をしていたのだなと、

なんとなくわかったような気がしている。)



(05年8月25日記)


 当時の遊びとして思い出すものは、

すごろく、カルタ、凧揚げ、はさみ将棋、

将棋山崩し、兵隊ごっこ、土筆採り、

かくれんぼ、鬼ごっこ、とんぼとり、水遊び、

魚とり、竹とんぼ、パッチン、石蹴りなど

直ぐ思い出したが、

まだまだ忘れているものが沢山あるだろう。

いずれにしても現在に比べて素朴な遊びがほとんどだった。



(05年8月27日記)


 近所に我が家と同姓の家が五軒あったが、

その一軒に二歳年上の登美夫君と

その後ろの家にさらに二歳年上の卓君がいた。

卓君が大将で私は金魚の糞よろしく後をついてまわり、

良きにつけ悪しきにつけいろいろ教えてもらった。



 この二人とは別に、

西隣に同姓でははないが二歳年下の睦弘君が、

その後ろの家に

やはり二歳年下のさと子さんがいてよく遊んだものだが、

前のグループとあとのグループが

一緒になることは無かったような気がしている。



(05年8月29日記)


 当時でも街には映画館があったが、

片島にはそんなものは全然なかった。

活動写真といえば、

学校の講堂であったり、

夏には校庭であったような気がしている。

小さい頃には弁士もいたような気もしている。

その頃は活動写真といえば本当に一大イベントで、

何日も前から胸を躍らせて待ったものである。

また、家族とともに夜道の帰りに眺めた星空の美しさは

今でも頭の中に焼きついているようである。



(05年8月31日記)


 ごく小さい頃は着物で過ごしていたようだ。

右前か左前かもわからず

着物の紐も家人に結んでもらっていたのを覚えている。

最近はほとんど見かけなくなったが、

当時はたいていの男の子は洟水をたらしており、

「はなたれ小僧」という言葉があるが、

文字通り洟水が落ちそうになると、

ずるずると吸い上げ、

また、落ちそうになると吸い上げるといったことを

繰り返しながら平気で遊んでおり、

いよいよ限界に来たら無意識に袖でこすってふき取っていた。

したがって、寒い時期など子供の普段着の袖は

ぴかぴかに光っていたものである。

これは今と比べて経済的にも医学的にも劣っており、

子供の洟水については当たり前のこととして

放置されておったのであろう。

さらに、衣類の洗濯回数も少なかったのであろう。



登園前、友子さんと

(05年9月2日記)


 幼稚園時代に登園をぐずって姉を困らせたり、

同じ部落内の友子さんが園とは反対方向にある我が家まで

誘いに来てくれたりしたことを覚えている。

(姉を困らせたことについては、

後々、姉からたびたび聞かされたし、

友子さんの事は写真が残っているので忘れずにいるのかもしれない。)

 幼稚園は小学校よりやや近いところに、

私立の金谷幼稚園というのがあり、

年配の園長先生と30代ぐらい(はっきりしない)の女の先生がいたように思う。

(まだ他にもいたのかもしれない。

女の先生のご主人は歯医者の先生だったような気がする。)



 幼稚園へ行っては遊んで帰ってきたような気がしているが、

どんなことをしていたのかほとんど忘れてしまった。

ただ、不思議に一つだけ忘れていないことがある。

それは、園の遠足の時は鞄にお菓子類を入れて持っていったものであるが、

あるとき園の遠足の日にちが延びたことがあった(と今では思っている)。

私だけはそれを知らず、

当日は遠足だと思い込んで鞄の中へお菓子を詰め込んで登園した。

園舎内でみなそろって先生の話を聞いている時、

机の上に置いていた鞄が床に落ちて、

中のお菓子が飛び出したことがあった。

それを見た女の先生が「くにさんは用意がえんじゃなあ!」と言われ、

みなからも奇異の目で見られたことがあった。

みなの前で恥ずかしいことをしたと言う思いが

子供心にも非常に強かったのか、

ほとんど記憶していない幼稚園時代で、

このことだけは不思議と断片的に覚えている。



(05年9月4日記)


 小学生時代は概しておとなしく内気であった。

しかし、低学年と高学年では多少違っていたようだ。

低学年では体も弱く、

当時の田舎にしては珍しく牛乳を配達してもらって飲んでいた。

特に、学校の朝礼で運動場に並んでいる時、

だんだん気持ちが悪くなり、

目の前が暗くなって、

先生に衛生室へ運び込まれ、

気付けを飲まされて意識がはっきりとするといったことが何回かあった。

それが高学年になると少し活発になって、

悪いことをして廊下に座らされたり、

ある時は友達と二人で校庭の木に登っているところを

校長先生に見つかり、

木に登ったまま当分おろしてもらえない罰を受け、

しばらく経って担任の先生にお許しをいただき、

ようやく木からおりたこともあって、

忘れられない思い出である。



小学校4年生

(05年9月6日記)


 内気の性格のせいかどうか、

成績は一年生からずうっと中ぐらいだった。

ところが五年生になってなんの拍子か忘れたが、

多分、先生の質問にいつもは手を上げない私が手を上げて答え、

しかも、その答えがあっており、

先生もびっくりした様子で、

いたく褒めてくれたことがあった。

それが非常にうれしくて、

それ以来、先生の質問に答えようと事前に勉強するようになって、

成績も自然に上がってきたように思う。

 三年生までは欠席がちだったが、

四年生では精勤賞を貰い、

五年生、六年生では皆勤賞をいただいた。

また、五年生、六年生では学級委員もやり、

優等賞もいただいた。

これは記憶しているというより、

賞状が残っているので忘れずにいるのだろう。



(05年9月8日記)


 強烈に記憶に残っていることがある。

六年生になると上級学校受験のため、

希望者は補習授業を受けていた。

補習授業も終わりに近づき、

面接の模擬試験をしてくださることになった。

試験官は担任の先生以外の先生が受け持ってくださり、

生徒は廊下で待機し、

順番に教室内で試問を受けるという格好だった。

ところが、早く終わって教室から出てきたものから

待機者が質問内容を聞き、

心積もりをしてから試問を受けたので、

それ以後の者は答えが非常にスムースになった。

そのことが試験官から担任の先生に伝わったものだから、

担任の先生の逆鱗に触れ、

みな学校に残されることになり、

平素あまり怒ったことのない先生から非常に強く怒られた。

担任の先生にしてみれば、

ボランティアで試験官をやってくださった

他の先生方に申し訳ないという気持ちが強かったのだと思われる。

 みな叱られて前非を悔い、

くしゅんとしていたが、

先生のお許しはなかなかおりず、

暗くなり電灯もついて、

しばらく経ってようやく帰宅を許された。

暗くなって学校から帰るのは勿論はじめてであり、

怖いのとすまないことをしたとの思いもあって、

駆けるようにして帰宅したのを覚えている。


 この担任の明石先生も、その後若くして亡くなられてしまった。

私はこの明石先生のときから成績が上がったこともあり、

どうしても忘れられない先生である。



(05年9月10日記)


 私の小学生時代は支那事変から大東亜戦争にかけての時代であり、

戦地の兵隊さんの苦労をしのんで「贅沢は敵だ」と、

暑さ寒さも我慢、

我慢の時代だった。

特に戦局が厳しくなった後半では、

冬でも学校では暖房らしきものは何一つなく、

寒中の屋外での体操もいつも裸足であり、

足裏へ小石が当たり、

突き刺すような痛みが走ったものである。

その痛みは今でも頭の中にこびりついているようだ。



(05年9月11日記)


 大東亜戦争が始まったのは六年生の二学期で、

軍艦マーチで始まる大本営発表を

子供心に胸を躍らして聞いたものであり、

日本は戦争に勝つものと信じ込んでいた。

小学校の名前も入学する時は

河内尋常高等小学校であったものが、

卒業時には西阿知国民学校に変わっていた。

 また、小学校の修学旅行は例年伊勢神宮、奈良、京都などへの

旅行が通例になっており、

私たちもそのための積立貯金をしていたが、

戦局厳しき折からとて、

結局取り止めになってしまった。



(05年9月12日記)


 当時、倉敷には商業学校と新設の工業学校があったが、

西阿知から通学できる中学校としては、

岡山の一中か二中、私立では金光中学か岡山の関中があった。

西阿知からでは一中はとても無理で、

二中か金光ということであったらしいが、

結局私の成績から勘案して

金光が安全ということになったのだと思う。

金光へは私と一緒に田中(満)君、松井君の三名だった。



(05年9月13日記)


 小学校卒業と同時に、

片島から倉敷の日ノ出町416番地へ転居した。

倉敷駅の東よりの大きな踏切のそばの家で、

転居当時は寝ていても列車が通るたんびに、

その音と振動で目が覚めたものであるが、

これも直ぐ慣れたように思う。

 なぜ、片島から倉敷へ転居したのか、

両親に聞いたこともなかったが、

片島での百姓仕事に体力がついていけず、

倉敷での商売に踏み切ったのだろうと思っている。

一旗あげるとまでいかないまでも、

現状よりは楽になると考えたのではないだろうか。



(05年9月14日記)


 倉敷での商売は古道具屋であったが、

中心は大阪の得意先が仕入れた古道具(靴などが多かった)を送ってもらい、

それを販売していたようである。

店のガラス戸に大阪屋と書いてあったのが記憶に残っている。

この商売は、塩尻さんと言う夫婦のものであったようであるが、

歳をとり引退を考えているところを、

私の両親が譲り受けたものと思っている。

私が倉敷へ転居した時は隣に塩尻老夫婦がまだ住んでおられた。



 このようにして、片島時代から倉敷時代へ、そして、小学生時代から中学生時代へと移っていった。



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