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       歴史と観光からみた広島

【歴史と観光から見た広島】


   以下の情報は「広島県大百科事典」によるものです。                                           

【峠 三吉】 とうげさんきち 1917年(大正6)2.19~1953年(昭和23)3.10。詩人。戸籍面では「みつよし」となっているが、周囲の勧めと本人自身の賛意で「さんきち」と決め、これを終生の名とした。祖父伊兵衛は賀茂郡竹原在の庄屋。三吉は父嘉一の第五子として、父の勤務地大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれた。父は謡曲に秀で、母ステは青鞜社運動の「新しい女」であった。また兄一夫、姉嘉子を含む一家は、賀川豊彦の心従者であったが、家族のこのような傾斜は末子さん吉の生涯に潜在的影響を与えたと考える。県立広島商業卒業後、病床生活を送るが25歳でキリスト教新教受洗。1945年(昭和20)広島で被爆。原爆投下直後に原爆詩を書いている。1946年に広島青年文化連盟に加盟し、病身ながら民主的なこの運動に献身して委員長に推された。一方では米田栄作らと広島詩人協会を設立(1948年)し、文化運動と平行して、「詩」の社会性を目指してたたかった。彼は「人間の起きあがってくるところを書け」と詩の仲間「われらの詩の会」の面々を励ました。文学は政治思想と同等の力をもつという彼の理想主義的信念が、代表作『原爆詩集』に結集したとみられてよい。そこには直截的なリアリティーが怒りと抗議に内在して見事に表現されている。峠は

「叙事詩広島」を書く体力を欲して三たび西条病院に入院したが、被爆8年目の1953年(昭和28)、14時間の苦闘のすえ手術台上で死没した。

【原子雲の下より げんしうんのしたより 広島在住の詩人・峠三吉と作家・山代巴によって編纂された原爆被災の実相を伝え、平和を願う一般市民の詩集。1952年(昭和27)9月1日に青木書店から初版刊行。1950年(昭和25)6月に始まった朝鮮戦争下の日本では原爆被災の実態の報道規制は占領軍によってより強化されていた。しかし、広島市民の生活のすみずみまでしみこんでいる被爆の惨苦

が忘れ去られたわけではなかった。とりわけ「広島の子供たちの原爆の事実に立脚した何者にも歪まされない率直な叫びを中心に」市民の心に秘められている平和への願いを引き出したいという意図のもと、峠三吉と山代巴が広島の各文学団体に呼びかけて原爆の詩編纂委員会が結成され、市内の全学校の生徒たちから一般市民に至る各層から1389編の詩が集められ、121編が本書に収録された。当時、小学校3年生の坂本はつみが作った「げんしばくだんがおちると/ひるがよるになって/人はおばけになる」のような作品は高く評価され、鋭い文明批判としても感動を呼んだ。長田新編の『原爆の子』に次ぐ、子供たちの曇りのない目がみつめた原爆被災の真実の姿は、いまも貴重な証言となっている。
 

【原爆の子】長田新編 「げんばくのこ」 おさだあらたへん 廣島の小、中学、高校、大学生による原爆体験手記集。戦後いち早い時期、占領軍によるプレスコードが解かれた直後、1951年(昭和26)10月、教育学者長田新によって編まれ岩波書店から刊行それた。序文で長田新は「少年、少女たちの純真で、無邪気で感受性の強い、軟らかな魂が、あの原子爆弾で何を体験し、何を感じそして何を考えているかを知ることは・・・(略)・・・あらゆる人々にとって大きな意味と価値を持つ問題だ」と述べているが、この労作は「平和を築くことを人間の最高の倫理である、と考える子どもを育てることこそ教育の基本目標である」とする編者の平和教育論によって裏付けられている。「そうしてある朝、起きてみたら、お兄さんが死んでおられました。そうしてみんなつぎつぎと死んでいかれ、兄ちゃん2人と私がのこりました。」(小学5年山本紀久=被爆当時5歳)をはじめとして、多数の「広島の少年少女のうったえ」(副題)がのせられていて、原体験に根ざす平和教材として記念碑的な価値を保ち続けている。同名で、最初の劇映画にもなった。

【原 民喜】 はらたみき  1905年(明治38)11.15~1951年(昭和26)3.13、作家。広島市堺町162生まれ。父信吉の家業は陸海軍官庁用達。1919年(大正8)広島高師付属中学入学。1924年(大正13)慶應義塾大学文学部予科に入学、1932年(昭和7)同大英文科卒業までの間に山本健吉、長光太らと詩の同人誌をつくり、小説も書いた。日本赤色救援会(モップル)に加わり、中央と広島をつなぐ一員だったこともある。1933年(昭和8)永井貞恵と見合い結婚。それからは妻に頼りきった生活だった。1934年(昭和9)千葉市登戸に居を定め、書き溜めた64編の短編をまとめた『焔』(昭和10年3月)を白水社から自費出版した。原民喜の創作力は『焔』出版後、3~4年間が顕著なたかまりを示し、作品は主として「三田文学」に発表された。1944年(昭和19)9月貞恵死去。翌年1月末千葉の家をたたみ、郷里広島の兄嗣のもとに同居。半年後に原爆被災の日がきた。泉邸(縮景園)へ逃れ、東照宮下で野宿、そして佐伯郡八幡村へ避難。東照宮下、参堂のほとりで原民喜は手帳に目撃した被災状況をノートした。このノートは2年後の「夏の花」の原型となった。彼の文学的な生涯を決定づけたのは、妻の死、被爆の体験であった。1946年(昭和21)4月上京、慶応大家間中学に勤め、秋から「三田文学」編集にかかわり、捜索を再開。「夏の花」(昭和22年6月・三田文学)は、これまでの特色-幻想的、叙情的な感性のうえに鋭利な現実凝視を重ね、世評が高かった。原爆体験記としても最も早い時期に発表された意義が深い。「夏の花」は1948年(昭和23)12月、第1回水上滝太郎正を受賞。義弟佐々木基一の加わっている「近代文学」同人となり、発表の舞台が広がった。1950年(昭和25)4月、日本ペンクラブ広島の会主催の講演会に川端康成らと参加、演壇に立ったことを別にすれば、広島との直接的なつながりは乏しかった。他に『廃墟から』『壊滅の序曲』などの作品がある。1951年3月13日夜、中央線吉祥寺―西荻窪間の鉄路で自殺。1950年(昭和25)5月に始まった朝鮮戦争は拡大、平和への脅威に抗議しての死、といわれた。広島城跡の石垣を背景にした詩碑は、原民喜の死の年の誕生日(11月15日)に除幕式が行われたが、その後、陶板製の碑面が損壊をうけ、1967年(昭和42)7月、現在地(原爆ドーム東側)へ修復再建された。評伝として川西政明『ひとつの運命』(1980年・講談社刊)がある。
  

【夏の花】なつのはな 作家・原民喜の代表作。広島市幟町の兄の家で被爆した原民喜は泉邸から東照宮へ避難、目撃した損害を手帳にノートする。このノートを基にまとめた被爆体験記が『夏の花』で、のち「廃墟から」「壊滅の序曲から」を加え、正、続、補の三部作構成となった。被爆前後の一族の変転が描かれている。この作品は、その透徹した観察と私的な喚起力ある文体によって、単なる体験記の域をこえ、その文学性はしばしば再評価された。避難先で目撃する瀕死の人々の訴えごとを前年(1944年)病死した妻の訴えに重ねて慈しみ、書き留めた文章は美しく感動的である。原民喜の文学はこの作品を境に戦前の散文詩ふうの作柄からわかれ、破滅への不安の誌的な高揚によって朝鮮戦争前後の不安な情勢を証し立てた。また、開かれた短編小説として、この作品の結末ならざる結末の暗示力について技法的な効果が論じられる。

  

【ひろしまの始め】 1185(文治元)県の西部は宗孝親が安芸の国、東部は土肥実平が備後の国の守護として任命された。承久の乱(1221年)の後、関東御家人の地頭が増加し、吉田荘の毛利、大朝荘の吉川、竹原荘の小早川などの諸氏が所領を得た。戦国の世に入ると、毛利氏が勢力を増し、1555年(弘治元)には陶氏を滅ぼし、屈指の戦国大名となった。関ヶ原の役(1600年)後、毛利氏は山口に移封となり、福島氏が芸備両国を支配することになった。時代安芸の毛利氏は備後をはじめ中国の西半を統一した。関ヶ原の没後、福島氏が安芸・備後を領したが、1619年(元和5)浅野氏がこれに代わり、備後国福山を中心とする一部に水野氏が封ぜられた。のち阿部氏が福山藩主となり広島藩の浅野氏とともに明治維新に至った。1871年(明治4)廃藩置県により浅野氏旧領→広島県、阿部氏旧領→福山県とした。その後福山県は深津県→小田県と改称、岡山県に合併。1876年1876年(明治9) (明治9)、岡山県より分離。広島県に合併。今日に至る。1868年(明治1)安芸は8郡、備後は14郡→1898年16郡に整理、1971年7月現在。11市16郡86町8村。
  

【広島市の流れ】 中世末、毛利輝元が1589年(天正17)に広島城築城を開始した。城下町のそのころは一面の干潟。そこに堤防を築き、干拓して土地が拡張。城の南方への干拓を続け比治山、江波山、仁保山に広がり湾内の島々が陸封され、宇品島も陸続きに。加えて埋立地は海岸を今日一万トンバースに変えている。

【なぜ『廣島』なのか?】県所属の島の数も面積もが広いから? 広い範囲に島々が散在しているから? 島の総面積が日本一だから? 県名決定当時の関係機関での合議であるらしいが理由不明。デルタの中で最も広い島に行政の中心部が位置しているから? 広島城に関わりのある毛利氏の祖先の大江広元の「広」と毛利輝元をこの地に案内した福元長の「島」を繋いだ命名。

【毛利輝元】もうりてるもと 1553(天文22)~1625年(寛永2)毛利氏が戦国大名から防長の近世大名へと変化した時期の毛利家当主。幸鶴丸、少輔太郎.右馬頭。毛利隆元の子で母は大内義隆養女、妻は宍戸隆家娘(南御方)。法名天樹院雲厳宗瑞。豊臣氏の下で五大老のひとり、参議、権中納言。1566(永禄8)に元服してすぐに出雲尼子氏攻撃に参加したのが初陣。1571(元亀2)祖父元就没後は毛利家当主として吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽道良の補佐をうけて奉行人の服務規定、石見銀山の直接支配強化、防長段銭収納体制の整備など領国支配強化策を行っている。1574(天正2)から毎年備中・美作方面に出陣して織田信長方の軍勢と戦い、1576年には備後鞆に下ってきた将軍義昭を受け入れ、大坂本願寺や播磨の別所長治を支援して信長に対抗した。しかし強力な信長・豊臣秀吉の攻撃をうけ、1581年に因幡鳥取城を失い、翌年の備中高松城の攻防では領国割譲を条件に秀吉と和議せざるをえなかった。こののち輝元は秀吉支配下の大名へと転身し、1587(天正15)の九州島津氏攻撃が終わったあと、惣国検地と呼ばれる領国内惣検地に着手し、翌年には上洛して秀吉に臣従している。ついで居城を吉田から広島に移し、小田原後北条市攻撃から帰った1591年に広島城に入った。それまでの戦国大名毛利氏の領国支配は古い秩序に妥協的であったが、秀吉の要求する朝鮮出兵に備えて領国支配の変革が行われ、毛利氏の戦国大名化が急速に進められた。1592(文録元)に輝元は3万人の軍勢を率いて朝鮮に出兵し、開寧に駐屯したが、まもなく病気になり翌年帰国しており、朝鮮には養子秀元が変わって出兵した。輝元はこの朝鮮出兵を無益な侵攻とみており、1597(慶長2)再度出兵を命じられたときには非道な戦いであるとして忌避している。1595年の関白秀次事件ののち秀吉の子秀頼をもり立てていくために五大老の制度が生まれるが、輝元は隆景とともに五大老の一員となり、そのなかでも東国は徳川家康、西軍は輝元・隆景が管掌しようとの交渉がなされるほど、輝元の占める地位は大きかった。このころ毛利氏では秀吉に重用された安国寺恵瓊の影響力が強く、また輝元に実子秀就が生まれたため養子秀元の処置が問題となり、これにからんで吉川広家と秀元・恵瓊の反目もあった。1599(慶長4)には秀元の処置も済み、朝鮮出兵で疲弊した領国再建するための惣国検地も始められた。しかし中央で家康に対抗しうる勢力として輝元への期待が強まり、翌年の関ヶ原の戦いでは恵瓊と石田三成に賛同して西軍の大将格となった。敗戦ののちはかねて徳川氏に通じていた吉川広家の奔走により防長二国だけは維持しえたが、1603年(慶長8)まで伏見に止められた。

【毛利元就】もうりもとなり 1497(明応6)~1571年(元亀2)。毛利氏を安芸高田郡吉田の武士から、中国地方を支配する戦国大名に発展させた毛利家当主。少輔次郎、治部少輔、右馬守、陸奥守。法名洞春寺日頼洞春。墓所は吉田郡山城内。毛利弘元二男、母は福原広俊娘。妻は吉川国経娘(妙玖)ほか。父母に早く死に別れたため、高田郡多治比(吉田町)で弘元継室に養育されながら苦労して育った。兄の興元が20歳で没したため、興元の子幸松丸をたすけて山県郡有田城(千代田城)や東西条鏡山城(東広島市)に出陣して名をあげている。幸松丸も1523年(大永3)に夭折したため毛利氏重臣は協議して元就を毛利宗家に迎え入れた。元就の相続後まもなく、出雲尼子氏と結んで弟の相合元綱を擁立しようとする家臣の動きがあったが、元就は元綱を殺し、また尼子氏とも手を切った。しかし元就も重臣たちに擁立されたという経過から、重臣井上元兼一党が不法を働くことに耐えなければならなかった。1541年(天文10)尼子晴久の大軍を吉田郡山城から敗走させた後は、1544年に三男隆景を小早川家に、1547年には二男元春を吉川家に入れて芸備随一の勢力となり、1550年には井上元春らを討って、家臣から服属の誓約をえて家中に対する支配権を確立した。以前から元就は安芸、備後、石見の武士たちとの結びつきが強く、次第に彼らの指導者となっていった。これを恐れた陶晴方は1554年に元就を誘殺使用としたが、元就も子の隆元や家臣の意見に押されて陶氏との戦いを決意し、翌年の厳島合戦で陶氏を壊滅させた。対陶戦は夜襲決戦であったが、尼子氏との戦いは包囲戦となったため年数を要したが、1566年(永禄9)には尼子氏を降し、中国地方では敵対する者のない大名となった。1568年からの豊後大友氏との戦いのとき、領国内には大内輝元や尼子勝久が侵入した。このころ健康を害していた元就は出陣できなかったが、尼子軍の敗退が決定的になるころ吉田で没した。長男隆元と六男元倶は早逝したが、他の元春以下7人の子は有力武将として毛利家を助けた。元就は元文末年から隠居したいと言っているが、元就が築きあげた領国内武士とのつながりは毛利氏の領国支配に必要で、公務は隆元に譲っても元就の影響はいぜん大きかった。また多治比在住以来の近習を取り立てて、隆元奉行人のなかに送り込んでいる。厳島合戦の勝利にみられるように果敢な武将であったが、安芸の一武士から戦国大名にまで成長した苦心に満ちた経験から現実を深く洞察し、絶えず慢心を戒めて一族の協力を説き、細かいところに気を配る性格の持ち主であり、卵生の知将と呼ぶにふさわしい。元就は和歌、連歌を好み、それらの歌は里村紹巴編注の『春霞集』二巻に収められている。

【福島正則】ふくしままさのり 1561(永録4)1624年(寛永元)7。広島城主(1600年・慶長5~1619年・元和5)。尾張国(愛知県)海東郡の出身。父は市兵衛(正信)。母は豊臣秀吉の伯母と伝える。幼時から秀吉に仕え、市松と称した。秀吉の三木城攻めに初陣し、ことに1583年(天正11)賤ヶ嶽の戦に七本槍の筆頭として高名をあげ、5000石の知行を受ける。その後、歴戦の軍功を重ねて、九社役後、伊予国11万石に封ぜられ、さらに小田原役、文禄の役にも殊功を立てて、1595年(文禄4)尾張国清洲24万石を領した。1600年関ヶ原では石田三成と対立したため徳川家康に従い、東軍の先鋒として戦い、その功によって芸備49万8000石に封じられて広島城に入った。その翌年、この地方で初めて太閤検地の基準による見地を実施し、石高知行制と石高基準の貢租体系を確立した。この場合、寺社領を没収したとして非難されるが、近世検地の実施が中世的領主権を否定するのは正則に限ったことではない。彼はまた道路や宿駅、海駅の整備につとめ、一方広島城下の町家の区域を広げて、町組の制を整え、商業の繁栄を図っており、さらに領内産業の開発など、その治績にはみるべきものがあった。しかし、豊臣恩顧の大名として徳川に忌避されて、1619年6月広島城修築を咎められて改易、その後信濃国(長野県)川中島で4万5000石を給せられて、同高井郡に蟄居した。1624年7月ここで病没し、京都妙心寺海福院に葬られた。

【福島元長】ふくしまもとなが ?~1597年(慶長2)。戦国時代の武士。福島親長の娘宮福と結婚して福島家を嗣いだ。実父は不明。源三郎、大和の守を称す。福島氏は川之内海賊衆の有力な家であったが、1525年(大永5)までに武田氏を離れ大内方に帰順した。武田氏滅亡後、元長は銀山城番をつとめ、1551年(天文20)毛利元就が佐東郡に兵を進めたとき、場内からこれに応じた。以後毛利氏に従った。1589年(天正17)2月、毛利輝元は大田川河口に新城を築くため現地調査を実施した際、元就の屋敷に立ち寄り、元長の案内で現地に臨んでいる。なお、ここを広島と命名したのは、毛利氏祖大江広元の広と福島氏の島をとったのだとする説がある。ところで、福島氏の屋敷は中筋(広島市安佐南区安古市町)の古川左岸にあったといい、現在近くに福島氏の墓と伝える五輪塔がある。福島氏関係の寺社に明円寺(佐東町中調子)、堤平神社(同)、才ノ木神社(中筋)がある。

【武田氏】 鎌倉~室町時代の安芸国守護。清和源氏。新羅三郎義光の子。義清が甲斐国に土着し、義清の孫信義が武田村に住んで武田姓を称した。信義の弟信光が承久の変の功で安芸国守護を得た。鎌倉時代を通して守護職にあったわけではないし、常時在国してもいなかったが、特に佐東、安南郡方面では中小武士や在庁官人を家臣化し、荘園国衙領を押領して支配の基礎を固め、鎌倉時代末の信宗の代には銀山城を築いていた。足利尊氏の挙兵の際。信武は安芸国にいてこれに応じ、国内の武士を率いて上洛し、以来子の氏信とともに終始足利方として各地を転戦した。信武のあと長男信成が甲斐国守護職、二男氏信が安芸国守護職をそれぞれ継承した。しかし、氏信が1368年(応安元)守護職を改替されて以後、代々足利一門が安芸国守護職を歴任し、同職が武田氏の手にもどることはなかった。ただ、本拠佐東郡の守護職が1397年(応永4)以前に幕府から認められたと考えられるほか、安南、山県両郡も永享ごろまでに守護権限が公認され、いわゆる分郡守護として安芸国中央部を支配した。武田氏の家臣には佐東郡の品河・香川・川之内海賊衆、安南郡の白井・戸坂・温科、安北郡の熊谷・山中・小河内、山県郡の吉川・壬生らの諸氏がおり、一族も伴、国重両氏のように銀山城近辺に根を下ろして在名を名乗り家臣化していた。室町時代には勢力を東にのばしてきた大内氏との対立が深まり、1457年(長禄元)大内氏と結ぶ厳島神主家との所領争いを契機に銀山城のふもとで大内軍との武力衝突をみた。応仁の乱では、大内氏との対抗上武田氏を支援してきた細川氏の東軍に参じたが、一族の元綱は西軍に寝返った。1481年(文明13)国信は大内氏、元綱と和解したが1499年(明応8)おそらく大内氏の誘いで温科氏が武田氏にそむいているので。このころ再び両氏の関係が悪化したことになる。大内義         興を頼って山口に下向した足利義尹が将軍職回復を訴えた際、元信は一時その誘いに応じたが、結局幕府方につき、1440年(永享12)以来守護職にある若狭国(福井県)に下った。ここに国信系の若狭武田氏と元綱系の安芸武田氏の両氏が完全に分立することになる。元繁は元信が大内方を離れたあとも大内氏と結び、義興に従って上洛したが、1515年(永正12)反大内の兵をあげた。しかし、2年後に山県郡有田での合戦で敗死した。以後武田氏の勢力は衰え、熊谷氏の離反などもあったが、大内氏がしばしばこころみた佐東軍侵攻に対しては、川之内海賊衆の活躍や尼子氏との提携によってふみこたえていた。しかし、1541年(天文10)郡山合戦で尼子軍が大敗したと聞いた信実は銀山城を逃れ出たといわれる。家臣らは主のいなくなった銀山城にたてこもって2ヵ月ほど抵抗したが、大内・毛利軍の前に同年5月落城した。討滅を免れた一族の伴氏も翌年謀反を企て、毛利氏に討たれ、武田氏は滅んだ。              信成(甲斐武田氏)武田氏系図
  義光―義信―清光―信義―信光―信政―信時―時綱―信宗―信武―氏信―信在―信守―信繁―国信―
(若狭武田氏)―――――

【銀山城】かなやまじょう。安芸国守護武田氏の拠城。中世は金山と書いた。広島市安佐南区祇園・安古市町界にある標高412㍍の通称武田山にある。県史跡。築城時期に関する確証はないが、鎌倉時代末の信宗が築いたといわれる。信宗の子信武が足利尊氏に応じて挙兵したのはこの城でのことであろう。銀山城をめぐる攻防戦の記録としては、まず1456年(長禄元)の大内氏との戦いがある。同年3月釈迦岳(佐伯区五日市町石内と西区の境)で交戦があったあと、大内軍は銀山城南麓の山本(祇園町)や、同じく城麓と思われる鳥屋尾、十王同などに押し寄せている。次には『陰徳太平記』などが伝える、1524年(大永4)合戦がある。これは大内義隆が陶興房らとともに銀山城を攻撃したが、毛利元就や尼子氏の軍が背後からこれを襲ったため敗走したというものであるが、この戦いに関する明証が他にない上、当時の政治情勢からみても疑わしい。銀山城が落城するのは1541年(天文10)である。この年の正月郡山合戦で尼子軍が敗走したとの報に接した武田信実は、銀山城を脱して出雲国(島根県)に逃走したといわれるが、家臣らは籠城して、あくまで大内氏に抵抗する構えをみせたため、吉田からとって返した陶隆房と元就らの兵が銀山城を囲んだ。両軍の攻防は2ヵ月ほど続いたが、5月になって城兵は降伏した。しかし、内藤、粟屋、富樫ら一部の家臣はこれに従はず、北麓の伴城(安佐南区沼田町伴)に拠って抵抗を続けたため、5月12日から翌日にかけて攻撃をうけ、討ち果たされた。以後銀山城は大内氏の佐東郡支配の拠点として重視され、大内家臣の麻生、右田氏らが城督として配された。1551年(天文20)毛利元就は大内氏に背く陶隆房と連携して兵を佐東郡に進め、銀山城番などの内応によって佐東郡いったいを手中に収めたが、銀山城などの要所は陶方の支配下にあった。しかし、1554年(天文23)元就が陶氏と断交した際、銀山城の粟田肥後入道が元就の勧めで降伏開城したという。元就が厳島合戦以来しばしば銀山城を隠居所にしたい旨を表明しているのは、ここ広島湾頭地域の拠点とする意図があったからだといわれている。中世の大田川流域は、佐東八日市をはじめとする市場や、内陸部諸荘園の倉敷があり、安芸国屈指の商業・交通の拠点となっていた。銀山城はこの要衝をおさえるのに格好の位置にあった。山頂の本丸、館跡を中心に千畳敷、見晴台、馬場、観音堂、上高間、下高間、馬返しなどという四十余の郭や大通しと称する空堀、それに近世枡形門の祖形とされる貴重な門跡などがある。城麓には武田氏祖新羅三郎義光を祭る新羅神社をはじめ、正伝寺、日吉神社、立専寺など武田氏ゆかりの寺社が現存し,仏護寺、観音寺、光見寺、佐東祇園社、長楽寺などもかつてはこの城の麓を取り巻いていた。

【川之内海賊衆】
かわのうちかいぞくしゅう 大田川下流域を拠点とする中世の海賊衆。佐東衆ともいう。幾筋にも分流する大田川や安川に囲まれているところから川之内とよばれているこの地域は、中世には海船の出入りする交通の要衝で、ここに海賊が成長した。海賊といっても常時海賊行為を働くわけではなく、通常は航行する商船を武装船によって護衛し警固料を徴収するのを業とするもので、水夫(漕ぎ手)と上乗衆(戦闘員)とから成っていた。川之内を眼下にする武田氏は彼らを被官化し、水軍として編成していた。

         広島県・市関連の文人一覧」 資料

【阿川弘之】あがわひろゆき 1920年(大正9)12.24~。 作家。芸術院会員。広島市白島九軒町出身。広島高師付属中学校、旧制広島高校を経て、1940年(昭和15)東京帝国大学文学部国文学科に入学。広高時代、文芸部に属し、部誌『皆実』に習作を発表、のち福岡の同人誌『こをろ』に加わった。戦争のため1942年(昭和17)9月、東大を繰り上げ卒業し、ただちに海軍予備学生として入隊、翌年少尉、軍司令部付で通信諜報業務に従事、次の年中尉、中国の漢口に転勤、そこで敗戦を迎えた。1946年(昭和21)3月復員、郷里広島は原子爆弾で焼かれ、家財、恩師、恋人などを失っていた。同年4月上京、9月「年年歳歳」を志賀直哉の推薦で『世界』に発表、文筆生活に入る。1949年(昭和24)増田みよと結婚。1952年『春の城』を刊行、これで翌年、読売文学賞を受賞、作家的地位を確立した。その後、原爆を扱った「魔の遺産」(1953年)や海軍特攻隊員の手記にもとづく『雲の墓標』(1955年)などの佳作を発表。1955年(昭和30)から1年、ロックフェラー財団留学生として渡米、その経験をもとに「カリフォルニヤ」(1958~1959年)を書く。「夜の波音」(1957年)や広島を回想した「青葉の翳り」(1960年)などのすぐれた小品、「ぽんこつ」(1959~1960年)その他の長編新聞小説もあるが、阿川の本領は海軍の体験に拠るものにあり、名称の側面を描いた『山本五十六』(1965年、のち1969年加筆新版)、海軍予備学生群像を記した『暗い波濤』(1968~1973年)などは秀抜、前者で新潮社文学賞を受けた。妻を殴る話として騒がれた「舷燈」(1966年)などもあわせ、阿川の作品は男の文学といえるが、しかし、その簡潔な文体の中には、つねに清冽な感性と人間重視の精神が流れている。乗り物好きで「お早くご乗車願います」(1958年) その他のエッセーがある。1979年(昭和54)日本芸術院恩賜賞を受賞。『阿川弘之自選作品』(10巻、1977~1978年)がある。他に『米内光政』、『井上成美』、『志賀直哉』、『南蛮阿房列車』などの作品がある。

【大木惇夫】
 おおきあつお  1895年(明治28)4.18~1977年(昭和52)7.19。詩人。本名軍一。筆名篤夫、のち敦夫。広島市天満町の呉服商の家に生まれる。県立広島商業学校卒業後、銀行に勤め、約3年後に上京、博文館に勤務、夜間、正則英語学校やアテネ・フランセで学ぶ。1921年(大正10年)大阪朝日新聞の懸賞小説当選。文筆で立つことを決意し小田原に移住、北原白秋の知遇をえて、『詩と音楽』(大正11年)に詩「風・光・木の葉」を発表、盛んな創作活動が始まった。第一詩集『風・光・木の葉』(大正14年)は、自然に対する透明繊細な抒情が漂い好評を得た。つづく『秋に見る夢』(大正15年)、さらに「危険信号」(昭和5年)では時代や社会への強い関心が示され、自己解体を思わせる方法意識の展開があった。しかし、『カミツレ之花』(昭和9年)では、愛妻の死を契機にしだいに沈潜した抒情への復帰がみられた。『冬刻詩集』(昭和13年)は、無常を嘆く悲痛な感懐の中に、古典的詩情への深まりがあった。1941年(昭和16)戦争勃発し宣伝班としてジャワに応召、のち健康を害し福島県浪江で療養、その間詩集『海原にありて歌へる』(昭和17年)を刊行、哀歓をこめた雅語の旋律で人々を揺り動かしとくに「戦友別盃の歌」は前線の将兵に愛誦された。戦後は戦時中の愛国詩などによって非難を浴び窮迫と沈黙の日が続いた。戦後の詩集には『風の使者』(昭和22年)『物言ふ蘆』(昭和24年)『失意の虹』(昭和40年)など。訳詩集として『近代仏蘭西詩集』(昭和3年)『ハイネ詩集』(昭和24年)等がある。晩年は仏典の現代訳に努め、『正像末和讃』(昭和33年)『和訳六時礼讃』(昭和36年)がある。なお1961年(昭和36)には「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」の詩碑が広島市平和公園内に建ち、また郷土人の温かい心を受けて建立された同市三滝山の詩碑(昭和40年)には、「流離抄」の一節が刻まれている。

  【大下英治】おしたえいじ 『小説電通』『小説田中軍団』『美空ひばり・時代を歌う』、

【大田洋子】おおたようこ  1903年(明治36)11.20~1963年(昭和38)12.10。作家。本名初子。広島市西地方町69生まれ。父福田滝次郎は山県郡原村の中農地主。初子7歳のとき、両親の協議離婚により母トミとともに実家、都谷村横山家へ移り、初子親戚の大田家の幼女として移籍された。母トミの4度目の結婚先、佐伯郡玖島村の稲井家へ迎えられたときは9歳だった。玖島尋常高等学校へ転校、1921年(大正10)進徳高女研究科卒。江田島の切串補習学校で裁縫教師を1年余、のち広島県庁にタイピストとして再就職する傍ら新劇グループに加わったり短歌や小説を書いた。1926年(大正15)上京、文芸春秋社主菊池寛の秘書をしながら小説指導を受けたが半年余で広島へ戻った。1930年(昭和9)再度上京、『女人芸術』同人となり、発表舞台を得た。『流離の岸』(大正14年小山書店刊)は自伝的小説で愛情をめぐる流転、自我意識との相克をたどっている。雑誌『中央公論』の懸賞小説に『海女』(昭和14年2月号)が当選、続いて朝日新聞の懸賞小説に『桜の園』(昭和14年3月12日~7月12日朝日連載)が1等入選して一躍脚光を浴びるにいたった。しかし順調な作家活動はやがて戦時体制化の緊迫によって阻まれた。1945年(昭和20)初め、東京から疎開、広島の妹中川一枝宅(白島九軒町)に身を寄せた。母トミ、妹、姪らとともに原爆に遭い、河原で野宿してから玖島村へ移った。被爆体験は大田洋子の作家活動に質的な転換をもたらす。死の恐怖に怯えながら書きついだ『屍の町』は惨状の記録と原爆症への不安のたかまりを訴えるドキュメントである。しかし戦後、占領軍のしいたプレスコードによる規制により1948年(昭和23)中央公論社から出版された『屍の町』にはかなりの部分の削除がほどこされていた。これらを復元、加筆した作品が1950年(昭和25)刊の冬芽書房版である。『人間襤褸』(昭和25年・河出書房)は昭和27年第4回女流文者学賞を受賞。『流離の岸』のテーマと被爆体験の記録をあわせた長編小説で原民喜とともに”原爆文学”の初期を代表する。不安神経症が昂じて、入院加療の身体になったが、その病的な不安のふるえを原爆による人類の破滅に対する怯えに重ねた『半人間』(昭和29年)は文化人会議の昭和29年度平和文化賞を受賞、注目された。『夕凪の街と人と』(昭和30年・講談社刊)は”1953年の実態”という副題が示すように基町の”原爆スラム街”の被爆者群像をルポルタージュふうに追求している。大田洋子自身はジャーナリズムから”原爆作家”と呼称されることを嫌悪し、被爆体験の記憶から免れたいと、晩年は老母をモデルにした私小説に傾いた。福島県猪苗代町中ノ沢温泉で小説の取材中、急死。60歳であった。評伝として江刺昭子『草饐』(1981年大月書店刊=改訂版)がある。1978年(昭和53)7月、建立委員会による募金で大田洋子文学碑が中央公園西詰めに建立された。玖島小学校にも記念碑が建てられた。

【岡田八千代】おかだやちよ 1888年(明治1612.3)~1962年(昭和37)9.10。小説家、劇作家、劇評家。芹影女の別号がある。小山内薫の実妹で、洋画家岡田三郎助の妻。父が広島陸軍衛戍病院長であったため広島市に生まれたが、父の死により3歳で東京に移住。兄薫の影響もあって早くから文学活動を始め、処女作である小品文「めぐりあひ」を発表したのはわずかに20歳のときである。初めての小説「おくつき」を三木竹二に認められたのが機となり、三木主宰の演劇雑誌『歌舞伎』に劇評を執筆。また多くの小説を有力雑誌に次々と発表。兄薫らの自由劇場の旗揚げを機に戯曲創作にも熱意を傾ける。平塚らいてふらの『青鞜』にも賛助員として参加。児童劇団芽生座を創立。太平洋戦争後には日本女流劇作家会を創立するなど、目覚しい活動をつづけた。代表作に小説では「新緑」、戯曲では「黄楊の櫛」、随想では「若き日の小山内薫」などがある。

【小山内薫】おさないかおる 1881年(明治14)7.26~1928年(昭和3)12.25。演出家、劇作家、演劇評論家、詩人、小説家。旧津軽藩士で陸軍一等軍医であった父が広島陸軍衛戍病院長を勤めていたので、広島市大手町に生まれた。5歳のとき、父の死により東京に移住。東京帝国大学英文科卒業。在学中から森鷗外やその弟で演劇評論家である三木竹二に知られて演劇・文学活動に入り、同人雑誌『七人』を創刊。『帝国文学』の編集にも携わり、1907年(明治40)第一次『新思潮』を創刊して西欧の演劇評論や戯曲を精力的に紹介しつつ、歌舞伎でも新派でもない新しい劇の樹立を提唱した。この考えから1909年(明治42)市川左団次と結んで自由劇場を設立、大1回公演にはイプセン作、鷗外訳の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演したが、これはわが国の新劇における重要な起源のひとつとなった。その後も外遊によってモスクワ芸術座のスタニフラフスキーから多くの影響を受け、ゴーリキー『夜の宿』(『どん底』)、アンドレーエフ『星の世界へ』を上演するなど新劇運動の中心として活躍し、さらに1924年(大正13)土方与志らとともに築地小劇場を興して、新劇の父と称せられた。その生涯の活動は日本近代演劇の開拓者としての側面が著しいが、詩集『小野のわかれ』、自伝的な長編小説「大川端」「背教者」、戯曲『第一の世界』などもすぐれた達成を示している。

【栗原貞子】くりはらさだこ 1913年(大正3)~2005(平成11)。広島市安佐南区可部町出身。可部高等女学校(可部高)在学時から詩作を始めた。両親の反対を押し切って反体制運動家栗原唯一と結婚、戦時中から反戦詩を書いた。1945年(昭和20)爆心地から約4km離れた自宅で被爆。知人を捜して市街地を歩き回り、一つの事実を聞く。原爆投下間もない当会ビルの地下室。真っ暗闇の中で産気づく若い女性。部屋は人で溢れていたが、皆傷つき気遣いしかできない。立ち上がったのは血まみれでうめいていた重傷者。産婆だと名乗って子を取り上げ息絶えたー。栗原はこれを「生しめんかな 己が命絶つとも」で結ぶ詩『生ましめんかな』に昇華、「『中国文化』原子爆弾特集号」に発表した。「生ましめんかな」は惨禍の中のヒューマニズム、詩の中の誕生として多くの感動を呼び、中学国語教科書に掲載されたほか、数ヶ国語に翻訳された。谷本清平和賞受賞。核兵器の悲惨さを世界に訴えた作品は500を超える。

【正田篠江】しょうだしのえ 1910年(明治43)12.22~1965年(昭和40)歌人。江田島氏江田島町秋月で正田逸蔵の長女として生まれる。実家は古くから製粉業を営んでいたが、後に製粉機、船舶用内燃機製造に転じ、戦争末期には特攻艇のエンジンを製作していた。1928年(昭和3)安芸高女卒。1945年(昭和20)8月6日広島市平野町の自宅で原爆被爆。戦前から東京藤波海『短歌至上』で杉浦翠子に短歌を学ぶ。後に広島の『晩鐘』『青史』に所属した。1947年(昭和22)12月、原爆の悲惨さを怒りをこめてうたった短歌99首に序歌1首を『さんげ』と名づけて広島刑務所で印刷し、篠枝の友人や被爆者にひそかに配布した。弟の正田誠一(九大教授)らはGHQのプレスコードに触れることを心配し注意したが、篠枝は承知の上で秘密出版に踏み切った。『さんげ』を手にした被爆者は作品に感動し勇気づけられた。短歌の技法はどちらかといえばなまな感動をぶっつけたようだが、一首一首スライドのひとコマのように描写され迫力あるものとなった。1963年(昭和38)秋、原爆症乳ガンと診断され、死の予告の中で詩と歌を書き同年11月「南無阿弥陀仏」三十万名号の筆をとり、1965年(昭和40)1月達成した。原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑には正田篠枝の「太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」が刻まれた。著書には原爆歌人の手記『耳鳴り』正田篠枝遺稿抄『百日紅』童話集『ヒカッ子ちゃん』がある。

【鈴木三重吉】すずきみえきち 1882年(明治15)9.29~1986年(昭和11)6.27。小説家。児童文学者。広島市猿楽町(大手町)生まれ。広島中学から京都の第三高等学校、東京帝国大学英文科と進み1908年(明治41)に卒業。広島の生家は整理し、千葉、東京などに在住。教職、文筆業に携わる。墓は広島市大手町の長遠寺。1906年(明治30)『ホトトギス』発表の「千鳥」は夏目漱石の推賞によるもので、この作品で三重吉は、抒情的な作風の新進作家として文壇に認められるとともに、漱石門の一員に加えられ、やがて同門の中心的な一人になる。以後、「山彦」(1907年)「小鳥の巣」(1910年)「桑の実」(1913年)などの秀作を多数発表し、小説家としての位置を確立した。しかし、「桑の実」以後は創作力が衰え、1915年(大正4)「八の馬鹿」を最後に小説の筆を折る。三重吉の小説には同時代の自然主義の影響を受けた暗いリアルな作風のものも若干あるが、その基本特色は、空想的の境地に美を求め憧れる唯美的な叙情性にある。近代文学史では、谷崎潤一郎らに代表される新浪漫主義に連なる作家とされるが、他面、その抒情性が繊細でち密な独特な描写文に支えられている点で、『ホトトギス』派の社成分の優れた継承者としても、高く評価されている。小説でのゆきづまりを自覚した三重吉は、1916年(大正5)に童話集『湖水の女』を刊行、翌年からは『世界童話集』シリーズの刊行を開始した。1918年(大正7)森鷗外ら当代の主要作家たちの賛同を得て、児童雑誌『赤い鳥』を刊行、以来昭和の一時期の休刊はあるものの、没年まで足かけ17年間にわたり主宰し発行し続けた。『赤い鳥』創刊の目的は、児童にふさわしく、かつ芸術的価値のある童話・童謡の創作運動を日本にも起こそう、というもの。自身「ぽっほのお手帳」「古事記物語」など、多数を発表するとともに、文壇の著名作家たちに執筆を依頼。芥川龍之介、有島武雄らの童話、北原白秋らの童謡、久保田万太郎らの童話劇など、大正期児童文学の名作が数多く同誌から誕生し、娯楽職や教訓色に塗りつぶされていた従来の児童読み物が、芸術的な新しい童話、童謡に高められ近代化されていく気運を作り出した。大正末以降、坪田譲二、平塚武二、新美南吉、らの童話作家、与田準一、巽聖歌らの童謡作家を多く輩出し、さらに文学以外の面でも、成田為三、草川信らの童謡作曲家や清水良雄らの童画家などを生み育てる役割も果たした。『赤い鳥』誌面には児童の投稿欄も設けられ、作文は三重吉自身が、詩は北原白秋が、図画は山本鼎が、それぞれ選評に当たったが、これは、児童尊重の新教育運動が高まりつつあった教育界に大きな反響を起こした。特に見え基地の「ありのままを写せ」という作文指導論は、昭和初年殿各地の生活綴方運動に多大な影響を与えたとされ、1935年(昭和10)著書『綴方読本』は今日の国語教育界でも注目されている。

田中純たなかじゅん 1890年(明治23) 1.19~1966年(昭和41)4.20。小説家・劇作家。秀造・ツネの末子として広島市に生まれた。本名純。広島中学、関西学院神学科を経て、1915年(大正4)早稲田大学英文科を卒業。ただちに春陽堂に入り、『新小説』編集主任となる。文芸評論、劇評を『新小説』『新潮』等に書く。1918年(大正7)『新小説』を退き文筆生活に入る。ツルゲーネフの諸作を翻訳出版。翌年1月、処女小説「知恵の果」、3月「雪解けの夜」を発表。5月、戯曲「五月の朝」が公表を博し、帝劇で上演。11月、里見弴、吉井勇、久米正雄とともに雑誌『人間』を創刊。1920年(大正9)5月、代表作「妻」が高い評価を受ける。この作品で取り上げられた、霊肉二元の葛藤の問題が彼の文学の第一テーマだと言ってよかろう。以後「平太郎の親」や「純潔」「闇に泣く」等が注目された。大2次世界大戦後は、『文壇恋愛史』『作家の横顔』『女のたゝかい』等を刊行した。

「二葉の里 歴史の散歩道」 資料

                                              【不動院】 ふどういん 広島市東区牛田新町にある真言宗の寺院。開祖は空窓と伝えられる。本尊薬師如来坐像(重文)が平安時代の作であることなどから考えて、創建は相当古いものであろう。暦応年間(1338~1342)に足利氏が国ごとに安国寺を設置したとき、安芸ではこの寺が安国寺に充てられた。1380年(康暦2年)ごろには景陽山安国寺と称し、臨済宗東福寺(京都市)の末寺となっていた。その後、兵火で荒廃したこの寺を復興したのが恵瓊である。彼は使僧、政治家として活躍する一方で安国寺住持として金堂(国宝)、鐘楼・楼門(重文)などを創建、移築し、1591年(天正19)には秀吉から1万5000石の知行が安国寺に与えられた。恵瓊死後。福島正則の祈祷師宥珍が入り真言宗に改め。宥珍が奉じた不動明王にちなんで不動院とよばれるようになった。ほかに、梵鐘(重文)、仁王立像、不動院文書(県重文)などがある。
 1 金堂(国宝) 1958年(昭和33)2月8日指定。不動院所有。広島市東区牛田新町3丁目4―9。桁行き3間、梁間4間、一重、裳階付、入母屋造り、柿葺き。この建物は現存する禅宗様の建築としては規模の大きい遺構で、大内義孝が周防山口に建てたものを政僧安国寺恵瓊が、移築したと伝え。中性の本格的な仏殿の規模をうかがえる。正面一間通りを吹き放しとした手法は禅宗様建築には珍しく、大陸的手法と考えられる。手挟や海老虹梁、大瓶束を数多く使った架構や彫刻など、細部まで巧みに造られた繊細な禅宗様の手法を用いながら、全体には雄大な気風がうかがわれる建物である。天井の絵には1540年(天文9)の賛があり、この建物もその頃の建築と思われる。
2 薬師如来坐像(国の重文) 一躯。1917年(大正6) 8月13日指定。不動院所蔵。場所同上。像高140cm。膝張136cm。寄木造り。円満な面相に流麗な衣文の定朝様の作品で、金堂の本尊である。脇侍の日光・月光菩薩を欠いているが、檜材で漆箔塗の平安時代初期の作品である。台座敷茄子の獅子裏に「宝徳二年十月日」などの朱書銘があり、1450年(宝徳2)に修理されたことが分かる。

 3 鐘楼(国の重文) 1棟。1952年(昭和27)7月19日指定。不動院所有。場所同上。桁行き3間。梁間3間、袴腰付、入母屋造り、柿葺、白壁塗りの袴腰付鐘楼で、各部の釣合がよく整った外観をしている。細部は和様三手先の組物を用いているが、軒は二軒扇柱で、隅木も禅宗様の手法をとっているのは珍しい意匠である。1433年(永享5)の墨書銘があり創建年がわかるが、一度移転した痕跡がある。 
  4 楼門(国の重文) 1]棟。1958年(昭和33)5月14日指定。不動院所有。場所同上。三間一戸二階二重門、入母屋造り、本瓦葺。この楼門は、寺伝によると。国寺恵瓊が、朝鮮半島から持ち帰った材木で建てたといい、上層の尾垂木に「朝鮮木文禄三」の刻銘があるので、1594年(文禄3)の建立とも思われるが、沿い部に室町末期の様式手法が見られるので。文禄のは修理とも考えられる。この時代の建物として、ほとんど和様を交えていないのは珍しい。

  5 梵鐘(国の重文) 銅製。1口。1899年(明治32)3月1日指定。不動院所蔵。場所同上。座高108,3cm、口径65 cm。この梵鐘は重要文化財に指定されている不動院鐘楼にかかっており、毛利・豊臣両氏に信頼のあつかった安国寺恵瓊が、朝鮮半島から将来したものと伝えられ、笠形上に単頭式の竜頭と角を立てた挑戦籍である。両肢を踏ん張り、首を曲げて笠形上の宝珠を噛む竜頭は、形式的な硬さがあるが精巧な作である。鐘身部は巻きの強い唐草文、単弁蓮華文等の文様で飾り、下半部の四方には、各1躯の天女が天衣をなびかせて雲上を舞う姿が刻まれている。乳は3段3列の9個が四方にあるが所々欠損している。四方の、下帯に近い低位置に、蓮華文の撞座が鋳出されている。撞座の蓮華中央に円光を負った菩薩坐像と、その左右に「信相菩薩」の銘が刻まれている。
6 不動院文書(県重文) 4巻。1963年(昭和38)4月27日指定。不動院所蔵。場所同上。文書は前身である安国寺の住職で毛利輝元、豊臣秀吉に信任を受け、政治的にも活躍をした恵瓊の活でウや寺の隆盛を示すものと、広島入部後の福島正則の不動院あて書状で、全24通を4巻の巻子本にしている。付として、寺の由来し雑記の2冊も併せて指定されている。1巻は秀吉朱印状1通で1591年(天正19)3月、秀吉が安国寺に1万1500石の知行を与えた目録である。寺院の待遇としては異例の恩典で、恵瓊のけん制を知ることができる。1巻は恵瓊関係の書状16通で、戦乱の時代に発揮した

恵瓊の外交手腕を示すものである。1巻は福島正則関係の文書4通で正則の祈祷師であった宥珍への書状   のほか、門前に91石5S斗の領地を許す宛行状などである。残り1巻は毛利輝元書状写など3通である。         
【安国寺恵瓊】
 あんこくじえけい ?~1600年(慶長5)10.1安土桃山時代の禅僧・政治家。瑤甫と号し、一任斎。正慶ともいう。安芸(広島県)に生まれる。銀山城主武田信重の遺児と伝えられ、1541年(天文10)武田氏滅亡の際、逃れて安芸安国寺(現在の不動院、広島市)に入り、1553年(天文22)東福寺の笠雲恵心の弟子となる。恵心は毛利氏の帰依を受け、毛利氏のために京都との連絡や尼子・大友氏との和平交渉に奔走していたが、恵瓊も師と同様に毛利氏の使僧として活躍するようになる。1570年(元亀元)ころから度々上洛して足利義昭・織田信長との交渉に従事し、木下藤吉郎(秀吉)とも接触して信長・秀吉の将来を予言していることは有名。1576年(天正4)から毛利、織田両氏が戦争状態に入ると、恵瓊は備後鞆(福山市)の安国寺を拠点として活動するようになる。しかし1579年(天正7)東福寺退耕庵主となり全国の情勢に通じていた恵瓊は、毛利氏の劣勢が明らかとなると1582年(天正10)奔走して秀吉との講和を成立させ、なお難航した領国割譲・人質派遣問題も毛利氏の重臣を説得して解決させた。このころから恵瓊は毛利氏の使僧としての性格を残したまま秀吉の側近として活動するようになり、1585年(天正13)には伊予で2万3000石(のち6万石)、1587年(天正15)には北九州で3000石を与えられて織田政権下の一大名ともなる。秀吉死後、石田三成らと結んで徳川家康を討つため毛利輝元を西軍の主将に迎えることに成功するが、関ヶ原の合戦に敗れ京都で捕らえられ、1600年(慶長5)10月1日処刑。63歳あるいは64歳と伝えられる。墓は建仁寺(京都市)にある。禅僧としての恵瓊は安芸・備後安国寺の住持を兼ね、1698年(慶長3)には東福寺住持となった。また寺院の建築にも関与し、不動院金堂。鐘楼・山門、厳島大経堂(千畳閣)、安国寺釈迦堂などが現存する。

 【碇神社】 いかりじんじゃ 広島市中区白島九軒町12。創建は奈良時代初期で、広島城築城前からこの地にあったと伝えられる。城下町では一番古い神社で当時、この辺は海辺で碇を下ろしていたことから呼ばれるようになったという。

 【日通寺】 にっつうじ 広島市東区牛田新町1丁目。英心山と号し、法華宗。1691年(元禄4)幕府による日蓮宗不受不施派禁止令により、藩の菩提寺国前寺がそれに関係するのを恐れ、賀茂郡から廃寺阿弥陀寺(天台宗)を牛田村神田山麓に移し、英心山日通寺と改称、国前寺に代えて菩提寺とした。1694年(元禄7)であった。5年後、法華宗勝劣派越後国本成寺の末寺とされ、城下の同派寺院の触頭となった。藩主綱晟などの霊廟がおかれ、久しく藩の菩提寺として重きをなした。明治維新以後、藩主の霊廟も移され、現在は日通寺観音堂となっている。                                                       

【饒津神社】 にぎつじんじゃ 広島市東区二葉の里2丁目。祭神は藩祖浅野長政の霊1634年(天保5)藩主斉粛が藩祖浅野長政の追悼のために建立を始め、多大の経費をかけて、翌年遷宮式を行ったものである。幕末で天災、飢饉や一揆、打ち壊し、海防問題など世上不安の中でのこの事業は、揺らぐ幕政立て直しの精神的支柱とするためであった。社名は饒津大明神、きたは二葉山神社とよび、境内には家老、年寄以下上層家臣たちが奉献した24基の石灯籠の列や徒士。足軽をも含む家臣たち有志が献備した石製の手水鉢などがそのことを示すかのようである。廃藩置県後、廃止の運命にさらされたが、1672年(明治5)復座、翌1873年社格も県社とされ、饒津神社とされ、以後広大な境内の風致の美と祭礼の数々の催し物によって人々の崇敬、遊楽の場となった。祭礼は 10月9、10日。

 【明星院】みょうじょういん 広島市東区二葉の里2丁目6-25。真言宗古義派、本尊は千手観音、月光山大日寺明星院と号す。浅野時代は城下五カ寺の一として重きをなし、国家鎮護の祈願所、領内真言宗一派の触頭であった。(『知新集』)。縁起は不明で、「広島山瑞川寺縁起」によると、毛利輝もとの広島築城のころ、隣地に明星院の前身ともいうべき禅寺があったことを注記している。ただし、「毛利時代広島城下絵図」には、この付近には妙寿寺(禅宗)がえがかれているのみで、同寺が毛利氏の防長移封とともに去った跡には、福島正則が伊予国石手寺住職栄鏡を招いて住持させ、南光月素月山明星院と改号した。「福島正則分限張」には妙星院として355石5斗を給している。浅野長晟の入国の翌年(1620年・元和6)和歌山愛王院住持秀梅をこの寺に入れ、藩祖長政および同夫人の位牌を安置し、寺領200石を付した。同寺が城の艮(北東)に位置するため、その鎮護の祈祷所とされ、藩主も代々しばしば参詣、各種の祈祷もなされた。

 【鶴羽根神社】るはねじんじゃ 広島市東区二葉の里2丁目5-11。鎌倉時代に建立された椎の木八幡宮が前身といわれる。1868(明治元),年に鶴羽根八幡宮、1872(明治5),年、鶴羽根神社と改められる。約800年の歴史があり広島東部の総氏神。

 【広島東照宮】ひろしまとうしょうぐう 広島市東区二葉の里2丁目1-18。郷社。祭神は徳川家康の霊。社殿の造営は1647年(正保4)で、遷宮は翌1648年(:慶安元)、広島藩主浅野光晟の時代であった。光晟の生母振姫が家康の第三女であったという所縁のためと、すでに備前岡山藩が1645年(正保2)東照宮の遷宮を行っており、それに倣って幕府への忠誠を実を示すための造営であった。藩から社領300石を付せられ、毎年9月16、17日に祭礼があり、藩主在国のときは親しく参拝した。1665年(:寛文5)家康の死後50年忌により、大祭礼が盛大に行われ、本宮から広瀬神社の御旅所への神輿の渡御の行列には藩主も供奉し、沿道には町民がつめかけて、大いににぎわった。以後50年ごとに行われた「大御祭礼」(「通り御祭礼」)は華美をきわめた。例大祭は春が4月第2日曜、秋は10月の第2日曜日となっている。


 【金光稲荷神社】こんこういなりじんじゃ 広島市東区二葉の里2丁目1-18。社殿から奥宮までに100余基の鳥居と500段の石段があり、大小の稲荷社約20社を祀っている。

【二葉山平和塔】
ふたばやまへいわとう 二葉山山頂。世界の恒久平和と原爆の犠牲者の冥福を祈るため1966年(昭和41)に建立された。塔内にはモンゴル仏教徒やスリランカ国より送られた仏舎利が納められている。

  【尾長天満宮】おながてんまんぐう 広島市東区山根町33-16。祭神は菅原道真の霊。『知新集』には寛永年間(1624~1643)広島城主浅野長晟に招かれた京の連歌師松尾甚助(忠正)が、霊夢の中で教えられ、尾長山の中の菅大臣山と呼ばれた所にあった小社を移して、1640年(寛永17)天満宮を建立したのが初めとしている。のち、藩主吉永・宗恒の社参が行われたこともあり、猿猴橋町の酒造家櫱屋(辻村)五代目勘兵衛の崇敬を受け、1734年(享保19)石の鳥居を寄進された。また、社地の存する「随意泉谷」からの清水、いわゆる天神清水が同家の酒造用水とされたといわれる。それと関連して、1900~1901年(明治33~34)ごろまでは、市内の酒造家は毎年元旦には必ず天神清水を汲むことを慣例としたという。(『広島市史』社寺志)。

【国前寺】こくぜんじ 広島市東区山根町32-1。日蓮宗。本尊は三宝四菩薩。長尾山と号する。『知新集』には開山を日像承認とし、この地の草庵主で日像の弟子となった暁忍を2代とし、以後代々暁忍寺と称したという。1656年(明暦2)藩主光晟同夫人自昌院の帰依により、半の菩提寺とされ自昌山国前寺と改号した。寺領200石も付せられたが、1691年(元禄4)幕府による悲田不受不施停止令により、同寺は受不施の寺として、甲州身延山久遠寺下となった。しかし藩主夫人(自昌院)の天台宗への改宗により寺領は召し上げられて、寺も衰退した。境内には「日像船つなぎ松」と伝えられる旧跡がある。 

【聖光寺】 しょうこうじ 広島市東区山根町29-1。尾長山の麓にあり、広島で最も古い寺の一つ。毛利輝元が広島城地検分の際、この寺に泊まり当時、五箇ノ所などと呼ばれていた地名をひろしまと改めたと伝えられている。

  【才蔵寺】さいぞうじ 広島市東区東山町1-11。福島正則の家臣・可児才蔵を祀る寺。才蔵は晩年に仏門に入りみそ造りを勧めたといわれ、才蔵ゆかりのみそ地蔵がある。この地蔵の頂にみそを乗せ合格を祈願する参拝者が今も絶えない。 

【可児才蔵】  かにさいぞう 1554年(天文23)~1618年(慶長18)11.21.豊臣期から徳川初期にかけての武将。美濃国可児郡に生まれる。名は吉長、晩年に剃髪して才入と称し、竹葉軒と号した。はじめ加賀藩祖・前田利家に仕え、しばしば武功をたて勇名をはせた。のち広島城主・福島正則に仕えた。宝蔵院流十字槍の達人といわれ、1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦では、敵の首を討ち取っては、ササの葉を目印としてつけ、後日の証拠としたことからササの才蔵と称された。1613年、広島で没した。 墓は広島市東区東山町の才蔵寺にある。同寺の境内には、福島氏が改易になったとき戦いに備え食料のミソを集めたという才蔵の故事にちなんだミソ地蔵がふる。地蔵の頭にミソを乗せ祈願すると、希望する学校に合格するといわれ、受験シーズンには受験生や保護者たちでにぎわう。
可児才蔵のみそ合戦  広島市に伝わる伝説。今からおよそ380年前のこと、安芸の国の城主福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいた。ふる年の夏、洪水のため堤が切れ、川水は城の濠にあふれて城の石垣をだいぶこわした。ほっておけないので、正則はすぐさま石垣の修理にかかったところ、正則は修理につき幕府の許しを得ていなかったので幕府にとがめられ、安芸の国から追われることになった。ところが、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人のさむらいは、矢賀の小さな城にたてこもったまま動こうとしなかった。それを知った新しい城主浅野長晟は家来に命じて矢賀の城を攻めさせた。才蔵は浅野の兵が城の石垣を登りはじめると、石垣の上からぐらぐら煮えたぎったみそ汁をぶっかけた。みそ汁で兵たちをやけどさせられた新しい城主は、こんどは才蔵たちを兵糧攻めにしようと、幾日でも城をとりまいたままでいた。だんだんと貯えを失ってくると、才蔵はひとつの思案を立てた。城山のお地蔵に笹の葉を供え、それにみそと米をのせておけば、どんな願いごともかなえられるといううわさを近郷近在に流すことだった。城の者はかわるがわる忍び出て、そのうわさをふりまいて歩いたので、うわさはうわさを呼び、城山のお地蔵にはつぎつぎとみそや米が集まってきた。こうして才蔵たちは長いあいだ城を支えたのち、どこへともなく落ちのびて行った。地元の人たちは、やがて才蔵を真言寺に祀ってその寺を「才蔵寺」と名づけ、お地蔵はその寺の境内に移して「みそ地蔵」才蔵は「笹才蔵」と呼ぶようになった。みそ地蔵には、今は受験生か多数参拝してみそ玉をお地蔵の肩に供えている。「ミソを付ける」肩代わりをしてもらったり、地蔵の脳みそを借りたりするためである。


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