広島城の本丸のうち、一段低くなっているところを下段と通称で呼ばれています。
現在広島護国神社がある部分は、江戸時代には本丸馬場があったところです。その他、その東側にかつて米蔵がありました。
現在南側から本丸下段と上段とをつなぐところに階段がありますが(売店の前です)、江戸時代は上段にあがる場所はそこではなく、その場所から東側のところに本丸上段への上がり口があり、その入り口にあたる門(冠木門)がありました。
本丸入り口にあたる門としては、中御門と裏御門があります。
中御門 なかごもん
手前と奥の櫓台の間に門があった。 | 上から見ると、こんな感じ。 | 被爆で火災にあったときの跡が残る石垣。赤くなっています。 |
中御門の昔の姿が写真に残っている。正面から見て右の櫓台の前に看板がある。上の写真にも映っている。 | 正面から見て右の櫓台から上から見ると、こんな感じ。左に堀が見える。 | 上の石垣はこの奥の櫓台にある。この写真は本丸側からみて右側のもの。 |
二の丸(外側)からとった写真です。中御門は、本丸と二の丸をつなぐ、本丸の入り口にあたる門です。堀に対して曲がっており、敵兵が入ってきたときに防御しやすいような仕掛け(専門的には枡形:ますがたと言う)がなされています。原爆で焼けたため、現在門があった位置の両側の石垣は赤色が目立ちます。
裏御門 うらごもん
外(南側)から見た裏御門 | 外(北側)から見た裏御門 |
裏御門(南側)の櫓台 | 裏御門(北側)の櫓台 |
本丸の東側にある門です。中御門が正面とすれば、裏側ということになります。ここも中御門と同じように枡形になっています。
中国軍管区司令部跡
ちゅうごく ぐんかく しれいぶ
半地下の司令部跡 | 半地下の司令部跡(東から) | 中国軍管区軍人軍属動員学徒慰霊碑 |
中国軍管区司令部は、半地下式になっている太平洋戦争の施設で、防空作戦室があり、暗号の解析・各部隊への通信などを行っていたが、この建物だけがかろうじて崩壊を免れた。原爆投下の第一報はこの地下室から発せられました。ここで働いていた比治山高等女学校(現比治山女子高等学校)の3年生が通信員として学徒動員され、3交替制で勤務していました。この司令部の跡の横に慰霊碑(右の写真)があります。
焼け残った通信施設を利用して福山・小倉(手記では九州)に「広島が新型爆弾にやられました」「広島が全滅に近い状態です」と「広島全滅」の報を伝えた。これが市外に初めて原爆の第一報を伝えたと考えられています。広島城内の軍は、爆心地から近かったこともあって壊滅状態となった。当時現在の護国神社にあった中国軍管区司令部の建物も崩壊し、外観が残るたけになった。旧広島城内の軍関係の施設も壊滅状態となった。軍関係では、公式には2184人の死者と2860人の負傷者とされているが、実際には1万5千人以上の死者があったのではないかと考えられている。
※見学には事前の許可が必要です。問い合わせ先は動植物園・公園協会228−0815
マルバヤナギ
中御門の近くに被爆樹木があります。詳しくは 広島城の植物 へ