講演会の記録

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平成18年度「ひろしまの遺跡を語る」
 
新春放談 ぶらりひろしま
江戸の旅〜西国街道膝栗毛
 
毎年、広島県教育事業団埋蔵文化財調査室で、広島県内の遺跡の発掘調査についての講演会が実施されています。今年度は、広島県内にある4法人と共同で、「発掘されたひろしまの城を語る」と題した、基調講演・調査報告・シンポジウムの3本立てです。
日時 平成19年1月6日(土曜日) 11:00−16:30
会場 広島市中区加古町4−17 アステールプラザ 中ホール
基調講演 「街道筋の暮らしぶりにみる”エコ”生活」
       作家 石川英輔 氏
報告1 「広島城下町〜水事情〜」
     松原 啓 氏(広島市文化財団文化財課指導主事)
報告2 「広島城下絵屏風にみる西国街道」
     本田美和子 氏(広島市文化財団広島城学芸員)
報告3 「西国街道四日市宿〜お宿事情〜」
     中山 学 氏(東広島市教育文化振興事業団文化財センター)
報告4 「西国街道をあるく」
     辻 満久 氏(広島県教育事業団埋蔵文化財調査室)
シンポジウム 「ひろしまの江戸時代を掘る」
         司会 河瀬正利氏(広島大学名誉教授)
報告 主に広島城に関することのみ紹介します。

基調講演「街道筋の暮らしぶりにみる”エコ”生活作家」 石川英輔 氏
・要するに言いたいことは「江戸時代は、現代人の感覚からすれば貧しいようだが、循環型の社会で、ゴミもなく、環境にもやさしく、アレルギーもなく、よほど合理的な生活をしていた」ということでしょう。
広島との関連で言えば、明治初頭にE・モースが広島・岩国を旅行したときのエピソードとして、旅館でむき出しのまま置いておいた時計と財布が1週間たっても盗まれなかったという事例から、当時の日本が今と違っていかに安全だったかを紹介していた。

「広島城下町〜水事情〜」松原 啓 氏」
・江戸時代に井戸以外に水を得る手段としては水道(縮景園で水を牛田から引いた例あり)や水売りがあるが、いずれも一般的ではなく、広島城で井戸がこれまで各所で発掘されてきたように一般的であったようである。法務総合庁舎の発掘現場でも沢山の井戸が発見されており、多くが木枠があるものであるが、一部漆喰・石組・素掘のものがある。法務総合庁舎の発掘現場では、集中した箇所から井戸が発掘されることが多く、美味しい水の出るところが限られていたのかもしれない。

「広島城下絵屏風にみる西国街道」本田美和子 氏
・広島城所蔵の広島城下絵屏風は文化年間の広島の街道とそこを行きかう人々が描かれている。物を運ぶ人々、街道を行く旅人や侍があり、細かく見ると、侍が何石取りであるかなども分かる。また、動物は馬がほとんどで、また大八車など車は一つもない(広島では禁止されていた)ことも分かる。
「西国街道四日市宿〜お宿事情〜」と「西国街道をあるく」について
・前者は、東広島市西条で7年間発掘していた宿場の調査報告から分かったこと、後者は一里塚の調査例を中心に広島県内の街道についての紹介があった。
感想
基調講演
なかなかおもしろい、本当に貴重講演でした(笑)。良い講演にありがちな、あっちこっちに話が飛んでいたのですが、現在人に警鐘を鳴らし、江戸時代の生活を我々も見習うべきである、ということを言いたかったと思います。
事例報告
松原氏は、「水事情」という非常に難しいテーマによく取り組んだと思います。本田さん得意?の城下絵屏風でしたが、時間が少なく、本田節は炸裂できませんでした。他の発表もそうですが、30分という時間は少し短すぎるのではないでしょうか。
この講演会全体
基調講演・事例報告を通して、「衣食住」をしたかったのか、「旅」をしたかったのか、結局よく分かりませんでした。事例報告では、報告2−4は街道や旅という点では共通していましたが、報告1は他との関連づけが乏しく、また基調講演者がシンポジウムに参加しなかったこと、シンポジウムでは司会が内容を取りまとめるどころか参加者の質問をパネラー(事例報告者)が答えるだけで終わってしまいました。かなり難しいテーマに挑んだのですが、テーマ設定にそもそもムリがあったように思いました。


近世今中家と広島藩 講演会
広島大学の図書館にある今中文庫は、広島大学名誉教授故今中次麿博士が寄贈されたコレクションがあります。今中家は、浅野家に仕え、広島藩関係の文書などの貴重な資料がたくさんあります。広島大学図書館は、今中文庫の整理と目録作成し、その完成を記念して、今中文庫に関する講演会並びに今中文庫コレクションの展示がありました。遅ればせながら紹介します。
平成18年12月13日(水)13:30−15:00
広島大学中央図書館ライブラリーホール
(1)「今中文庫を読む−今中大学とその周辺−」藤川功和(広島大学図書館研究開発室助手)
今中大学1784-1857は、文政年間から安政年間にかけて広島藩の年寄を勤め、財政破綻危機にあった藩財政を立て直した。これらを、頼春水との交流の分かる文書、嫁ぐ娘に当てた文書、質素倹約について具体的に記載した文書などを紹介した。
(2)「今中家と広島藩政−今中文庫C分類文書群を整理して−」中山富廣(広島大学文学研究科教授)
@藩債の発行A藩主の給料の半減B藩士への倹約令C藩札の切り下げなどの今中大学が実施した経済政策が、今中氏を追放した改革派によって過小評価され、それがそのまま今日の歴史解釈を生んでいる(これを芸藩史観と呼んでいた)。今中氏の評価を再検討する必要があるのではないか、とのことであった。
(3)「『今中家の歴史』」余滴」今中比呂志(広島大学名誉教授) 
今中文庫を寄贈した今中次麿氏の子比呂志氏が父の話を含めた今中家の歴史について話をした。
当日は、文書をはじめ、雷鳥図などの掛軸も展示されていました。また、当日はレジュメ(解説のコピー)も配られましたが、詳細はあわせて出版された「今中文庫目録ー近世今中家と広島藩」広島大学出版会に詳しく掲載されています。


平成17年度「ひろしまの遺跡を語る」
 
新春放談 初夢ひろしまの城物語 
毎年、広島県教育事業団埋蔵文化財調査室で、広島県内の遺跡の発掘調査についての講演会が実施されています。今年度は、広島県内にある4法人と共同で、「発掘されたひろしまの城を語る」と題した、基調講演・調査報告・シンポジウムの3本立てです。
日時 平成18年1月7日(土曜日) 10:30−16:30
会場 広島市中区加古町4−17 アステールプラザ 中ホール
基調講演 「ひろしまの城」
       三浦正幸氏(広島大学大学院教授)
報告1 発掘された広島県の中世城館跡
     小都隆氏(広島県教育事業団事務局次長兼埋蔵文化財調査室長)
報告2 郡山城大通院谷遺跡の発掘調査
     新川隆氏(安芸高田市地域振興事業団文化財担当主事)
報告3 城仏土居屋敷跡の発掘調査
     恵谷泰典氏(東広島市教育文化振興事業団文化財センター専門員)
報告4 広島城跡の発掘調査
     福原茂樹氏(広島市文化財団文化財課指導主事)
シンポジウム 「発掘されたひろしまの城を語る」
         司会 河瀬正利氏(広島大学名誉教授)
報告 広島城に関することのみ紹介します。

基調講演「ひろしまの城」 三浦正幸氏
・広島城は、原爆がなければ日本最古の城である。
・大阪城のまね、輝元の時代、板張りは総漆塗りだった。
・外見はよくても、内部は松の丸太がむき出しであり、外はいいが、仲はまるで物置小屋。毛利の見栄っ張りを象徴している。
・東廊下と天守を結ぶところに木の大階段があった。これは、(最近の調査によると)安土城にもあったもので、唯一残っていた(原爆で消滅)。
・毛利が作った広島城(三浦氏想像)は、西と北の防備が薄く、東と南が硬い。これは、仮想敵国は豊臣。いざとなったら、北にある郡山城に立てこもれた。一方、福島が作った城は、この西と北の防備を強くした。これは、仮想敵国は毛利と考える。
・広島城の特徴は、@日本で10位以内の大きい城、A堀の大きさ、B櫓の数が断トツ日本一(76もある、2位は姫路城の61)まさに、「日本に冠たる城、やたら立派、日本の中心が広島」と言える。
・一方福山城は、広島城に対抗しているので、譜代大名のなかで一番の立派である。

「広島城の発掘調査」 福原茂樹氏
・広島城は、これまで各所で発掘されてきた。
・太田川河川事務所地点では、金箔瓦が出土したが、松皮菱紋の軒丸瓦と桐紋の軒平瓦しかでていない。
・金箔瓦は、豊臣氏が許可したもので、大名によって@軒丸瓦・軒平瓦まで許可した、A鬼瓦などの重要な物だけに許可した、に分けられる。桐紋は廃止された1591年以前の城(広島城もそう)で使用されたこうした瓦は秀吉の命令・指令によって葺かれたという考え(加藤論文による)にのっとって、福原氏は、広島城の築城に、秀吉が大きくかかわった。また、後に毛利・小早川は朝鮮半島で城を築城する(いわゆる倭城)が、広島城は、この倭城をつくるための練習であった。まとめると、毛利氏の豊臣大名化⇒広島城の築城⇒倭城の築城になる。
・あの場所で金箔瓦が出土した理由は、@金箔の建物があの場所にあった(この場合、屋敷に有るのは他の城の例からして疑問) A本丸など他のところから持ってきて捨てた(この場合、これまで本丸などで発掘例が無いので疑問) で、悩んでいるところであるが、ウルトラCとしてB秀吉が止まった家臣の館に金箔をつけたというのはどうか!というのはどうか。と発言されていました。

感想
福原氏の発言ですが、金箔瓦の発言については、織田・豊臣時代の城郭について、その影響について過大評価する研究グループである織豊期城郭研究会の影響を多大に受けているものです。たしかに、ここ10年ほどの間に、この時代の城郭の研究について進歩したのは織豊期城郭研究会によるところは大きいのですが、各地の城郭の、豊臣秀吉による影響力をどこまで見るのかについては、非常に難しいところです。
それはともかく、毛利氏の豊臣大名化⇒広島城の築城⇒倭城の築城という流れは少し言い過ぎていると私は思いますが、私の同僚も同じような感想をもったようです。

※倭城:豊臣秀吉による朝鮮侵略時に朝鮮半島で築城した城のこと。築城時期が絞られるため、近年その研究が活発になっている。


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