ここでは、広島城について必要な知識を紹介していきます。
広島城に関する基礎データ
天守閣について
1 | 高さ | 39m(石垣12.4、建物26.6):公式の数値 |
2 | 完成時期 | 早くて1592年(文禄元年)、遅くとも1599年(慶長4年)には完成 |
3 | 国宝指定 | 1931(昭和6)年1月19日 |
4 | 倒壊 | 1945(昭和20)年8月6日原爆で倒壊 |
5 | 木造天守閣 | 1951(昭和26)年広島国体にあわせて作られる。終了後解体 |
6 | 復元天守閣 | 1957(昭和32)年10月20日着工 1958(昭和33)年3月26日竣工 |
二の丸復元建物について
1 | 表御門 | 高さ10.61m、幅11.46m、奥行き6.36m、建築面積100.36u、延べ床面積79.64u) |
2 | 平櫓 | 高さ7.758m、建築面積119.34u、延べ床面積107.98u) |
3 | 多聞櫓 | 高さ5.126m、建築面積333.93u、延べ床面積333.93u) |
4 | 太鼓櫓 | 高さ10.600m、建築面積76.37u、延べ床面積95.22u) |
史跡について
1 | 指定年月日 | 1953(昭和28)年3月31日 |
2 | 史跡の指定面積 | 118,019.83u(広島城の史跡の指定面積) |
3 | (内訳本丸・二の丸 | 本丸・二の丸が51,098u(15,457坪) |
4 | (内訳内堀 | 内堀66,922u(20,244坪) |
築城に関すること、毛利の時期のこと
1 | 広島城を作った人物 | 毛利輝元(1553-1625)という大名です。有名な戦国大名毛利元就の孫です。いわゆる五大老の一人です。 |
2 | 広島城を作った時期 | 築城を始めたのは1589年です(よく1591年と記載がありますが、始めたのは1589年で記録にも残っています)。 1591年に輝元が入城していますが、どこまで出来ていたかはよく分かっていません。しかし、遅くとも1599年までには完成したようです。 |
3 | 天守閣が出来た時期 | これもよく分かりません。研究によって考え方が異なり、確実な資料も証拠もありませんが、早ければ1592年ころ、遅くとも1599年までには完成したようです。つまり毛利時代に造られたことになります。 |
4 | 広島城を作った理由 | これまでの毛利氏の城は、広島から北東に40キロほどの距離にある吉田(現在の安芸高田市)にある郡山城でしたが、土地も狭いため、新たな城を作る場所として、政治・経済的見地から、広島湾岸に城を建てたと考えられています。 |
5 | 広島城にモデルとなる城 | 毛利輝元は、聚楽第や大坂城を見て広島城を作ったとよく言われています。築城の前年に両方を見ていますが、確実な根拠はありません。聚楽第は、現存しませんが、残っている絵図が広島城の形(縄張り)によく似ています。 |
6 | 広島城が出来るまでの広島は | 五箇村と呼ばれる三角州が広がっており、町があったわけではありませんでした。 |
7 | 島普請というのがあったそうですが | 島普請(しまぶしん)は、千本杭という方法で砂地に城を築く方法との説明が各所にありますが、近年の研究では「島普請」と記した資料が築城の時期をさかのぼることが明らかになったのと、発掘調査で島普請を証明する遺構が確認できなかったことから、島普請があったことを疑問視する説も出ています。 |
8 | 広島の名の由来は | 諸説ありますが、@自然の地形を表す「広い島」からきた、A毛利氏の祖先大江広元の「広」と城地の案内役をつとめた福島元長の「島」を組み合わせた、Bもともとの地名の説があります。真相は不明です。 |
福島正則について
1 | 福島正則 | 豊臣秀吉側の大名で、広島にくるまでは尾張清洲城の城主でした。関が原の戦い(1600年)で徳川家康側(東軍)に属して、安芸・備後49万石8千石の大名となりました。 |
2 | 福島正則は広島城を改築したの | 改築したのは確かですが、場所などはよく分かっていません。南側や北側の外堀の構築、西国街道(現在の本通を通る)などの街道を整備したのは正則といわれています。 |
3 | 福島氏改易の理由 | 城を無断で改築し、破却を言い渡されたにもかかわらず十分に石垣を壊さなかったから、と言われています。 |
浅野時代について
1 | 浅野長晟 | 五奉行であった浅野長政の子です。広島にくるまでは紀伊和歌山城の城主でした。福島正則のあと、安芸と備後の一部(八郡)あわせて42万石6千石の大名となりました。1619年のことです。 |
2 | 縮景園と浅野氏の関係 | 家老の上田宗箇が作庭したと伝えられる浅野氏の別邸です。 |
3 | 浅野氏は何代続いたか | 広島藩主としては、初代の長晟から、12代の長勲まで約250年間続きました(版籍奉還まで)。 |
明治時代以降について
1 | 広島城の建物はいつ壊されたのか | 正確な記録は残っていないものもありますが、明治5年ころから壊され始めたと考えられています(広島藩士植木新之助の日記による)。本丸御殿は明治7年に焼けました。 |
2 | 原爆までに残っていた建物は | 天守閣、中御門、二の丸表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が江戸時代から残っていたと考えられています。裏御門については不明です。他の建物は壊されていたと考えられています。 |
3 | 天守閣は原爆で焼けなかったか | 焼失はせずに、爆風で吹き飛びました。残った木材は薪になったそうです。 |
その他
1 | 鯉城と呼ばれる理由は | 江戸時代には、「鯉魚城」と呼ばれていたようですが、いつ鯉城と呼ばれるようになったのかは分かりません。 くわしくはこちら |
2 | 広島東洋カープとの関係 | 鯉城にちなんで、カープ(英語で鯉の意味)と名づけられました。 |
3 | 広島城の大きさ | 外堀の中までが広島城です。市民球場の40倍の大きさです。現在は内堀のなかだけが残ります。 |
4 | 広島城は平城ですか? | 広島城は平城(ひらじろ)と呼ばれる、平らな場所に作られた城の典型的なケースと考えられています。それまでの城は、山の上に立てられた山城(やまじろ)であり、広島城が立てられたころには平地の丘の上に立てられた平山城(ひらやまじろ)が主流でした。 |