広島城の展示品紹介
広島城は、博物館ですので、沢山の資料を収蔵しています。これらの資料は常に展示しているわけではなく、状況によって時々入れ替えをしており、その一部が展示されているわけです。残りの大部分の資料は、通常は収蔵庫等にあります。ここでは、資料の一部を紹介します。なお、資料は実物は撮影できないので、ご了承ください。
広島城下絵屏風・・・・・広島城2層で展示
この資料は、現在実物の状態があまりよくないため、複製を広島城で展示しています。実物は広島市の重要文化財に指定されています。屏風は左側部分(左隻させき)と右側部分(右隻うせき)に分かれます。
城下町の資料というと、城下町絵図を思い浮かべますが、絵図は現在の地図のようなものですが、この資料は、当時の町が描かれているという点で非常に貴重なものです。資料自体は、江戸時代後半、文化年間(1804-1818)頃の、広島の城下町を描いたものです。ちょうど、広島の町を南から鳥瞰した(鳥のように上から見下ろした)状態です。中央を左から西国街道(山陽道)が通っていて、西国街道沿いに栄えた町が描写されています。様々な種類の店が軒を連ねていることがよく分かります。広島城は、街道の奥側に天守閣が見え、また櫓や門なども見ることが出来ます。屏風に描かれているのは、西は天満川にかかる小屋橋から、東は猿猴橋までが描かれており、東から春夏秋冬に描かれています。
また、建物だけでなく、そこに生きる人々が生き生きと描写されているという点に注目するとおもしろいでしょう。町人だけでなく、武士も描かれています。
馬印・・・・・広島城3層で展示
この資料は、広島市の重要文化財に指定されています。馬印(うまじるし)と言って、長い柄の先に目立つものを立てて、合戦で武将(大将)の位置を示すために作られたものです。馬印には、それぞれの武将により特徴があります。この馬印は、浅野長晟(広島浅野家初代)の兄浅野幸長(あさのよしなが)が朝鮮侵略の際に使用したものと言われており、資料の中央部にある穴は、銃痕の跡と考えられています。
広島城下町絵図(正徳年間)・・・現在は展示していません
(資料の紹介)
広島城下町絵図は、大きさは縦140横110で、江戸時代中期の絵図で、武家屋敷・町屋などが分かりやすく色分けされているため、広島城天守閣の資料としてよく使われています。なお、広島城で開催されていた企画展「赤穂事件と広島」で、大石内蔵助の三男大三郎(もしくは代三郎)がのちに広島藩に召抱えられるという紹介がありましたが、この絵図では、その大三郎の屋敷を見ることが出来ます。
寛永年間広島城下図・・・現在は展示していません
(資料の紹介)
寛永年間広島城下図は、大きさは縦122横92で、武家屋敷・町屋などを色分けして描き、広島城天守閣など一部は描かれているものの、ほとんどが現在の住宅地図のような感じです。屋敷は、家臣名が記載されています。町は、町名が書かれています(今もある紙屋町や、消えた町名が多々あります)。寺院・神社は名称、その他いくつか(比治山とか)の記載があります。埋め立てや町の広がり方が当時どのあたりまで広がっていたかがわかります。
(資料が重要である理由)
この資料は、江戸時代初期の広島城・城下町の姿を記載している非常に貴重な資料です。この資料の重要なポイントは次のとおりです。
1 江戸時代の初期の絵図は少ない。また広島浅野家初代長晟の頃の絵図は、ほとんどない。
2 細かいところを見ると、非常に正確に描かれている。
3 寛永年間の頃の景観年代(その時代の内容を記載している)であることは明らかである。
4 埋め立て、家臣名、寺院名等の記載を総合的に判断すると、寛永2−9年ころの記載と考えられる。これは、浅野長晟時代のことである。
5 この絵図は写本であるようであるが、原図は不明で、幕末(江戸時代末)までに写されたと考えられている。
6 以上を総合すると、非常に資料的価値は高い。
(その他)
この資料は昨年、広島城に寄贈されました。寄贈の時に、担当した関係もあって、この資料に対する思いはひとしおです。さて、内容面ですが、細かく見ると、町がどこまで発展してるか、いろいろわかりました。私はいろいろと分析してみましたが、中でも寺院がおもしろかった。大火の影響で移転した寺院が前の場所で載っていたり、古い名称で載っていたりしていました。移転時期や名称の変更時期がわかれば、景観年代がわかるわけです。寺院に関してはわからないことも少しありますが、ほとんど突き止めました。