思い出話にを添えて












 一つ空いた、そこには誰が座るのだろうか。

本多忠勝が初めて徳川四将として上がったとき、後ろに控える十六将達の並びの空席に目を留めた。

それはある年の正月のこと。

この日だけは一同に顔を合わせ、初めて見る者やなじみの者達と挨拶を交わすだけの平穏な一日だった。



初めて上がったときは気づかなかった。

次の年は気づいたが病欠など何かの理由があるのだろうと、それ以上は考えなかった。

だがその翌年も空いているので思い切って人に聞いてみた。

『十六将の空きには誰が来るのか』と。

自分よりずっと年のいったその人は忠勝がここに来るようになって何度目かを尋ねた後、答えを聞いて納得したようにうなずきながら言った。


『あのお席は石見守正成殿のお席ですぞ。今年も・・・お忙しいようですなぁ。』


にんまりと笑って、その人は去ってしまった。

その翌年も、石見守正成という将は姿を現さなかった。

思い切って主に聞いてもニコニコしながら『あやつが来ないのはいつものことじゃ。』と答えるだけで咎めているわけではない、むしろ好ましいようだった。

ただ、彼のことを知っている者達はごく少人数であることが解り、四将と十六将という分け目ができて今の状態になった最初の年の年賀にも彼はいなかったそうだ。




戦が激しくなってきた。

まだ織田配下の一武将にすぎない家康が飛躍し始めたとある頃。

忠勝はその名にふさわしい武働きを、と織田に呼ばれて配下を連れて家康の陣営を離れた。

昔で言う、客将のようなものだった。

家康は勿論不本意ではあった。が、今逆らうわけにはいかない。

今は、織田を担う武将であることを周りに知らしめておかなければならないわけで、表向きは快く承諾したのだ。




 そして今。

忠勝は、死地にいた。


前線の偵察を任され、10人の小隊で警戒に当たっていた。

酷く雨が降っていて、しかも夜の如く視界は利かない。

兜を流れ伝う雫は鎧にあたってボツボツと音を立てた。

他の9人達はそれぞれ異なる方向を、なんとか目をこらして警戒しながら歩く。



「・・・本多様、そろそろ戻りませんか・・・。雨が、一層強うなってまいりました・・・。」

「ここにいても我らでは目が利きませぬ・・。」


一番側にいる二人が小声で言った。

確かに、この土砂降りの雨では何も見えないし、偵察に出かけたときはここまで酷い雨ではなかったがすっかり様子は変わってしまっていた。

帰ろう。

忠勝は振り返って部下達を見下ろした。



「・・言うとおりだな・・・帰ろう。このまま拙者らがいても、何も見えぬ。」



そして、彼らが元来た道をたどり始めた頃。

この雨の中を仕掛けようとしたのか、相手方の斥候と出くわす羽目になった。

結構な人数だった。

向こうは気づき、足を速めて走ってくる。

忠勝一行らは警戒しながら後ろへ下がる。追いつかれてしまえば人数に差が在りすぎ不利だ。



周囲は長い草が覆い、濡れた頭を重そうに垂れていた。

山の中なので、実は右手奥に小高い斜面が広がっているはずが今は何も見えない。

その向こうは林が広がっていて、忠勝一行はその小高い斜面を横目に長い草の覆うのっぱらへと後退していった。




その時だ。




後ろを警戒しながら最後尾を行く忠勝の目の前に闇が降り立った。

真っ黒い忍装束で、目元しか見えない。

忍だ。

しかし忠勝が我に返る間もなく、その忍は怒鳴った。



「振り向かず走れ、ゆけいっ!!!」



存外迫力のある声だった。

ほっそりした小柄な姿の影だったせいか忠勝達は驚いたが敵意があるわけでもなさそうだし、今は追われている。

弾かれたように彼らはそのまま全速力で走った。

走って走って、追っ手との距離を何とか広げる。

すると、地響きがしてきたので一層足に無理を言わせて走った。

地響きは地鳴りと共に大きくなり、最後には何が何だか解らない轟音だったが忍の言ったとおりに走り続けた。




静まりかえり忠勝はやっと走りを止めた。

そして恐る恐る振り返れば追っ手はない。

雨は霧雨に変わっていて、酷い土砂崩れが起きているのが見えた。

それはちょうど、あの小高い斜面の辺り。

ごっそりえぐられていた。



「巻き込まれたか・・・。」



息を切らしながら忠勝は何とか口に出した。

部下達も兜を脱ぎ、あえぐように呼吸をしている。

あの忍がおらず後ろを警戒しながら走っていれば巻き込まれていただろう。

何となく忠勝は、丘の上を見上げた。

大分明るく視界は明るい。

すると、えぐれた斜面のその頂上に黒い影が一瞬、いたような気がした。

気がしたというのは「誰かいる」と思った瞬間姿を消してしまったからだ。

何者かは解らないが、敵意はなかった。

むしろ、同じ陣営に属す者なのかも知れない。

忠勝は心の中で感謝し、部下達の回復を待って本陣へと戻っていった。









二→