これまでとは違う、新しい関係にね。

 

      そう言うマリューが浮かべる微笑は、またしても見惚れるほどに綺麗で、なのに不吉な予感

     が胸を掠める。

 

      新しい関係って何?

      まさか別れ話でもしようっての?

      彼女の笑顔があんなに輝いているのも、新しい恋をしてるからとかじゃないよな?

 

      思わずマイナスな思考に囚われてしまったムウは、いいや、そんな訳ないじゃないか、と打

     ち消すのに必死になって、ついつい自分の思考の中に落ちていく。

      そんな無防備になってしまったムウの耳に、続くマリューの言葉がするりと飛び込んできた。

 

     「―――だって、わたしたち、パパとママになるんですもの」

 

      へ?

 

      思いも寄らなかったマリューの発言に、ムウはこれ以上は無いというくらいに驚き、ただ呆

     然と立ち尽くす。

      そのまま、言葉の意味が脳の奥底に染み込むまで、たっぷり3分間は固まってしまった夫を

     前に、如何にもしてやったりという余裕の笑みを浮かべた妻は、辛抱強く次の行動を待つ。

      憎らしいほどにキレイなその笑顔。

 

     「…パパ?」

 

      そう訊きながら自分を指差すのに、

 

     「そうよ」

 

      にっこりと微笑み返し、

 

     「…で、ママ?」

 

      今度はマリューのほうへ指先を向けるのにも、

 

     「ええ」

 

      やはりにっこりと頷き返す。

 

      改めて言葉の意味を確認したムウは、しばらく口の中でパパとママという単語を反芻してい

     たかと思うと、

 

     「えええええぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」

 

      思いっきり声をあげるや、慌てふためいて立ち上がる。

      途端にゴンドラが大きく揺れるが、マリューは馴れている所為かちっとも動じないし、ムウ

     もまた抜群のバランス感覚を無意識のうちに発揮してよろめいたりなんかしない。

 

     「…なぁ、それって」

 

      ここまでの経緯にも一向に動じないマリューの両肩に手を置いて、にっこり微笑んだままの

     笑顔を覗き込みながら、改めて確認するムウ。

 

     「子供ができたってこと?」

     「そうよ。ずいぶんと鈍いじゃないの。エンデュミオンの鷹ともあろうひとが」

 

      あまりの情けなさに、マリューがころころと鈴の音を転がすような笑い声を立てる。

      けれど驚愕でいっぱいなムウには、そんなマリューのからかうような笑いにも反応すらでき

     ない。

      それどころか、

 

     「…俺たちの子供…なんだよね?」

 

      そんな事を訊いてくるので、笑っていたマリューの眉が少しばかり顰められる。

 

     「あら、憶えがないとでも仰るの?」

     「い、いやっ、決してそーゆーわけじゃなくて、あのー、そのー…」

 

      己の失言に気付いて、あれこれ弁明を考え始めたムウだったが、くすっというマリューの笑

     い声が聞こえて、彼女が本気で怒っていない事を悟ってホッとする。

      それと同時に、改めて自分の血を受け継ぐ子供が宿ったのだという事実が重く心に圧し掛か

     ってきて、少しばかり複雑な心境になった。

 

     「どうしたの? 嬉しくないの?」

 

      ムウの心の微妙な変化を感じ取って心配するマリューに、そうじゃないよと小さく頭を振る。

 

     「ただ、何かさ。俺みたいなのが親になっても良いのかな、なんて思っちゃってさ」

 

      子供と聞いて思い出したのは傲慢だった父親のこと。それからそんな父の傲慢さから産み落

     とされ、すべてを憎みながら世界を道連れに破滅へと向かっていった男のこと。

      マリューに張り飛ばされて――本当に思いっきり引っ叩かれたことがあって、すっかり振り

     切れたと思っていたのだが、やはり心の奥底には幾許かのしこりが残っていたらしい。

      何とも言えない不安がじわじわと染み出してきて、素直な喜びを阻害する。

 

     「親に愛されずに育ってきた俺が、ちゃんと子供を愛せるのかな、ってさ」

 

      不安なんだと、軽く目を伏せて、珍しくも弱気な台詞を口にするムウに、

 

     「なぁーにバカなこと言ってるの?」

 

      明るく力強いマリューの声が届く。

 

     「あなたはわたしを愛してくれてるじゃない。愛される事を知らない人には、こんなふうに誰

     かを愛するってことはできないものよ。あなたはちゃんと人を愛するってことを知っているひ

     とだわ」

 

      だから大丈夫、と、マリューは顔を上げたムウに殊更に綺麗な微笑を見せる。

 

     「それにね。あなた、忘れてるようだから言っとくけど、この子はあなただけの子供って訳じ

     ゃないわ。私の子供でもあるのよ」

 

      そう思うと愛しくて堪らないでしょう?と、マリューはまた笑った。

 

      その笑顔を見ながら、ムウは心に染み出した不安が払拭されていくのを感じた。

      確かに彼女の言う通りなのだ。この子は、あの忌まわしい――と自分では思っている――フ

     ラガの血を受け継ぐだけの子供じゃない。いま目の前で笑顔を浮かべている最高に素敵な女性

     の子供でもあるのだ。

      どうして不安に思う事があったのだろう?

      これまで互いに愛し愛されて、育んできたものの結晶ともいえるこの子を、どうして愛せず

     にいられようか。

      そう思うと、胸に込み上げてくるものがある。

 

     「マリュー、ありがとう」

 

      ムウは膝をついて、マリューと視線の高さを合わせると、肩に置いたままの手を背に回して

     そっと抱き寄せた。

 

     「俺…、すごく嬉しいよ」

 

      肩口に埋められた金色の頭が微かに震えている。

 

     「いや、嬉しいとか、そんな言葉じゃ足りないくらい、もう何て言ったらいいのか判んねぇく

     らい…、ものすごく、嬉しい…」

 

      胸に沸き起こる感情を伝えようとするムウの声が少し掠れているのは、もしかしたら泣いて

     いるのかも知れない。

      マリューはそんなムウの身体をそっと抱きしめ返した。

 

     「あなたが昔、淋しい思いをした分もわたしが愛してあげる。そりゃもう、有り余るくらい、

     たっぷりとね」

 

      言いながら広い背中をぽんぽんと優しく叩く。まるで幼子をあやすかのように。

 

     「だから、あなたもわたしと子供たちにいっぱい愛を返してちょうだい」

 

      まるで聖母のように慈愛に満ちた声が体中に染み込んで、暖かな気持ちが溢れてくる。

 

     「そうして、みんなで幸せな時間を作っていくの。そしたら、あなたが得られなかったものも、

     取り戻すことができると思うのよ」

 

      ね?と問いかけると、言葉は返って来なかったが、肩口に埋められたままの頭が肯定のカタ

     チに動くのが感じられた。

      いつまでも顔を上げないのは、本当に泣いているのかも知れない。

      そう思ったマリューはもう一度、広い背中を抱きしめてやった。

 

 

 

      やがてゴンドラが地上について、短い空中の旅が終わる。

      お疲れ様でしたー等と言いながら、お客を降ろすために扉を開けた係員は中の様子を見てぎ

     ょっとした。

      普通、終点近くになったら降りる準備をしていそうなものなのだが、夫婦と思しきそのカッ

     プルは、女性の方はまだシートに座ったままだったし、男性はというと、膝立ちした格好で座

     ったままの女性に抱きつき、女性の肩に頭を預けている状態だったのである。

      一瞬、どーしようかと頭を悩ませた係員の若いお兄さんは、男の背を優しく抱いた女性から

     微笑を向けられ、その輝くばかりの笑顔に胸をドキリとさせられる。

 

     「ごめんなさいね。もう1周しても良いかしら?」

 

      本当は降りてもらわなければならないのだが、彼にはそのお願いを拒む事ができなかった。

 

     「判りました。もう1周だけですよ」

 

      特別に、と念を押して扉を閉めると、その間際、ありがとうの声と共にもう一度女性が微笑

     むのが見えた。

 

      なんて綺麗で素敵な笑顔なんだろう。

 

      それは見せられたこちらまで、なんだか幸せな気分にさせられてしまうような、そんな笑顔

     だった。

 

      勝手な事をして、後で叱られるかもしれない。でも、あの笑顔のためならそれでもいっかー。

 

      胸に灯った、ほんわかと暖かな気持ちを抱いて、係員の若いお兄さんは次に降りてきたゴン

     ドラに向かった。

 

 

 

      ゆっくりと上昇していくゴンドラ。

      再び誰にも邪魔されない時間を手に入れたふたりは、しばらくそのままの状態でいたが、や

     がてムウがゆっくりと顔をあげ、マリューから離れる。

 

     「ありがとな、マリュー。俺、マリューに出会えて本当に良かったって、心からそう思うよ」

 

      膝立ちした姿勢はそのまま、まっすぐに瞳を見据えて、もう一度感謝の言葉を告げるムウの

     目には涙は見えなかった。

      でも、その声は有り余る感動のためか、少し震えている。

 

     「この世で最高にいい女を嫁さんに出来て、俺は宇宙一の幸せモンだぜ」

 

      言いながら顔を寄せ、啄ばむように軽くくちづける。

 

     「なんか、いま、俺の30年の人生の中で最高の喜びを感じてたりするんだけど」

 

      そう言うと、途端に「あら?」とマリューが笑いながら突っ込んでくる。

 

     「まだ29歳なんじゃなかったの?」

 

      30年と言い切るまでにはあと2週間は残ってたでしょ、と、先程のディアッカとの遣り取

     りを持ち出して笑うマリューに、ムウも苦笑を返す。

 

     「そんな細かいとこ突っ込まんでも…」

 

      そのままふたりしてくすくすと笑いあって、ひとしきり笑った後、今度はマリューがムウの

     空色の瞳を見据えて口を開いた。

 

     「これから何度でも『人生で最高』な瞬間を体験させてあげるわね」

 

      初めての子供の誕生。

      初めてパパと呼ばれたとき。

      立った。歩いた。エトセトラ。

      感動の瞬間はこれからいくらでも訪れるだろう。

 

     「覚悟しててね、旦那さま」

 

      挑むように、そう言えば、

 

     「りょーかいしました、奥さん」

 

      楽しみにしてるよ、との言葉と共に、再びくちびるが寄せられる。

      さっきのより少し深いキス。

      幸せを噛み締めながら、何度もキスを重ねているうちに、やがてゴンドラが傾いて、そのう

     ちに地上に到着する。

      今度こそ降りなければならない。

 

      もう良いですか?と声をかけつつ扉を開けた係員の若者が、今度はちゃんと降りる気配がし

     てることに安堵の表情を浮かべるのに、「無理を言って済まなかったな」と声をかけて先に降り

     たムウは、続いて自分で降りようとしたマリューを「あぁ、いいから」と制するや、よいせっ

     と抱きかかえてゴンドラから降ろしてやる。

 

     「あ…、ありがと、ムウ」

 

      礼を言ったマリューの声は、しかし、次には非難の声に変わる。

      何故なら、マリューを抱きかかえたムウは、彼女の身体を地には降ろさず、そのまましっか

     りと抱き上げたまま歩き出したからである。

 

     「ちょっ、ちょっと、ムウ?!」

     「あぁ、暴れないの」

 

      恥ずかしがって降ろしてともがくマリューの抗議も何のその。お姫様抱っこでしっかり抱え

     たまま階段を下りていくムウ。

 

     「大事な身体なんだからさぁ」

 

      階段から落ちたりしたら大変だ。

      早くも過剰な反応を見せているムウの態度に呆れるやら、恥ずかしいやら。

      でも、降ろしてくれそうにないなぁと思ったマリューは、腕の中、大きくため息を零す。

 

 

 

     「あっ、いたいたー」

     「ムウさんたち、こんなとこにいたんですかー」

 

      と、そこへ、ふたりの姿を見つけた若者たちが駆け寄ってきた。どうやら姿の見えなくなっ

     たムウたちを探していたらしい。

     …が、マリューが抱きかかえられているのに気付くと、みな騒然となる。

 

     「あーっ、おっさん。ナニ恥ずかしい真似してんだよっ」

     「えっ、マリューさん、どうかしたのかっ?」

 

      みなが口々にどうしたのかと尋ねると、ムウはディアッカのおっさん呼ばわりに抗議するこ

     とも無く、軽い足取りで階段を降りながら、至極上機嫌な様子で声をあげた。

 

     「おぉっ、お前らー、聞いて驚けー!!」

 

 

 

      そして楽しげな歓声に溢れる遊園地に、若者たちの一際大きな歓声が響き渡った。

 

 

 

                              HAPPY END

                               2003.12.1 UP

 

 

                   遅ればせながら何とか書きあがりました。フラガ兄貴お誕生日

                  記念でございます。しかしっ、果たしてこんなので良いのだろう

                  かというような内容になってしまって、滝汗な松崎…

                   なんかもう、思いがけず長くなっちゃうし(やっぱ悪癖長編病

                  再発だわ 苦笑)、余計な設定が増えて説明的な台詞が多くなっち

                  ゃって、夫婦の会話が自然な流れにならなくなっちゃうし、何度

                  も書き直してしまいましたわ。まだ少し、しっくりきてないよう

                  な気がするんですけど、現在の松崎にはこれが精一杯だわ。いつ

                  か気力がでてきたらリベンジしてみようっと。

                   …と、言う事で、取りあえず。

 

                   ところで、これもマリュさん時と同様、フリーにしても良いん

                  だけど、欲しがる人はいるのかな? 疑問(苦笑) なんつーて

                  も、どこがSSやねんと突っ込みたくなるくらい長いしなぁ。

 

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