風早郷の仏たち
12月の郷土史講座・歴史探訪のバス旅行に参加して戦国大名河野氏の出身地で、古代の地名を「風早」と呼ばれていた伊予北条の史跡を巡った。
風早の郷(現・松山市庄)の田圃とミカン畑に囲まれた「庄」薬師堂境内の収蔵庫に、愛媛県下最古の仏像とされている木造菩薩立像と木心乾漆像造菩薩立像の2躯は安置されている。
そして、県下最大でこの薬師堂の本尊である薬師如来坐像は比較的小ぶりな堂内に丈六の躰で坐していた。
木造菩薩立像(国重文) 像高215㎝の一木造、貞観時代の作。損傷度合い激しく、尊名は不明なるも、宝髻 を高く結い上げ、胸飾を付けている。左手を垂下させ(手首から先は欠失)、腕釧 を付けた右手は肘を鋭角に曲げ何か(天衣?)をつかむ形をとっている。足首から下及び台座は欠失。
僅かに残る表情は比較的厳しく、また、量感豊かな分厚い胸、いかり肩の線、裙 に表れている翻波式衣文 などは貞観仏の様相である。
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木心乾漆菩薩立像(国重文) 像高233.2㎝の木心乾漆造(※)貞観時代の作。前記の菩薩立像より一層損傷激しく、像表面の乾漆も大部分が剥落し、僅かに顔の一部と裙の下方の一部に残るのみである。顔の表情、衣文の細部など詳細は不明なるも、本像のように乾漆による造像技法は白鳳時代~天平~貞観時代にかけて流行した(鎌倉時代にも一部造られたが)技法であり、本像も天平~貞観にかけて造像されたものと思われます。
(※)漆を固めて造る乾漆造の一つで、荒く彫った木彫像を芯にして(木心)その上に木屑漆 (木片を細かくしたものを漆で練ったもの)を盛り上げて細部を造形する手法。
宗昌寺(松山市八反地)は、南北朝時代の元弘元年(1331)、越智経孝夫人・宗昌禅尼により創建され、
大蟲宗岑 の開山といわれており、現在は黄檗宗の古刹。(参考:松山市HP)
山門の両側に連なる白壁の所為か清楚な印象の寺院である。
宗昌寺・文殊菩薩坐像(県文化財) 像高81㎝の寄木造、本像は一つの髷を高く結い上げた一文字文殊(一髻文殊)と称される像で、左手に経巻、右手に宝剣を持つ一般的な像容である。文殊菩薩は多くの場合は鳥獣座の一種である獅子座(獅子の背に蓮華座を置いた台座)に結跏趺坐、或いは半跏坐の形をとるが、本像は通常の蓮華座に結跏趺坐している。(台座と光背は後補か?)
顔面、内刳に像の造立時期を示す墨書があり、鎌倉時代末期の康安2年(1362)の造立と考えられる(松山市HP参考)。
写実性のある衣文は鎌倉彫刻の様子を表す一方衣のボッテリ感は室町時代の様相を表しており、鎌倉~室町の端境期の様相の感がある。
宗昌寺・大蟲禅師倚像 (※)(県文化財) 像高115㎝の寄木造。頭部内刳に康安元年(1361)の銘あり(松山市HP参考)鎌倉末期の造立とわかる。
(※)倚像・・・台座や椅子に座り、両足を下ろした座り方(白鳳~天平時代の如来像に多い)。倚像の頂相 (禅宗の肖像のことで鎌倉時代以降は多く作られた)は曲彔 (僧侶が座る椅子)と呼ばれる椅子に座る。
光徳院(松山市高田)は密護山護持院神護寺と称し、嘉元元年(1303)後醍醐天皇勅願所として尊龍上人が再興し、地方祈願の総本山でもあった。天和2年(1682)松平松山藩4代藩主定長が現地に再興し、恵日山光徳院歓喜寺と改称した。(松山市HP参考)
光徳院・阿弥陀如来立像(県文化財) 光徳院の本尊(松山市HP参考)で像高157.5㎝の一木造。
貞観時代の作で 納衣を通肩に着け、下品上生印を結び蓮華座に立っている。
切れ長の強い目、堅く結ばれた口元など厳しい表情、いかり肩に量感のある分厚い胸、腰から太ももにかけての衣文などは貞観時代の様相であり、大阪府・神護寺の薬師如来立像(国宝)、奈良・元興寺の薬師如来立像(国宝)を連想させるものである。
光徳院・聖観音菩薩立像(県文化財) 像高165.5㎝の一木造で貞観時代の作。
煌びやかな宝冠(後補か?)胸飾、瓔珞、をつけ、条帛を左肩からかけ、天衣を膝前で湾曲させている。左手に蓮華を持ち、右手は垂下して与願印を結んでいる。
裙の衣文に僅かに翻波式衣文が残っている。
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