青目寺  日光・月光菩薩立像


1月、冬晴れの日に同好の人々と府中市歴史探訪の一環として青目寺を訪れた。同寺には、4年前の春に一度訪れたことがあり、日光・月光の両菩薩、聖観音と2躯の天部像を拝観させていただいたことがあるが、このたび再度拝観することができた。 
収蔵庫に安置されている仏像は、いずれも長い歴史の変遷を見つめ続けており、訪れる拝観者にその重みとロマンを感じさせるものでした。なかでも備後地区を代表する有数の貞観仏とされている日光・月光菩薩立像の2躯は奈良、京都の有名仏像に負けない魅力を醸し出しています。


 真言宗御室派、岩谷山青目寺(府中市本山町)は市の北方にある亀ヶ岳(標高540m)の中腹の切り開かれた平坦地にあり、境内からは奈良時代に国府が置かれていた府中の市街地が一望できる。 

 創建は、弘仁4年(813)讃岐・屋島寺の青目上人が天台宗の寺院として亀ヶ岳山上の「七ツ池」付近に堂宇を建立し、十一面観音を祀ったことに始まるとされている。延喜年間(901〜923)には12もの堂塔が建立された伽藍を擁する大寺であったが、天慶7年(944)、長久4年(1043)と2度の火災に遭い堂塔伽藍を悉く焼失したと伝えられている。その後、建仁年間(1201〜1204)に備後の守護となった杉原氏が現在地に再建し、焼失を免れた仏像を集めて祀ったと謂われている。
(この項、参考;http://www.sky-net.or.jp/hige/motoyama/02.htm)

 長い歴史の変遷の中で、何時の頃からかわからないが寺は無住となって、宗旨も天台宗から真言宗となり、現在は真言宗御室派の西龍寺(府中市栗栖町)の住職が兼務されている。

日光菩薩立像月光菩薩立像日光菩薩立像 月光菩薩立像
 いずれも像高88pの木心乾漆像(※)
宝髻を結い、天冠台を付けている。左肩から条帛を着け、天衣は膝前で大きく二重に湾曲させて、一端を垂下した左腕の手首に掛け、もう一端を屈折した右肘に掛けて各々両体側に垂らしている。(日光菩薩) 月光菩薩は日光菩薩と対称的に造られている。両菩薩ともに日輪、月輪などの持物を持っていたと思われるが、今は欠落(?)している。
 
日光、月光の2尊は単独で祀られることはなく、薬師如来の脇侍としてのみ祀られる。本像の場合も、元々は中尊の薬師如来が祀られていたと思われるが現在は祀られていない(焼失?)。日光、月光の判別は、持物なく、薬師如来も祀られていないので判別し難いが(通常は中尊の向かって右側〈左脇侍〉に日光菩薩、向かって左側〈右脇侍〉に月光菩薩を配するのが一般的)、持物を持っていたと思われる腕の形状からみて左の写真が日光、右が月光と思われる。
 両菩薩立像ともに乾漆が多く残っており、又、裙部には貞観仏に多いとされている翻波式衣文がかなり鮮やかに見られる。そして、これらは造像時期の目安にもなる。

(※)木心乾漆像…像の原型を木で作り表面に木を細かく砕き漆で練ったもの(木屑漆(こくそうるし))を盛り上げて造った像で白鳳時代から弘仁・貞観時代にかけて多く造られた(鎌倉時代にも一部造られた)造像技法。

(日光・月光写真の上にマウスポインタ−を置くと写真の説明が確認できます)
 

日光菩薩立像
裙部の翻波式衣文

月光菩薩立像
裙部の翻波式衣文

表面に残っている
乾漆

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