佛谷寺の仏たち


境水道大橋を渡り、美保湾沿いの道を東に向かって車で15〜16分ほど走ると、島根半島東端の美保関漁港に出る。 漁港の無料駐車場に車を止めるとすぐ近くに、ゑびす様の総本社「美保神社」がある。鳥居を横目で眺め,参拝が後になることを詫びながらながら佛谷寺へと通じる「青石畳通り」(※1)に足を運ぶ。通りを左折すると突き当たりに佛谷寺山門が見える、山門といってもかなり小振りで簡素な門であるが、仰々しく威張っておらず寧ろ周辺の雰囲気によくマッチしており好感が持てる。



山門 龍海山 三明院 佛谷寺(松江市美保関町美保関530)は創建以来1200年の歴史を誇る山陰の古刹である。 
 その昔、海中に三つの怪しい火が出現し、風雨荒れ狂い、住民、航海者はこれを三火(みほ)と呼び恐れていた。  その頃、当地を巡錫した僧行基は海中の三火(みほ)を封じて人々の難を救うと仏像を彫り、この仏を祀るため一堂を建立し、龍海山三明院としたのが佛谷寺の開基とされている。そして、その仏像が現在の大日堂(収蔵庫)に安置されている5躯の仏像と伝えられている。
(参考資料;佛谷寺略縁起)
 

本堂当寺は後に弘法大師により七堂伽藍が建立され真言宗となったが、室町後期の永正12年(1515)順慶上人によって再興、浄土宗と改宗された。永禄、天正に亘る毛利、尼子の戦いで七堂伽藍焼失したが、先の諸仏は難を免れ、戦国の動乱を見守ってきた。 承久の乱(承久3年・1221)、元弘の乱(元弘2年・1332)で隠岐に流刑となった後鳥羽上皇、後醍醐天皇が立ち寄られ、当寺を行在所(あんざいしょ)とされた。(参考資料;佛谷寺略縁起)
 また、山門を入ったすぐ左側には、“八百屋お七”の恋人“吉三”の墓(※2)がある。
 



                      大日堂

 大日堂には、薬師如来坐像(国重文)、日光菩薩立像(国重文)、月光菩薩立像(国重文)、虚空蔵菩薩立像(国重文)聖観音菩薩(国重文)及び毘沙門天立像、阿弥陀如来坐像(傷み激しい)の7躯(5躯は国重文)が安置されている。(拝観料¥300必要)
ここでは、国重文に指定されている5躯を紹介する。
 
                  
                    
薬師如来坐像 薬師如来坐像
 弘仁・貞観時代の作で像高100p余の一木造、壇像様。
恰もスキ−帽を被ったように螺髪を白毫間近まで表し、鋭い目つきで見据えている。腹部には二本の皺を刻み、納衣は偏袒右肩(※3)に着け、その襟を高く立てている、この様式が所謂出雲様式と呼ばれるものか。分厚い胸、いかり肩、など非常に量感豊かで、納衣の左胸に刻まれた旋転文など貞観仏の特徴を表している。 堂の中央で、裳掛座に結跏趺坐(吉祥坐)している。


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納衣の高い襟、腹部の2本皺、胸の旋転文など


 月光菩薩立像
日光菩薩立像 日光菩薩立像立像(尊名は佛谷寺の表示による) 弘仁・貞観時代の作で像高略170pの一木造、壇像様。
持物は欠失しているが、左手は肘鋭角に曲げ(おそらく日輪か蓮華を持っていたと思われる)、右手は垂下して天衣を手首に掛けている。腰を僅か左にひねり蓮華座に立っている。

 
 月光菩薩立像(尊名は佛谷寺の表示による) 弘仁・貞観時代の作、像高略160pの一木造、壇像様。
 日光菩薩立像と同様持物は欠失している、左手は肘をやや鋭角に曲げられ、右手は緩やかにまげ蓮華座に直立している。
 通常、日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍として作られ、独尊で祀られることは無く、中尊の左右に配され、略対称的に作られる。 本像の場合は日光と月光の腕の形は否対象(日光の右手が垂下ならば月光の左手が垂下でなければ対称形ではない)、又、条帛、裙、天衣などの衣文の処理なども大きく異なっている。おそらく一具のものとして作られたものではなく、製作時期も異なり、仏師も異なっていると思われる。〔両菩薩の配し方も中尊の左右でなく左方(向かって右)に両菩薩が配されている、多分何らかの事情によるものと思われる〕



                
                
虚空蔵菩薩立像虚空蔵菩薩立像(尊名は佛谷寺の表示による) 弘仁・貞観時代の作、像高略170pの一木造、壇像様。
 虚空蔵菩薩の立像はかなり珍しいのではないか、(まったく無いわけではないが、通常は坐像が多い)シンボルともいえる五仏宝冠は付けておらず(欠失か)大きく宝髻を結い上げている。複雑に絡ませた天衣の端を垂下した右手首に絡ませ、左手は肘を鋭角に曲げ持物を持つ形(持物は欠失か)で蓮華座に直立している。衣文の流れもかなり複雑であり、所々に刻まれた旋転文は薬師如来坐像と同じ形状である。薬師如来坐像と同時期の造立か。
 分厚い胸、太い腰など量感あるれる体躯は貞観仏の様相を表している。

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複雑な衣文と天衣の流れ

聖観音立像 


聖観音菩薩立像 弘仁・貞観時代の作、像高略170pの一木造、壇像様。
胸に胸飾、瓔珞を付け(彫刻)、左手を垂下し、膝前で二重に湾曲させた天衣を手首に掛けている、右手は肘を曲げ蕾の蓮華を持ち、蓮華座に直立している。
 強い目と前に突き出したような唇、いかり肩、厚い胸、太い腰は薬師如来、虚空蔵菩薩と同様に量感たっぷりでやはり貞観仏の様相である。

 
                               (クリックで拡大)
 

厳しい表情、彫刻された胸飾・瓔珞


大日堂に安置されている5躯はいずれも、奈良、京都の有名寺院に見られるような洗練された仏像と違い、地方仏独特の荒々しい力強さと素朴さが感じられる。1200年間この地で幾多の動乱、社会の変遷を見つめ、これからも変化の多い世の中を見続けていくであろう。


(※1)…美保神社から佛谷寺へと続く小路で、江戸時代に敷かれた青石(緑泥片岩)が雨に濡れると青色に美しく変化する。(平成18年度漁村の歴史財産百選に認定)
(※2)…八百屋お七が刑に処せられた後、恋人の吉三は発心して西運と名乗り巡礼の旅に出て、当佛谷寺で納所となり70歳で入滅したのを葬った墓とされたいる。(参考;佛谷寺略縁起)
(※3))…納衣(大衣)のつけかたで右肩を露わにするつけ方。(両肩を納衣で覆うつけ方を通肩という)本像の場合、別布で右肩を覆っているので通肩のようにみえるが、よく見ると偏袒右肩である。

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