神谷神社の随身像


 仏像紀行のサイトに随身像を加えることは聊か違和感を覚えるが、(神像であれば本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の観点から仏像に加えても許されるが、随身像となると神像の一つと言えないこともないが多少話は違う)あえて掲載する次第です。

 7月の郷土史紀行歴史探訪は一足先に梅雨の明けた猛暑の四国・讃岐坂出の崇徳上皇伝承地廻りであった。途中、崇徳上皇とは直接のかかわりはないと思われるが、五色台の一峰・白峰山の谷間を流れる清流神谷川の中腹に沿って建てられた神谷(かんだに)神社に参拝し、収蔵庫に安置されている随身立像を見せていただいた。

                                 
神谷神社延喜式内社・神谷神社(坂出市神谷町 鎮座) 由緒によれば、神社のある渓谷は太古神々が集い遊んだところから神谷と呼ばれた。神社裏には影向石(えいこういし)と呼ばれる磐座(いわくら)が存在し、付近からは弥生式土器が出土しており、古来から祭祀が行われていたことが伺える。
 弘仁3年(812)阿刀大足(あとのおおたり)(空海の叔父)が社殿造営し、併せ春日四神を相殿(あいどの)に勧請したと伝えられている
。(参考;神谷神社由緒)
本殿 




また、本殿は国宝に指定されており、建保7年(1219)荘官の刑部正長により再建された3間社流造。建造年の明らかな神社建築としては日本最古。[建造年は明確ではない神社建築で最古のものは京都・宇治市の宇治上神社本殿の内殿とされている(年輪年代測定の結果11世紀後半といわれている)]




 
随身立像吽形随身立像阿形木造随身立像(阿形・吽形の2躯) 像高: 阿形・吽形ともに略125cm、一木造?(胴部など主要部分は一木造)で鎌倉時代の作。
頭上に巾子冠(こじかん)(※1)を戴き、闕腋の袍(けってきのほう)(※2)を着け両袖を垂らしている。両肘をやや張って腕を前に出し、両手は何か(弓?)を持つ形(持物欠失)をとって沓を履いて立つ阿・吽両像は一具のものとして作られている。彩色は両像の巾子冠と吽形像の袖の一部に若干残るが、大部分は剥げ落ちて欅の木目が鮮やかに現われ、その容貌はまるで歌舞伎役者の隈取のようで、神を守護する武官の気迫が表れている。 袍の襞は力強く、深く彫られ、写実的で鎌倉時代の様相を示す。

随身阿形

随身吽形

        (クリック拡大)



 随身とは、平安時代以降貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことを言う、或は神社の門(随身門)の左右に神を守護する者として安置される随身姿の像(随神)を言う。本像は阿吽の一対であることから後者である。
(※1)・・・冠の頂上部に高く突き出ている部分を巾子という、髻を入れ、その根本に(こうがい)を挿して冠が落ちないようにした。(参考;ヤフ−辞書)
(※2)・・・束帯姿の袍の一種、両脇の袖付けの下を縫い合わせないで広げたままの袍で動きやすくしたものを闕腋の袍といい、武官や幼年期の束帯に用いた。また、文官や四位以上の武官は縫腋の袍を着けた。(参考;ヤフ−辞書)


拝観を終えて、快く撮影に応じて戴いた宮司さんの奥様に感謝し、猛暑の中汗を拭き拭き次なる目的地に向かった。


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