明王院・阿弥陀如来立像


土用明けの暑さひとしお厳しい日、ある郷土史会の人々と県立歴史博物館・平成20年度企画展を見学したのち、芦田川西岸の朱塗りの塔が映える明王院を訪れた。 本尊の十一面観音立像(国重要文化財)は秘仏とのことで拝観出来なかったが、本堂脇陣に安置されている阿弥陀如来立像を住職のご好意で拝観させていただき、写真も撮らせていただいたので紹介します。

                                                              護摩堂から書院越しに五重塔を望む明王院標石
お寺から貰った明王院案内記を要約すれば、明王院の草創は大同2年(807)弘法大師の開基と伝えられる古刹である。
 鎌倉時代には常福寺と称する南都西大寺末の真言律宗の寺であった、即ち現在の本堂(国宝)、五重塔(国宝)、山門(県重文)がその遺構である。
また、鎌倉時代に本庄村に明王院・円光寺という寺があったが承応4年(1655)福山藩3代藩主水野勝貞のとき常福寺と明王院を合併して常福寺の寺籍を廃し明王院としたとされている。水野氏は宥仙を住職として、末寺四十八寺を付して祈願寺とし、庇護保全に努めた。(参考;明王院案内記)



 
阿弥陀如来立像阿弥陀如来立像 像高183p、寄木造、鎌倉時代の作。本堂脇陣に安置されている。 面貌はふくよかで彫眼とし、螺髪を切り込みで表し、比較的大きめの肉髻朱を付けている。 納衣を通肩に着けて下品上生(上品下生の説もある)の来迎印を結び、(とくに右手には「手足指縵網相」(※)がよく表されている)蓮華座に直立している。 納衣の衣文の処理は多少形式的なところもあり一見室町時代の作を思わせるが、明王院案内記によれば、鎌倉時代の常福寺には阿弥陀堂も建立されていたらしく同堂の本尊であったことも考えられる。(造像時期は鎌倉時代か) 尚、後補とみられる彩色は荒さが目立ち、また、胸部には左右の材を繋ぐための鎹が露出している。 光背は二重円光連弁形で唐草文を彫り出している。  (県、市の文化財には指定されていないようであるが、なかなかバランスの良い立像であり、この大きさの仏像は県内では数少ないのでは?)

手足指縵網相が良く出ている

胸の鎹が露出して痛々しい

                                 (クリックで拡大)

(※)手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)…仏陀の外見的特長を表す32相の一つで、手足の指の間に水かきのような膜があること。


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