大願寺の仏像たち



島・大願寺(廿日市市宮島町)は、いつの時代の開基なのかよくわかりませんが、建仁年間(1201~1203)に僧了海により再興されたとされています。同寺は明治初頭の神仏習合の慣習を禁止した神仏分離令までは、厳島神社の普請奉行として千畳閣などの厳島伽藍ほか、箱崎宮、宇佐八幡などの修理造営に係わってきたとされています。本堂には、尊海渡海日記の屏風(国重文)、薬師如来坐像(国重文)を含む多くの仏像、絵図、朝鮮鐘など貴重な文化財が保存・安置されています。そして、平成18年4月には、現在の平山住職によって140年振りに護摩堂が再建されました。また、同寺は「厳島弁才天」(秘仏)が安置されており、江ノ島、竹生島と並ぶ日本三大弁財天の一つとしても有名です。



     薬師如来坐像(国重文)

本堂正面の稍左方、厨子の中に安置されている。鎌倉時代の作で、像高50㎝の一木造。
偏袒右肩(へんたんうけん)衲衣(のうえ)を着け、右手に施無畏(せむい)の印を結び、左手に薬壺を持ち、蓮華座に結跏趺坐(吉祥座)している。
美しく流れるような衣文に多少藤原時代の面影を漂わすが、その力強く刻まれた衣文などは小像ながら鎌倉彫刻の様相を呈している。また、薬師如来坐像の左右に脇侍の日光菩薩、月光菩薩は配されていないが、蓮弁形の光背に日光・月光の両菩薩が刻まれている。










釈迦如来坐像(国重文)(右写真)
 
 
本堂正面の稍右方に厨子入りの大迦葉立像(だいかしょうりゅうぞう)阿難陀立像(あなんだりゅうぞう)と共に三尊の中尊として安置されている。鎌倉時代の作で、像高85㎝の寄木造。右手に施無畏印、左手に与願印を結び、衲衣を偏袒右肩に着けて蓮華座に結跏趺坐している。
 目は玉眼で鼻筋の通ったその人間臭い表情は鎌倉時代の特徴。背にする光背は頂上に宝塔を配した連弁形の光背である。
尚、本像は、千畳閣の元本尊であったが明治の初頭に大願寺にお迎えしたもの、とのことである。









大迦葉立像(国重文)    阿難陀立像(国重文)

                                    
                                     【大迦葉立像】釈迦如来坐像の向って右側に祀られている(左写真))。鎌倉時代の作で、像高91㎝の寄木造の彩色像。
大迦葉(だいかしょう)は、釈迦の十大弟子の一人で、弟子たちの中心的な存在として知られている。その性格は厳格であったと云われているが、ここ大願寺の立像は、大きく目を見開き、耳には(※耳璫(じとう)を付け、やや口をあけ、首筋と肋骨を浮き出させた痩身であり、いかにもその性格が現れているようである。両手を胸前で組み合わせて、左足を半歩前に出した立像である。尚、本像も、元は千畳閣で釈迦の脇侍とし祀られていたものといわれている。


【阿難陀立像
先の大迦葉立像と共に釈迦如来の向って左側に祀られている(右写真)。鎌倉時代の作で、像高91㎝の寄木造の彩色像。
阿難陀(あなんだ)も釈迦の十大弟子の一人で、弟子たちの指導的立場にあったといわれている。大願寺の像はやや面長で目鼻立ちがすっきりした顔つきで、前面に彩色が残るゆったりとした衣を着け合掌をしているハンサムな立像である。この像も、大迦葉立像と共に元は千畳閣で釈迦の脇侍として祀られていたものとされている。


耳璫・・・耳たぶにあけた穴に付ける耳飾(イアリング)。耳璫を付けた像は中国地区では珍しい。


尚、大願寺には、前述の4躯以外にも護摩堂本尊・不動明王半跏踏下像(丈六の大仏像)、五重塔元本尊・釈迦三尊像、護摩堂元本尊・如意輪観音像、十一面観音立像、及び弁財天坐像(秘仏)など多くの文化財が安置されています。


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