鎌倉・建長寺

 秋の爽快さが深まった10月末、旧友夫妻と4人で鎌倉五山(※1)を訪れ、翌日修善寺へと足を伸ばした。鎌倉の街は、ウイ−クデイにも拘らずさほど広くない道路には観光の人と車で溢れており聊か驚き、感じ入った次第である。(尤も我々もその多い人と車の一員であったが)なかでも五山の第一位に列せられる建長寺はかねてから一度訪れてみたいと思っていた寺である。

 総門前の駐車場に車を止めて、総門をくぐり右手の拝観受付で入山料(\300/一人)を支払う、著名な寺院のわりには奈良・京都の寺院に比べ安い。五山全てを訪れたが無料〜¥300の範囲であり、総じて西高東低の感あり、寺社・史跡の探訪を趣味とする者にとっては有難いことである。
                  
建長寺 巨福山(こふくさん)建長興国禅寺と称し、鎌倉市山之内に建つ鎌倉五山の第一位の名刹で臨済宗建長寺派の大本山。鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227〜1263)が宗僧・蘭渓道隆(※2)を招き、建長5年(1253)に建立した我が国最初の禅寺。
 寺名は建立の年号に、山号は巨福呂坂(※3)にちなむ。

創建当時の伽藍は鎌倉中期から室町初期にかけての地震やたび重なる火災で失われ、現在の建物は江戸時代以降に再建したものである。
 創建当時の建物は失われたが、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は創建当時を偲ばせる。


総門 (巨福門)総門 
天明3年(1783)の建立で、昭和15年(1940)に京都・槃舟三味院(はんしゅうざんまいいん)から移築されたもの。総門に掲げられている額の「巨福山」の「巨」の字の4画目の下に余分な点が書き加えられている、受付で尋ねたら当寺10世住職が揮毫の際、筆の勢いで1点を加えたとのことで、価百貫の値打ちがあり百貫点と云われているとの由。
 








三門三門(重要文化財)
 総門をくぐると正面に30m余の高さの豪壮な銅板葺きの重層門が聳えており、初層には仁王像を置かず、門扉・壁は無い。安永4年1775)の再建である。三門の楼上には五百羅漢像が安置されているが非公開である。



仏殿仏殿(重要文化財)
 寄棟造、単層裳階(もこし)付の建物で、正保4年(1647)に芝の増上寺にあった徳川2代将軍秀忠夫人崇源院(すうげんいん)小督(おごう)の方)の霊屋を移したもので、霊廟として造られた建物とのこと。建長寺の本尊地蔵菩薩坐像が安置されている。
 尚、仏殿に向かう参道の両側には栢槇(びゃくしん)の巨木が7本あり、建長寺延喜によると慶長5年(1253)以来750年余の歳月と幾多の火災を生き抜いてきた貴重な樹です。



法堂


法堂
(重要文化財)
文化11(1814)の建立で年禅宗以外では「講堂」に相当する建物で木造建築では関東最大といわれている。内部には千手観音坐像が安置されている。



唐門

唐門
(勅使門・重要文化財)
方丈の入口門。仏殿同様芝・増上寺の崇源院の霊屋から移したもの。





方丈(竜王殿)


方丈

「竜王殿」とも呼ばれている、総門と同様京都・槃舟三味院より移築したもの。




梵鐘


梵鐘
(国宝)
三門に向かって右手にある鐘楼には建長7年(1255)に、大和権守物部重光が鋳造した梵鐘が掛けられている。
総高207.7cm、口径125p、重量2.7t、で円覚寺の鐘と共に鎌倉時代を代表する大鐘である。









庭園
(名勝史跡)
方丈の裏側にあり、大覚禅師の作庭





※1鎌倉五山…寺格。鎌倉時代末期より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成された五山制度。室町時代に京   都と鎌  倉の五山の寺格が固定された。
※2蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)…鎌倉中期に南宋から渡来した禅僧、大覚派の祖。建長5年(1523)北条時頼が建長寺を建てたとき   招かれて開山となる。
※3巨福呂坂(こぶくろざか)…鎌倉市にある切通しで鎌倉七口の一つ、子袋坂とも呼ぶ。鶴岡八幡宮の裏手の雪ノ下から山之内を  結ぶ道。


参考資料:建長寺延喜、Wikipedia




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