教王護国寺(東寺)


 
 東寺を訪れるたびに講堂の諸仏、金堂の薬師三尊などよく拝観させていただくが、五重塔内部は拝観したことが無く、このたびの冬季特別公開で拝観させていただいた。

 
東寺(京都市南区九条町)は、東寺真言宗総本山で正式には教王護国寺と称され、宗教法人としての公称となっている。ただし、南大門前の石柱、或は掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とある。

 
縁起 
平安京遷都の2年後、延暦15年(796)平安京の正門である羅城門の東西に国家鎮護の意味合いを持った官寺として「東寺」と「西寺」が建立された。

西寺は東寺とほぼ同じ規模の寺院とされていたが正暦元年(990)伽藍焼失その後再興されることなく、現在は発掘で出土
した金堂の礎石の一部が残るのみで、小学校の敷地や公園になっており「西寺跡」の標石が立っている
 
 弘仁14年(823)、嵯峨天皇は空海(弘法大師)に東寺を与え、国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場(東密)となった。 平安後期に一時衰退するが鎌倉時代に入り、弘法大師信仰と共に寺勢は盛んになった。中世以降は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏などの援助で栄えた。 
 
 
文明18年(1486)主要伽藍の大部分を焼失したが、豊臣、徳川家の援助で金堂、五重塔などが再建される。たび重なる火災で創建当時の建物は残っていないが、現在の伽藍配置や規模は平安時代のものと変わらないとされている。
                                                                 
                                            参考:フリ-百科事典「Wikipedia」

伽藍
                            
金堂:創建時の建物は文明18年(1486)焼失、現在の金堂は慶長8年(1603)再建のもの。礎石、基壇などは創建時のままといわれている。金堂(国宝) 南大門(正門)をくぐって正面に見える。現在のものは慶長8年(1603)、豊臣秀頼の寄進で再建されたもの。桁行7間、梁間5間の入母屋造、本瓦葺一重裳腰付。建築様式は和様と大仏様の併用。(左の写真は'05年11月撮影のもの)
 
 堂内には
(撮影禁止)、金堂本尊の薬師三尊像が安置されており、中尊の薬師如来坐像は像高288㎝の丈六仏。桃山時代の作であるが、印相は薬壷を持たず古様となっている、台座も裳掛座で周囲に十二神将を配した古様である。また、光背には七仏薬師が配されている。
 
 両脇侍の日光菩薩立像(向かって右)、月光菩薩立像(向かって左)は像高290㎝と289㎝の半丈六仏である。
 
 三尊いずれも木造漆箔で桃山時代の作である。(中尊頭部内納入木札に慶長8年東寺大仏師康正が製作し旨の墨書がある由)

(写真の上にマウスポインタ-を置くと補足説明が出ます)


講堂:承和2年(835)に完成した当初の講堂は、文明18年(1486)に焼失。現在の講堂は延徳3年(1491)に再建されたものである。
講堂(重要文化財) 金堂の北側(背後)にあり、真言密教道場としての東寺の中心堂宇となっている。現在のものは、延徳3年(1491)に再建されたものである。桁行9間、梁間4間、単層入母屋造、本瓦葺の純和様建築である。
 
 堂内
(撮影禁止は、須弥壇中央に大日如来坐像を中心とした五智如来坐像(大日如来・阿閦如来(あしゅくにょらい)宝生如来(ほうしょうにょらい))不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)・阿弥陀如来)中心の大日如来坐像は284㎝の丈六仏で、取り巻く四仏も中尊より小さいがいずれも140㎝弱の半丈六の坐像である。
 
 須弥壇の向かって右側には金剛波羅蜜多菩薩を中尊に五大菩薩金剛薩埵菩薩(こんごうさったぼさつ)・金剛宝菩薩・金剛業菩薩(こんごうごうぼさつ)・金剛法菩薩)が安置されている。

 また、向かって左側に不動明王を中尊に五大明王(不動明王・金剛夜叉明王・降三世明王(ごうさんぜみょうおう)大威徳明王(だいいとくみょうおう)軍荼利明王(ぐんだりみょうおう))が安置されている。
 
 更に右端には、鵞鳥座に梵天坐像、左端には、象座に帝釈天坐像が安置されている。そして、須弥壇の四方隅では、四天王が夫々の方角をまもっている。
 
 これら21躯の仏像は、通常は絵画で表現される曼荼羅を立体的に表現したもので、空海の指導の下に配置されたとされていて、立体曼荼羅と呼ばれている。


五重塔:創建以来、4回焼失しているが地震で倒壊した記録はない。これは塔身が各層毎に、軸部、組み物、軒を組み上げて、最上層まで繰り返す柔構造となっているためである。(参考:東寺・パンフレット)

 
五重塔(国宝) 今回東寺を訪れた主目的は、この度の初層内部の公開で拝観することであった。

 空海が嵯峨天皇から東寺を勅賜された弘仁14年(823)には、まだ建立されておらず3年後の天長3年(826)に空海により着工されたが、実際の竣工は9世紀末の元慶7年(883)であった、空海は承和2年(835)3月満60歳で没したとされており、したがって五重塔の完成を見ていなかったことになる。

 塔は創建以来、雷火などで4回焼失しており、現在の塔は寛永21年(1644)徳川家光の寄進で建立されたものである。高さ55m、本瓦葺で、木造塔では日本一の高さを誇り、新幹線の車窓からも見ることが出来る京都のシンボル的な存在である。

 初層内
(撮影禁止)は、通常公開されていない所為か、想像していたよりも柱、壁、などの彩色の剥落少なく、描かれている諸尊など良好な状態である。また、塔の心柱を大日如来にみたて、周囲の須弥壇に金剛界四仏(阿閦如来・宝生如来・不空成就如来・阿弥陀如来)と八大菩薩が安置されている。いずれも像高60㎝強の像であるが、台座、光背などの装飾華やかで、いかにも江戸時代の造像を思わせるものである。




南大門:東寺の正門、桃山時代の豪壮な門である。




 
南大門(正門)(重要文化財) 京阪国道口交差点から東(近鉄東寺駅方向)へ略100m、九条通りに面して建つ。

 現在の門は、桃山時代のもので、桁行3間、梁間1間、切妻造、本瓦葺の八脚門で豪壮な門である。明治28年(1895)蓮華王院本堂(三十三間堂)の西門を移築したもの。元の門は明治元年(1868)に焼失している。








東大門(重要文化財):別名「不開門(あけずのもん)と呼ばれることもある。

 
 
東大門不開門(あけずのもん))(重要文化財) 境内の瓢箪池の東側にあり、大宮通りに面している。創建年代は不詳であるが、現在の建物は鎌倉時代の建久9年(1198)文覚上人の大勧進によって再建されたものである。桁行3間、梁間1間、切妻造、本瓦葺の八脚門である。

 建武3年(1336)6月、新田義貞が東寺の足利尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉め危うく難を逃れることが出来た、この故事によりこの門を別名「不開門(あけずのもん)」と呼ばれている。のち、慶長10年(1605)豊臣秀頼が大修理を加えたものと伝えられている。(東大門説明立札より)






宝蔵:平安時代の建物で、東寺に於ける最古の建造物。

 
宝蔵(重要文化財) 拝観入り口(慶賀門)の南側、周囲が掘割で囲まれている。観光バス駐車場の裏側にあたり、殆どの観光客は気が付かず注目されない。

創建当時は南北二棟建立されており、宝物、経巻が収蔵されていた。(現在は一棟) 長保2年(1000)と大治元年(1126)に焼失し、建久9年(1198)文覚上人により再建されたと伝えられていたが、昭和29年(1954)の解体修理の結果、東寺創建時に近い平安時代の建物と考えられている。(東寺に於ける最古の建造物)  (参考:宝蔵説明立札)

3間四方の寄席棟造、校倉造、本瓦葺。


上記以外にも東寺には数多くの建造物、仏像彫刻、画像、などの重要文化財が保存されています。


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