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広島県手話通訳士協会
2009年1月広島県手話通訳士協会会報より
 08年12月23日、「手話通訳士研修会in広島」に参加しました。

 「手話通訳士研修会in広島」番外編
 
      
         Rightは、どうして「権利」なんだろう?

2008年12月23日、テキストとして『政見放送における手話通訳〜聴覚障害者の参政権〜』という日本士協会発行のブックレットを購入して、「『政治・選挙参加支援手話通訳士研修会in大阪』から学ぼう」に参加した。この研修自体は午前中の2時間と短いもので、ただただ楽しんだ。研修の中で紹介された「武装」「装備品」「冤罪」等の「新しい手話」の表現は、心を打たれるものあり、思わず「え?」と声をあげてしまうものありだった。

 研修後、早速ブックレットを読んだ。後半に掲載されている資料集は、番号順に追っていけばそのまま聴覚障害者の参政権保障の取り組みの歴史となるものだった。前半掲載の協会理事 山田京子さんの講義にも思うところは多かったが、あれもこれもとなると散漫になるので、今回は、山田さんが触れておられた「世界人権宣言(Universal Declaration  of Human Rights)」から思い起こしたことを書いてみたい。当日の研修からは番外的な内容となるが、お許し願いたい。

 私は中学から英語を学び始めて、今ではそのほとんどを忘れてしまったのだが、英語を学ぶ過程で生じた疑問で、今も覚えているものがある。Rightという単語のことだ。この単語には「正しい」という訳語と「権利」という訳語が与えられている。中学だったか、高校だったか、Rightを教わった時に、「正しい」ということと「権利」ということは日本語では全く別物なのに、英語では両方ともRight なのか?とふしぎでならなかった。今回、山田さんの講義に触れ、「人権(Human Rights)」という語からそのことを思い出した。この機会にと思い、Right がなぜ「正しい」と「権利」の2つの訳語を持つに到ったのか、その理由を調べてみた。

 調べてみると、Right という語は、本来は「正しい」という意味であり「道徳上の正しさ」と「法律上の正しさ」を併せ持つ語なのだそうだ。ということは、日本語で「人権」という訳語を当てているHuman Rightsは「人として正しいこと」と訳すのが本来なのかもしれない。そして、そのRight の原意は「力」というものとは、むしろ対立する意味の言葉であった。
 
 日本人がこのRight と深く接することになるのは、幕末から明治期にかけてのことだ。そうした外国の言葉を日本語に訳出することに大変な苦労を伴ったということは、想像に難くない。Right とイクオールになる日本語がないからだ。柳父章(やなぶ・あきら)さんの『翻訳語成立事情』(岩波新書)を読むと、福沢諭吉(1834〜1901)は『西洋事情 二編』の中で、Rightの意味について400字近くをかけて説明し、結局どの訳語を用いても「原意を尽くすに足らず」と述べていることがわかる。
 そして、これを訳したのは福沢と同時代の啓蒙家 西周(1829〜1897)だった。一説によれば、彼は荀子の『勧学』という書物にあった「権利」という語を訳語として当てたと言われている。しかし、この「権利」は実は「力づくで実現する利益」という意味だった。私が以前参加した講演会でたまたま聞いた話だが、「権利」という語のこのような意味を指して、福沢は「Rightを権利と訳せば、必ずや後世に禍根を残す」とまで言ったらしい。
 
 又、別に、柳父さんの本の中では、漢訳本の『万国公法』や『英華字典』の中でRightには既に「権」という訳が与えられていて、西周はその先例を参考にしたと紹介し、彼はどうして「『権』というずれた意味の、誤解されやすい言葉で翻訳したのだろう」と述べている。いずれにしても、この時代「権」は「力」であった。そして、初めのうち、Rightは「権利」という言い方だけでなく、「通義」「権義」「権理」などとも表わされていたが、この中で「権利」という語が、後の民権運動と結びつくことになった。『翻訳語成立事情』には、「民権家たちは、政府の『権』に対して、自分たちもまた、本質的にはそれと等しい『権』を求めた。たとえば、民権家たちの求めたのは、まず参政権など政治にあずかる『権』であった。基本的人『権』のような『権』はあまり問題にされなかった。そして、求められていたのがRightであるよりも多分に『力』であったために、それは比較的容易に理解され、支持された。とくに旧士族たちを惹きつけた」とある。原意では「道徳上、法律上の正しさ」を表したRightが、一人の日本人によって「力」を意味する「権利」と訳され、後の民権運動と結びつき、特に旧士族から支持され定着して行った。Right が「権利」という日本語を持つに到ったことにはこういう背景があった。

 
 調べてはみたものの、少々心中複雑になった。「権利」という語を、私はどういう意味で使っているのか、改めて考えてみなければと思った。けれども、「聞こえる人と同じように政見を知りたい」というろう者の思いは、Human Rights つまり「人として正しいこと」以外の何ものでもないと、改めて強く感じた次第だ。

 ただ、ここで、もうひとつ興味深いことに気づく。『私たちの手話』によると、「権利」は「力(ちからこぶ)」+「リ」で表される。もちろん、私の知る人達もこの表現を使っているのだが、この手話は、いつ頃、誰が作った手話なのだろう。日本手話研究所に問い合わせてみると、「どこかの地域で使われていた表現を参考にして標準化される手話があるが、この表現はそれに当たるのではないか」とのことだった。誰か特定の人がこのように考えて作った…という手話ではなく、その元は自然発生的にろう者集団の中で生まれたものだろう。とすると、この手話ができた時代のろう者は社会のさまざまな動きや事象の中から、「権利」を「力」と見ていたのかもしれない。聞こえる人と対等になる、平等になる、その「力」が「権利」だと…。そんなことも想像してみる。
 ちなみに、この時代、西周は「哲学」「文学」「心理学」「小説」「義務」等を、福沢諭吉は「自由」「演説」「鉄道」等を、劇作家の坪内逍遙が「男性」「女性」「文化」「俳優」「運命」等を、新しく訳出していて、興味深い。

 さて、冒頭に触れた「新しい手話」は、日本語の単語から手話単語への訳出作業によって生まれた手話だ。Right を訳すことに先人が経験したであろう苦労、それに近い苦労の中で生まれた手話表現がほとんどだろう。訳出の努力に敬意を払いつつ、こうした新しい手話は、ぜひろう者と共に学ぶ機会を設けるとか、日常のおしゃべりで話題にするなどしたい。その中で、一緒に感動したり違和感を覚えたりしながら、広めて行きたいと思っている。

                                          (S)