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            広島城下歴史散歩


1.毛利氏の広島城築城と当時の町割り
 

かって中国の雄-毛利元就が天下取りを夢見た日に海島であった比治山に築城し、ここを根拠地として天下に号令しようとする計画があった-と伝えることもあながち誇張しすぎた話ではなかろう。比治山は高さ七十メートル南北に長くて1キロ、面積は十六町歩余り。 南麓一帯に密生するメゴ笹は、古城址では防御用、馬糧用として必ず植えてあるもので比治山城大手門に当たる南麓に密生していることは築城第一歩を踏み出した証左といえる。

弘治元年 (一五五五) 毛利元就は水軍 川内衆の将、山県就相に「地家の庄の十人堤を築き止めたら末代まで課税を免除し知行地として所持してよい」と申し渡している。

当時の五箇の庄は上流から流されて来た自然土砂の埋積のまま放任され荒れるに任せていた。

「芸州広島城町割之図」についてみても、大部分は侍屋敷で占められ、町屋敷に宛てられた地域は意外に限られたものである。 すなわち城の大手門に向けて、途中まで開削された汐入りの堀川(西堂川)の東側に革屋町・板屋町があるが、それと西側一帯(後の白神組)、ここから元安川を渡った中島地区、さらに本川を渡った広瀬地区の南端が僅かに町屋敷に区画されているのである。

ただこれらの地区が後世も内海航路と結ぶ水運の利便にもっとも恵まれたところであることは、その配慮があってのことと思われる。

毛利氏の商工政策については、輝元の代も基本的には地域経済圏の形成発展をふまえて成長してきた座の商工業者の営業特権を保証し、それら在来の体制を容認するたてまえをとってはいるが、一方西国街道を初めとする主要道路や重要港湾都市、地域市場などの公領化(直轄化)を進めこれらの地域市場に成長してきた新しいタイプの商人(初期豪商)らや 鍛冶・番匠・大工・革屋など軍需的な職人らを、それぞれの在地において給人化をはかり、直接御用商職人として掌握する途を進めている。

 文政五年(一八二三)編纂の「知新集」に毛利氏時代の広島来住の名家、旧家に

関する町屋の居住地区と身分別出自、出身地を記録した資料がある。  それによると

出身地については三十七戸中吉田郡山とするものが十戸でもっとも多く、これに次ぎ佐東郡、高田郡と続くがそれらを合わせて安芸国内から二十戸で五四%を占め、これに毛利領国内の他の地域出身の六家を加えると二十六戸、七二%を占めることとなる。 領外では伊予・備前・畿内・紀伊などほとんど瀬戸内で結ばれた地域からの移住である。
 

出自の身分としては三十七人中十人が浪人、武士の諸子が二人となっており武士身分からの転身の多いことが注目される。さらに商人の出自十三名とあるが中には、赤松氏浪人で三原に下り酒造業を営む三原屋三郎衛門、足利氏浪人で堺より移住してきた堺屋与右衛門、など元は武家の出身が商人の内に含まれ、これを加えると浪人はもっと増えることになる。 しかも尼子氏浪士で広島開府期特に招かれて町人頭となった平田屋惣右衛門、

大内氏浪人の野上屋吉右衛門など、広島を代表するほどの商家の地位を占めたもの達はこうした浪人からの転換組み商人達である。

歴史の転換点のこの時代、武士として志を得なかった才覚ある人たちが新しいタイプの豪商として新天地に羽ばたく機運が開かれていたものであろう。

毛利氏の場合、旧来の特権を受継いだ座司商人・職人や鞆・尾道に成長してきた豪商らを、特に新城下町に誘致するなどの政策は基本的に取られてない。一般に近世では特権商職人らとともに近在の地域経済の拠点都市を町ぐるみ移して来る例が多いが 広島ではほとんど見られない。例えば廿日市は内海水運の幹線ルートに直接結ばれた宮島と一体となって、佐西郡一帯と周防にわたる地域経済の拠点都市として発展していたが新城下町の建設に伴ってその地位の変更を迫るような措置は行われていない。秀吉の進めた兵農分離、農商分離による経済の城下集中は広島では行われなかった。

ともあれ一一二万石の大領国の首都として新しく開かれた広島は内海航路に臨み四通八達の交通の要地である。築城、島普請、動員される夥しい人口の集中、物流の増大、武家居住者の増加は商職人にとっても最も魅力ある活動の新天地であったことに疑いはない。来住した有力商人の中には自ら町地の造成に協力した者も見られたほどであるから開かれた町地は希望に応じてそれぞれ配分されたと考えられ、しかも後世から推して地代は免除されていたと思われる。 平田屋惣右衛門が「町人頭となり、町中の支配をなせり」芥河屋助右衛門が「目代役としてこれを助けた」とあり町人を代表する両役の支配に任せていたのであろうか。

しかし 毛利は文禄・慶長両度の朝鮮出兵に奔走させられ、慶長五年(一六〇〇)の関が原の役に敗れて広島を去る時、なお城郭の惣構の矢倉などは未完成であったと伝えられ、町方の整備などにもなお意に任せぬことが多かったと思われる。   

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