中世安芸の国の風土を形成するのに大きな影響を与え、また安芸国人を歴史的な役割にも駆り立てた精神的な支柱として、浄土真宗を置いて語れない。 浄土真宗と広島の深い関りを例証する事例を挙げてみました。 合わせて広島の歴史的産業、延いては広島に近代の軍需産業、戦後の自動車、機械工業などの産業立地をもたらす先駈けとなった伝統産業の萌芽/醸成にも触れてみました。現在の広島人の気風、風土に繋がるものがあるのでないか思いを馳せることが出来ます。
1)毛利水軍―草津城主児玉守就-と安芸門徒「備前法華に安芸門徒」 世に知られたのは石山合戦の時になる。
織田信長の石山本願寺攻略に対し本願寺十一世顕如上人の檄に応じ、毛利氏配下小早川、村上水軍が兵糧を運び本願寺を助けた。
この頃から安芸真宗の勢力が国中で力を増した。真言宗や禅宗寺院から真宗への転向も相当あった。
天正四年 (一五七五)七月 毛利水軍の将 ―草津城主児玉守就- をはじめとする村上水軍を主軸とした数十隻の軍船は 兵糧米三千石を幾多の困難を克服して大阪に運び込んだ。 小躍りして喜んだ顕如上人は、親鸞上人直筆の「南無阿弥陀仏」の名号を児玉守就に与えた。 守就は面目をほどこし帰路に着いたが船が高砂沖に来た時、一天俄かにかき曇り大暴風雨となり、船は木の葉のように波にもてあそばれ、乗員は生きた心地もしなかった。その時守就はフト顕如上人にもらった六文字の名号を思い出し、これを海神に捧げて助けを求めた。 大切な名号を荒海に投じると不思議や大暴風雨は収まり故郷に帰り着くことができた。 ところが船から上陸しようとすると、海神に投じたはずの名号が船の梶にかかってキラキラ輝いているではないか。 一同は「梶掛けの御名号」として祭り今でも児玉家に保存されている。
2.)寺町
福島正則は寺町を造った。 防御上の砦の意味であった。 真宗寺院の勢力を表す結果となった。寺町仏護寺は最東北の一段高い所にあった。その並びに六寺、反対側に六寺が整備された。
仏護寺は一四五九年 武田氏の祈願所として銀山城下龍原に建立され当時は天台宗であった。
一四九六年 真宗に転じた。 武田滅亡後中山村に転じ毛利氏より寺領を与えられ保護されてもとの龍原に戻った。幕府の宗門改め、キリシタン弾圧、を経て仏護寺は広島の頂点にあった。十二坊と数十の末寺を持つ強大な勢力を誇った。
しかし一七〇一年 藩が十二坊を院内寺院と取扱うとし十二坊の反対に合い安芸門徒もこれを支えたため五年間の抗争の上ついに藩が折れた。
安芸真宗は三業惑乱を唱えた可部福王寺の大エイを初め安芸の国から芸轍と呼ばれる学僧を輩出し本願寺内での一大勢力を形成した。
3.)僧誓真
一七九一年 大工町(堺町)の米屋に1人の婦人が子供の着物を持って米を買いに来た。
米屋はその着物にまだ温もりがあるので訳を聞いてみた。 婦人は子供が寝ている間に着物を剥いで米を買いに来たと言う。 米屋は着物を返し米を与えてその日のうちに宮島で光明院の弟子になった。 その弟子はやがて僧誓真となった。宮島で井戸を掘削して不便から島民を救い 観光産物として琵琶の形の杓子を教え、島民から仏のように崇められた。 彼は没する四日前に大工町の自宅に帰り四日後に死ぬと言ってその通り亡くなった。
広島がたたら製鉄に源を発する鉄工業と伝統的綿工業の盛んな地であったことが幸か不幸か軍需物資の生産、軍都ととしての成立要件に結びついたことは言うまでない。中世の広島の伝統産業はどんな様子でどのように現在まで受け継がれたのでしょうか。
当時の産業に関する記述を抜粋しました。
4.)牡蠣のひび立養殖法
一六七〇 松山藩 松平定行が牡蠣七十俵を広島から持ち帰り領内で分けたとの記録があり当時広島牡蠣の名声があったことを物語る。
元禄年間 草津の業者が大阪に舟を繋ぎ広島牡蠣料理を十一月開店二月閉店で営業していた。 おりしも一七〇七年 大阪大火の際 草津村五郎左衛門が奉行所の制札を船に移して守った功で草津牡蠣船は特権を与えられ 草津と仁保の牡蠣が大阪を独占した。
その後 船越・海田・矢野・坂が株仲間を組織し次第に市場を巻き返したとのこと。
5.)紙子
一六四六年 紙方設置 仕入銀を与え元利の紙を庄屋元へ集め検査する体制ができた。
宝永三年 三川町に紙座、紙蔵を設置し 楮(コウゾ)の支給、紙漉きから製造、蔵庫へ格納するまで厳重に管理された。 官印を押したものは公用に供し余りを商人に売った。
一七二五年 山県・佐伯で80%の生産。一八一一年までに厳重品質管理のため相当名声を上げ生産額も上昇した。
6.)麻
十九世紀初め 安芸大麻は三次、高田郡、佐伯郡、三上で産せられたが特に安芸の国で盛んになったのは 十五世紀初め 安村にて土蒸法(熱湯と蒸熟させて繊維をとる)、煮扱法(剥ぎ取った荒ソを木灰と煮沸し扱ソに加工した)が考案され飛躍的に生産を伸ばしたため。生産者の工夫から生まれた生産性であった。
深川、古市、大町など太田川筋の品種は太田ソと呼ばれ重用された。 運上の制(税)を徴し藩財政に寄与した。 荒ソ、扱ソに荒縄、畳縁染布、蚊帳、鯨網、魚網など瀬戸内のみならず対馬、肥前など全国に販路を広げ特に赤白打込みは貴重品で高値を付けた。
7.)養蚕 織絹
殖産したが安芸門徒の間では特に婦女子をして「殺生の業報、恐ろしく」、と受け取られ成果は上がらなかった。 ただ幼虫の蚕が破った殻を利用して糸を取る山繭紬が可部を中心に広島の特産となった。 それも幕末に紬御場所と言う取引所が設置され問屋からの強制力により藩の収奪を受ける制度となったため、明治に入って八木の渡しに三十数名の婦女子が集まり陳情騒動が起きた。 庄屋が聞き入れてとりなしたが婦女子だけの決起として当時では珍しい事件と言える。
8.)安芸木綿
沿岸五郡 特に広島城下を中心に十六世紀末からその生産が始まった。
一六二六年 他国への販売、生産拡大と品位の低落を防ぐため綿座が設置され 綿運上(税)を徴した。 繰綿、実綿、が俵で入荷・移送され、繰綿職工のみならず下級武士の内職にも供された。
一六九七年 中島本町(材木町入口東南)に繰綿請所、一七一〇年綿改所が設置された。 城下には百五十-百六十の繰綿屋があった。一七八〇 他国へ一万反移出、天明六年 大阪へ十万反移出、 一八四二 生産と流通の統制を受け大阪の丹波屋扱いに集約させられたため木綿の値段が下がった。一八五九 生産者の不満が通り再び勝手売りが認められた。製綿業は広島の主要産業であり、その後の産業立県をなしていく上で基礎的な素地を養ったと言える。
以上
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