ひろしま通 Map    ひろしま通がオススメする食・買・見学スポットをMAPにしました。!!
本文へジャンプ
          広島城下歴史散歩


         2.輝元の築城決断の背景と広島城の役割

        

毛利輝元は父隆元が亡くなった時、若冠12才で十五代の毛利家を継ぎ天正元年(一五七三)十九歳で陰陽十州の太守となったが、その陰には叔父小早川隆景、吉川元春の力に預かっていたことは勿論である。特に小早川隆景は輝元に忠言を惜しまなかったし、輝元もまた隆景の忠告に従った。輝元にとってもう一人よき相談相手は、この隆景の異母兄弟とも言うべき元就の妾腹の子、二宮太郎左衛門就辰の存在であった。広島築城という毛利家にとっては世紀の大事業に、就辰のような手腕家を得た輝元も幸福であった、と言わねばならない。広島築城後九年七ヵ月にして不幸にも、関が原の役が起り、山口に移封されたものの、十五代毛利家相続人として傑物というべきであろう。

輝元の先祖は大江広元で、毛利家は別称を大江氏と称して誇りにしていた。それで五箇の庄デルタに築城したあかつき、命名する地名の冠字には広を付けることは決定ずみであったようで、ことに広は末広などの広で広大と言う縁起のいい字でなおさらだった。

次の字は五箇の庄デルタの造成が徹底的に島から島への島作りであったこと、に加えてデルタの元締めというべき毛利水軍-川内衆-の長で「島作りの案内役」として活躍した福島大和守信房の苗字に島の字があったことが、島を用いる理由であったとされる。

輝元が難攻不落と言われた吉田の郡山城をすてて荒涼たる五箇の庄に広島城を築くことになったのはなぜであろうか。

秀吉が中国の毛利と備中高松城を巡って激しく対峙していた時、天正一〇年六月二日(一五八二)、突如本能寺の変が起った。 秀吉は間一髪毛利と和睦を整えて逆将明智光秀を討ちに引き返した。 この時毛利は事態に気付き秀吉を討ちに動こうと決起する将もいたが小早川隆景、安国寺恵ケイ 等は毛利百年の計を考え輝元に押し留めさせた。

 秀吉はその後光秀を討ち天下統一を果たしたが中国の雄毛利のことは念頭を離れなかった。毛利が吉田郡山城の天険に本拠を構えていては、万一というときに大兵を率いて征伐することは出来ない。 かって尼子が吉田に大軍を入れた際、大敗を喫した例を見ても明らかである。そこで毛利の本拠地を攻めるに攻めやすい平地に移転させる必要があると、太閤秀吉が考えた結果、葦の原の広がる五箇の庄-広島-へ築城させることであった。 そこで秀吉は播州滝野の城主蜂須賀政勝へ秘密命令を出した。 命を受けた政勝はブラリ吉田を訪れ何食わぬ顔で「こんないなかくさい吉田の地に住むよりも京大阪の都会に出るにも船便のよい五箇の庄の地へ城を築き産業の発達を図るに如くはない」とすすめた。「城を奥地山上に構えるのは群雄割拠の乱世時代のことである。今や太閤秀吉の下で太平の時代になったのだから戦争の起る危険はなった。早く平野の地に城を移して産業を奨励して富強策を取ったほうが毛利家のため得策である。

 五箇の庄なれば船便もよく、毛利家興隆の基をなした厳島神社も目と鼻の先であるから、そこへ築城するのが毛利家万代の幸福となろう」と重ねて奨めた。これに対し当主輝元は大いに警戒心を起すところがあったが、叔父小早川隆景は若き輝元をかえりみながら、「政勝は太閤秀吉の密命を受けて五箇の庄の地へ五箇の庄の地へ築城をすすめにきておるのだ。 秀吉は毛利を恐れて城の移転をすすめているのだから、この際秀吉の疑惑を解いて安心させておくことが毛利家百年の安泰になる。五箇の庄に城を築いても本城を郡山城にしておけば何ら恐れることはない。」と五箇の庄の地へ築城を決心させた。

輝元の本心は太田川の白砂の上に築城するよりは、祖父元成が計画した比治山に築城したい意向であったが、比治山に築城した場合は大阪城以上の名城となる恐れがあり、太閤秀吉の疑惑を解くことが不可能のみか逆効果となる恐れがある。あれこれ相談の結果、全てを諦めた輝元は天正十六年(一五八八)京都から帰るとすぐ、秀吉の側近で最も信頼の厚い、黒田如水を築城相談役にして、いよいよ築城工事に取り掛かった。

その築城一切を指揮した影の人物は二宮就辰であった。就辰は謹厳寡黙の人で他人から饗応を受けることを好まず、また他人に振舞うこともしなかった。 部下の失態を厳しく追求する反面、釈然とすれば再び用いる雅量があった。城建設で行き詰った毛利家の財政をつぎつぎに解決し、縦横に機略をふるい四才年下の輝元のよき相談相手となって、人夫の徴発から石、材木の搬入、築城監視役・黒田如水への心づかいにいたるまで、その苦心は並たいていではなかった。 築城費の捻出に苦労した裏話として 内海の島々から購入した石材も初めは高く買い入れてドンドン搬入させ、終いには「不用」と言って結局、安く叩いた、、、などという噂話がまことしやかに残っている。

設計から城下の町割までもう一人の奉行穂井田元清が片腕となって活躍した町人、出雲国平田村の出、平田屋惣座衛門と土木全体を任された。 その後平田屋に至っては広島開府後は町人頭として藩政に貢献し毛利移封に殉じ一旦は平田へ帰ったが福島正則に呼び戻されて大年寄に任じた。 平田屋町は惣座衛門の居住地であった。

二宮就辰は関が原役後は毛利家とともに萩に移った。輝元と叔父・甥の間柄にて親密な関係を続け一六〇七年、五十九才で没した。

広島城と言えば 秀吉が朝韓征伐の時、建築中の天守閣に登り「この城は水攻めにすればすぐ落城する」と、密かに側近者にささやいた-という。 

ところが 毛利家では別の方策を建てていたようである。広島城のすぐ裏の堀に歩いて渡れるような石垣の道を造り、その行き先は藩主の茶室、縮景園に至り、その裏、常盤川に船を用意し、ここを渡れば双葉の険である。 牛田には串山城を築いて伏兵を置き、さらに日通寺、不動院の険により、毛利の本城―吉田郡郡山城まで七里の道を伏兵による無限地獄に見立てる作戦をたてていたようであ
る。 太閤秀吉の疑惑を解くべく、マンマと騙されたように見せかけ 反対に秀吉の裏をかき - 無限地獄作戦 - 広島城は囮城― を計算に入れていたとは。 攻城野戦においては天下無二の毛利家にしてこそあった軍略と思える。

 かくして 広島城五重の天守閣には大小百三十六の城楼が建ち、家臣千三百五十余(福島時代)
市中は農工商戸数三千五百余軒、人口三万六千余人の城下町の出現となった。

                         

          

 

                           

ページの先頭へ

広島城下歴史散歩トップ